電話が鳴って、ちょうど階段を下りて来た郁子は、
「出るわ、お父さんじゃない?」
と、顔を出した和代へ言った。「——はい、藤沢です」
「あ……。郁子さん……おいでですか」
男の声だ。
「私ですけど」
「何だ」
と、ホッとした様子で、「相沢だ」
「相沢先生?」
郁子は、そばへやって来たみどりの方へチラッと目をやった。
「うん。突然悪いな」
「いいえ。——何か」
郁子の服を借りて着たみどりが受話器へ耳をくっつけてくる。郁子は苦笑して押し戻した。
「実は、倉橋充江のことなんだが」
と、相沢重治は言った。「英語部で、よく知ってたんでな」
「ええ、そうでしたね」
「学校じゃ、一切倉橋のことには関知しないことにしてるから、僕も心配してるんだが……。一番仲良くしてたのがお前だって聞いたもんだからな」
「友だちでしたけど……」
「その後、何か聞いてないか。手紙とか電話とか。——僕は誰にも言わない。それは信じてくれ」
「はい。でも、今のところ何も……」
と、郁子は言った。「お宅の方でも?」
「倉橋の家か。電話しても、何と言っていいのか……。な、もしあの子から連絡があったら、教えてくれ。頼むよ」
「分りました。でも、充江がどう言うか……」
「うん。——それはそうだな。ま、ともかくよろしく頼む。元気でいるかどうかだけでも、教えてくれ」
「はい。もし何か言って来たときは」
と、郁子は言って、電話を切った。
「ほらね」
と、みどりが言った。
「こっちこそ知りたいわ、充江がどうしてるのか。——さ、お腹空いたでしょ。みんな揃《そろ》う前に何か食べとかないと、もたないよ」
と、居間を出かかると、また電話が鳴った。「今度は誰だ? ——はい」
「郁子か」
「お父さん。ロンドンから?」
と、郁子は言った。
「車の中だ。今そっちへ向ってる」
と、藤沢隆介は笑って言った。
「へえ、珍しい」
そこへ、和代がやって来た。
「お父さんよ。今車の中だって」
「ちょっと代っていただけます? ——もしもし、和代です。お帰りなさい。実は今夜のお客なんですけど、笹倉先生をお招《よ》びになりましたか?」
「笹倉?」
と、隆介の声は不審げで、「あの医者か。俺は招んどらんぞ」
「あら。そうですか。変ですね。さっき、電話で、『少し遅れる』とおっしゃってたんですよ」
「誰か——早苗が招んだのか。訊いてみろ」
「でも、どっちにしても、おみえになったら、お引き取り願うわけにも参りませんものね」
「そうだな。——まだ生きとったのか」
「もしかしたら、靖江様かもしれませんね」
「ああ、そうかもしれん。靖江はいるのか」
「まだおみえじゃありません。——え?」
少し間があって、
「あと三十分くらいで着く。一人、連れて行くから席を用意しとけ」
「かしこまりました」
和代は電話を切った。
「一人連れてくって? 誰かしら」
と、郁子がそばで聞いていて言った。
「女の方です。たぶん——新しい秘書の方じゃありませんか」
和代は、少し素気ない口調になった。「そろそろ仕度を——。キャッ!」
和代がびっくりして飛び上りそうになる。
「どうしたの? みどりじゃない、この子。何をびっくりしてるの?」
と、郁子が笑うと、
「——服が」
和代が青ざめている。
「私のを貸したから。私が二人いるとでも思った?」
「いえ……」
和代は、ちょっと息をついて言った。「裕美子さんかと思ったんです」
「すみませんね」
と、運転手が言った。「料金は結構ですから」
「当り前だ」
笹倉医師は、ブツブツ言いながらタクシーを降りた。
「すぐ空車が来ると思いますよ」
と、運転手は無責任に請け合って、車をゆっくりと走らせて行った。
駅前から乗ったタクシーが、エンジントラブルで、笹倉は途中で降ろされてしまったのである。
「今どきのタクシーはなっとらん」
と、口に出して言ってみても、当の運転手の耳には届かない。
笹倉は、やって来たことを、いささか後悔し始めていた。——確かに藤沢の家には大分儲《もう》けさせてもらったが、それはもう二、三年前の話だ。
二、三年? いや、もっと前だったろうか。四年か? 五年だったろうか。
もう忘れちまった。ともかく昔の話だ。
いい金になった。——何もしないで、あれだけ稼いだんだからな。あの家には感謝しなきゃならん……。
もっとふっかけても良かったかな。あの家にとっちゃ大変なことだったんだ。あれがもし公になったら——。
それを思えば、あの倍はふっかけても良かった。そうだとも。
——空車は、なかなかやって来なかった。
あの運転手め、いい加減なことを言いおって! 笹倉は腹を立てていたが、いくら腹を立てても、空車が来るわけではない。
ふと、目の前があの坂だということに気付いた。そうか。こんな所で降りたのか。
笹倉は、ゆるく曲線を描いて、どこか遠い別世界へと続いているような坂道を、そっと見上げた。
今思い出してもゾッとする。——あれは何だったのだろう?
藤沢裕美子の棺が坂道に落ちて壊れると、血が——それもたった今、生きている裕美子に刃物を入れたような、生々しい鮮血が溢《あふ》れ出るように坂道に流れた……。
いや、逆だったか? 血が溢れ出たので、棺を落としたのか——。
もう細かいことは忘れてしまった。憶えているのは、あのときに青ざめていた藤沢やその女房の顔、そして、壊れた棺から投げ出すようにはみ出ていた、裕美子の白い手……。
フン、と笹倉は肩をすくめて、首を振った。
——もう忘れていたのに。
今日はどうしてここへ来たんだったか? ああ、そうだ。あの下の娘、例の娘の誕生日だと言ってたっけ。何て名だったか……。
聞いたような気がするが、もう憶えていない。
うん。大体、誰が電話をよこしたんだったかな?
昨日、こっちがいい加減酔っ払っているところへ——。
「笹倉先生でいらっしゃいますか」
そう言ったんだ。——うん。女の声だった。若い女のようだった。
「ああ、笹倉だ」
と言うと、
「先生ですか。まあ、ちっともお変りになられないんですね。お声は以前のまま」
と、その女は言った。「ごぶさたしまして」
「ああ……。いや、どうも」
「お分りでしょ、私のこと。藤沢の……」
「うん、ああ、もちろんだ」
「良かった! まだまだしっかりしておられますね」
「当り前だ。ちゃんと働いとるからな」
「まあ凄《すご》い! 先生、それでね、今日お電話さし上げたのは、明日うちで郁子の誕生日のお祝いをするんですの。先生にも、ずいぶんお世話になりましたから、ぜひおいで願いたいと思いまして」
郁子。——藤沢。ああ、そうか。あの藤沢だ。郁子ってのはあの娘だ……。
そう言われて、正直迷ったのだが、
「みなさん、先生にお目にかかりたがってるんですよ」
と言われると、何かうまい話でもあるか、という気になった。
「じゃ、行かせてもらうよ」
「良かった! じゃ、お会いするのを楽しみにしておりますわ」
「ああ、こっちもだ」
「七時には食事を始めたいと思っていますので」
「分ったよ。ええと……」
「場所は憶えておいでですよね。〈人恋坂〉の上です」
人恋坂。——そう、そんな名だった。
笹倉は、電話を切って、さて、今のは誰だったのかと首をかしげたのだが……。まあ、誰だっていい。向うへ着けば分ることだ、と思い直した。
——人恋坂か。そうだった。
笹倉は、坂の下へ行って、ゆるく曲線を描きながら夜の中にひっそりと静かな坂道を見上げていた。
来て良かったのだろうか、本当に?
笹倉は、ふといやな予感を覚えた。今の自分がひどく場違いな気がして、何だかここで突然夢から覚めたようでもあった……。
「あの……」
と、おずおずとした声。
振り向くと、高校生らしい制服の女の子。鞄を前に両手でさげて、
「ここ、上って行かれるんでしたら、ご一緒してもいいですか?」
と言った。
「うん? ——この坂を?」
笹倉は、少女を見て、それからまた坂を見上げた。
「一人だと怖くて……。もし、よろしかったら、一緒に上って下さい」
少女は、言葉づかいこそ落ちついていたが、そのつぶらな眼差しは哀願するような表情を浮かべていた。
この坂を上る? とんでもないことだ!
笹倉は、とてもそんな気にはなれなかった。
「しかし……この坂は、ちょっとね」
と、曖《あい》昧《まい》に言うと、
「あ、ごめんなさい。私、てっきり——」
と、少女は口ごもった。「すみません。私、早とちりして」
「謝ることはないよ」
と、笹倉はつい微笑んでいた。「ここを上るのは大変だろう。この先を回って行けばいい。バスも通るよ」
「いえ……。ありがとうございます。私、急ぐものですから。——一人で上ります。お邪魔してすみませんでした」
「そうかね……。ま、気を付けて」
笹倉はそう言って、坂道を上って行く少女の後ろ姿を見送っていたが……。
「——待ちなさい」
と、声をかけていた。「君!」
少女が振り向く。
「私も行こう」
「でも——ご無理なさらないで下さい」
「なに、今どきの若い奴とは鍛え方が違うぞ。この坂ぐらい……。少しゆっくり上ってもいいか」
少女は楽しげに笑った。
「はい、結構です」
「よし! それじゃ二人で坂を上るとしようか」
笹倉は、とりあえず少し大《おお》股《また》に上り始め、その少女に追いついた。
「じゃあ——手をつなぎましょう」
少女が差し出した白い手を、笹倉はつかんだ。
その柔らかな感触は、笹倉をドキリとさせた。
「いいですか?」
「ああ、もちろんだとも」
笹倉も、つい笑っていた。
ずいぶん長いこと、笑うなんてことを忘れていたような気がした……。
「今晩は」
と、玄関で声がした。
むろん、すぐに分る。柳田靖江だ。
「叔母さん、いらっしゃい」
と、郁子は玄関へと急いで出て行った。
「あ、郁子ちゃん。お誕生日、おめでとう」
と、靖江はよっこらしょ、と上って来て、「もう十六ね! 早いもんだわねえ。お父さんは帰って来た?」
「今、途中。でも、飛行機じゃなくて車の中だから、じきに着くでしょ」
「あら、そう。じゃ、あの人にしちゃ上出来だ」
と、靖江は笑って言った。
「あ、靖江さん」
早苗が出て来た。
「早苗さん。元気?」
「ええ。どうもわざわざ。——さ、入って」
「ありがと。お招きいただいて、ってこっちが感謝しなきゃいけないところね」
「何を言ってるの。もう、食事を始めちゃってもいいけど……」
「でも、兄を待ってましょうよ。始めてなきゃ、『どうして始めなかった』って言うだろうけど、始めちゃったら、今度はきっとむくれるのよ」
さすがに妹だけあって、隆介のことは良く分っている。聞いていて、郁子はおかしくなった。
居間へ入った靖江は、
「あら、久しぶり」
と言った。
圭介が、少し前に着いていたのである。
「どうも」
圭介は小さく会釈をした。
「結婚したんですって? 届をさっさと出しちゃったって、兄さんカンカンで、電話して来たわよ」
と、靖江がソファに腰をおろして、「ホステスですって? やめときなさい。この家の財布が目当てよ」
と、いつもの調子。
「叔母さん」
と、郁子が言った。「沙織さんよ、お兄さんの奥さん」
手洗いに立っていた沙織が、居間へ戻ったところだった。
「あ、いらしてたの」
靖江はさっぱりめげてもいない。パッと立つと、
「初めまして、柳田です」
と、何くわぬ顔で挨拶している。
見ていた郁子は、その「切り換え」の素早さに感服してしまった。
沙織だって、間違いなく靖江の言葉を耳にしているはずだが、やはり至って礼儀正しく、挨拶を返した。やや冷ややかに聞こえたのは仕方なかっただろう。
「母さん、後は誰が来るの?」
と、圭介も話をそらしている。
「後はお父さんが帰ったらね……。他には梶原さん。車の具合で、少し遅れるかも、って連絡があったわ」
「梶原……。ああ、あの? 今、どこだかのプロダクションにいるんだろ?」
「そうよ。お父さんが紹介してね」
と、郁子が言った。
「良く知ってるじゃないか」
「奥さんもみえるわ、きっと」
と、郁子は、関係ないことを言って、「みどり、お腹の方は大丈夫?」
「うん。軽くいただいたから」
みどりが入って来て、ソファに落ちつく、
「——私、失礼した方が」
と、突然言い出したのは、沙織だった。
「何だい、急に」
と、圭介がびっくりしている。
「お義父様がお帰りになる前に。——私がいるとは思ってらっしゃらないわ」
「構うもんか! 君は僕の女房だぜ。帰るのなら、僕も一緒さ」
「あなた。忘れないで。今日は郁子さんのための集りよ。そんなことで台なしにしたくないの」
「そんなこと。——沙織さん、いて下さい。私も、一人でも女の人が多い方が楽しいの」
郁子が、ためらいもなく言ったので、すっかりけりがついてしまった。
沙織は無言で郁子に感謝の気持をこめた視線を向けた。
ほとんど間もなく、
「おい! 誰かいるか!」
玄関から父の声が聞こえて来た。
「いるに決ってるじゃないの」
と、早苗が苦笑して、「——お帰りなさい、あなた」
と、居間を出て行く。
郁子も、母について行った。
「圭介は来てるか」
と、隆介が玄関で言った。「スーツケースを運ばせてくれ」
「はい。——圭介。お父さんの荷物」
「ああ。お帰り」
「車のトランクから出してここに運んでくれ」
「うん」
圭介がサンダルを引っかけ、戸を開けると、ガラガラとキャスター付のスーツケースを引いて来たのは、若いスラリとした女性だった。
「今、取りに行こうと——」
「大丈夫です。こう見えても力があるんです」
と、その女性は言った。
「おい、息子にやらせとけ。君は上って。——いいんだ」
隆介は、その活動的な印象の女性を中へ入れて、「新しい秘書の江口君だ」
「江口愛子と申します」
と、両手を揃《そろ》えて頭を下げ、「奥様でいらっしゃいますね。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ……」
早苗が、少し口ごもりながら言って、「お疲れさまでした」
「さ、上って。おい、江口君の席も用意してやってくれ」
「はい」
早苗は、ちょうどやって来た和代の方へ、
「もう始めましょう。後は梶原さんだけでしょ?」
「はあ……。笹倉先生が」
「あ、そうだったわね」
「あの医者、招んだの」
と、圭介がスーツケースを廊下へ上げて、「やれやれ。重いね。何が入ってるんだい?」
「色々付合いってものがあるんだ」
と、隆介は言って、郁子の肩を抱くと、「お前も大きくなった。なあ、早いもんだ」
いやに上機嫌である。酔っているのかとも思ったが、アルコールの匂《にお》いはしない。
「——おお、来てたか」
隆介は、居間へ入って、妹の靖江を見ると、早速江口愛子を紹介した。
「お父さん」
と、郁子が言った。「沙織さんも紹介してあげて」
圭介が、居間の入口で足を止める。沙織は何を言われても感情を表に出すまい、という様子で立ち上った。
緊張した空気が一瞬、漂ったが、
「良く来た。体の方は大丈夫かね」
と、隆介は至って屈託のない口調で言ったのである。
「——はい、ありがとうございます」
沙織の顔に、意外そうな色が浮かぶ。
「ま、大事にしなさい。今が大切な時期だ、江口君。息子の圭介の奥さんで、沙織だ」
よろしくお願いいたします、と二人の女が挨拶を交わす。
圭介と郁子は、そっと顔を見合せた。——父がこんな風に態度を変えることは、想像もつかなかったのである。
もちろん、郁子もホッとしていた。しかし人間、「いつもと違うこと」はめったにしないものだ。
しかし、ともかく今は取りあえず喜んでおけばいい。——郁子は、ふと居間から母が出て行くのを見た。単に夕食の仕度のために急いでいただけかもしれないが、郁子の目には、なぜか母が「逃げ出して行く」ように映ったのだった。
食事を始めて間もなく、梶原が奥さんを伴ってやって来た。
「——誕生日おめでとう」
と、プレゼントを手渡してくれる梶原は、久しぶりに見る郁子に目をみはって、「やあ、すっかり大人になったね!」
その、感嘆の声には、遠い昔、梶原が裕美子を訪ねて来ていたころの面影があったが、しかし、今の梶原の外見は、あのころからの時の流れを感じさせて余りあるものだった……。
「やあ、すっかり中年じゃないか」
と、圭介が言うと、
「あなた、失礼よ」
と、隣で沙織がつつく。
——夕食の席では、さすがに接客を仕事にしていた沙織が、それとなく話を淀《よど》みなく流す役割を果していた。
「なに、梶原君とは古い付合いだ。なあ」
「お互い様じゃありませんか。特に額の生えぎわの辺り」
と、梶原がやり返し、みんながドッと笑った。
隆介が江口愛子を紹介すると、梶原はたまたま向い合せの席に座ったせいもあってか、
「先生のお仕事は大変でしょう」
と、話しかけた。
——これだけの人数がテーブルにつくと、両端の人間同士は話がしにくいので、どうしても左右で話が分れる。
郁子は、時折みどりとおしゃべりしながら、ひたすら食事に専念していた。どうせ、こうして集まれば中心は父、隆介ということになるし、郁子としてもその方が気楽だったのである。
みどりも、食べることにかけては熱心な子で、郁子は途中、手を止めて、並んだ顔を見回す余裕があった。
久しぶりに見る梶原は、哀《かな》しかった。単に太ったとか、髪が薄くなったというのではない。人は誰でも年《と》齢《し》をとり、それ相応に老け込んで行く。
しかし、梶原の場合は、藤沢隆介という「有名人」に対してどこか卑屈になっているところがあった。今、向いの席の江口愛子と話しているのも、父が彼女のことを気に入っていると察してであろう。
かつて、裕美子を訪れては、ベッドの傍で話し込み、また話に耳を傾けていたころの面影はどこにもない。求める方が無理なのかもしれないが、頭では分っていても郁子の覚えるもの哀しさはどうすることもできなかった。
この席で一番沈み込んでいたのは——意外なことに母の早苗だった。一体どうしてなのか、郁子には理解できなかったが……。
「ワイン、いかがですか」
和代が梶原にすすめる。
「ありがとう。いただきます」
「少なめにして下さい。お医者様にそう言われてるんだから」
と、妻の真子が口を出す。
郁子は、裕美子のあの葬式の日以来初めて梶原の妻を見たのだったが、これがあのとき、おどおどと台所に顔を出した女だろうか、と思った。
落ちつき、と言えば聞こえはいい。夫が一度失業して、隆介にすがって何とか仕事を見付けられたことも、むろん承知だろう。遠慮というものがほとんど感じられない。
大きな声でしゃべり、笑った。——ワインを、夫の倍は飲んでいる。
「お医者様っていえば……」
と、和代がふと思い出したように、「笹倉先生、どうなさったんでしょ」
テーブルの端に、一つ席が空いている。今まで、郁子はそのことを忘れていた。
「放っとけ、大体、誰が招んだんだ?」
と、隆介が言った。
「さあ……。靖江様かと——」
「私? 違うわよ! 私、知らないわ。会いたいとも思わないもの」
と、靖江は訊かれていないことまで言った。
「じゃあ……誰?」
と、早苗がテーブルを見渡す。
おしゃべりが止んで、ふと静かになったが、誰もが顔を見合せている。
「おかしいわ」
と、早苗が首をかしげ、「誰も招ばないのに、どうして郁子の誕生日を知ってるの?」
「それに……。お電話があって、かれこれ一時間ですよ。いくらのんびりいらっしゃるとしても……」
と、和代が時計を見て言った。
「どうだっていい」
と、隆介が肩をすくめて、「もう大分もうろくしとるだろう。道にでも迷ったんじゃないのか」
「そうね、結局やめることにしたのかもしれないわ」
と、早苗が気を取り直した様子で、「和代さん。どんどん食べてしまいましょ。その後でケーキを——」
「はい。あ、電話だわ」
と、和代が言った。「笹倉先生かも」
郁子は、何となくその電話が自分あてにかかったもののような気がした。時々、こうやって「感じる」ことがある。
「——郁子さん。お電話」
やっぱり。
席を立って行く。——受話器を取ると、
「はい、郁子です」
「あ。——倉橋です。充江の母です」
「どうも。あの……」
充江から何か言って来たのだろうか。——少し、電話が遠いような気がした。
「あなたに知らせなくちゃと思って」
と、充江の母親は言った。「今、K温泉にいるんです」
「はあ」
「ここの警察から連絡をもらって。今、充江と確認したところです」
「確認……」
「自殺しました、あの子」
涙声でもなく、激するでもない。その言葉は、郁子の胸に切り込んで来た。
「じゃあ……二人で?」
「いいえ。それなら、まだ……。いえ、せめてあの子が自分の好きな人と死んだのなら、あの子は幸せだっただろうって、自分を慰めることもできたかもしれませんけどね……。郁子さん」
「はい」
「あの子は一人で、あの旅館でずっと待っていたんです。好きな男が来るのを。旅館の人には、『仕事の都合で遅れて来る』と言って、自分の年齢を二十歳だと偽って。でも、一週間もやって来ない、電話もかからないなんて、そんな恋人がいます? ——結局、旅館の人が怪しんで警察へ届ける相談をしているのを、充江は立ち聞きして、もうだめだと覚悟して……。それでも、その日の最後の列車が着くのを駅の前で待っていたそうです。そして、それにも乗っていないと知って、そのまま夜の山の中に入って行き、湖に身を投げたんです」
さすがに、母親の声は震えていた。
「そんな……」
郁子は愕《がく》然《ぜん》とした。——充江の恋は、何だったのか。すべてを捨てた充江に対して、相手の男はどうしたのか。
「——ごめんなさい」
と、母親はややあって、言った。「郁子さん、あの子はあなたのことを一番信じていたようです。ありがとう」
「いえ……」
「あ、もう行かなくては。——じゃあ」
「あの——」
と、言いかけたものの、何も言葉を思い付かない。「残念です」
とだけ言った。
——食卓へ戻ると、父がロンドンでの出来事を話していた。人前で話をすることにかけてはプロである。みんな耳を傾けている様子で、郁子にはありがたかった。
——充江。充江。
どんなに寂しかったろう。どんなにか悔しかったろう。
ただひたすら男を待ち続けた充江の、永遠のように長かっただろう一週間を思うと、郁子は身を焼かれるように辛かった。
男なんて、そんなものなの? 恋って、そんなものなの?
「——そうよ」
と、声がした。「男なんて、信じても裏切られるだけ」
その言葉を、郁子以外の誰も聞いていないようだった。
——食卓の、一つだけ空いていた席が、今は埋っていた。
郁子は、テーブルクロスを、固く握りしめた。クロスが裂けんばかりの力で。
「償わせるのよ、罪を」
と、裕美子が言った。
裕美子は、あの棺に納められたときの白《しろ》装《しよう》束《ぞく》だった。そして、首に巻いた包帯から真赤に血がにじみ出すと、たちまち白い衣装を染めて行った……。