夜。
ゆるく壁を巻くように続く人恋坂を、青白く街灯が照らし出している。
制服姿の少女が、右手に鞄《かばん》を持ち、左手で、笹倉医師の手を引いて、坂を上って来る。
笹 倉「(少し息を弾ませているが、まだ余裕がある)そうか。君もあの家に招《よ》ばれてるのか」
少 女「ええ。大丈夫ですか? 少し休む?」
笹 倉「いや……。もう大分来たさ、そうだろう? たぶん、半分以上は上って来てるね。実際、ここを上るのはずいぶん久しぶりだ。(足を止めて)何だかいやに長く感じる」
少 女「無理をしないで、一息いれましょう」
笹 倉「却《かえ》ってくたびれてしまいそうだ。いくら長くても、山登りじゃないんだし、上ろう」
少 女「そう? きつかったら、いつでも言ってね」
笹 倉「ああ、君はやさしい子だね」
少女と笹倉、しばらく坂を上って行く。笹倉、段々息づかいが荒くなって、左手をポケットへ突っ込み、探る。少女が気付いて振り向く。
少 女「どうかした?」
笹 倉「ああ……。ハンカチをな、ちょっと汗を拭こうと思ったんだが、どうやら忘れて来たらしい。(照れ隠しに笑って)なあ、少し蒸し暑い夜じゃないか」
少 女「(足を止めて)まあ、ひどい汗! 私のハンカチを使って」
笹 倉「(ハンカチを受け取り)ありがとう……。いや、実際、こんなに暑いとはね……」
笹倉、ふっとよろけて、壁にもたれかかる。少女がびっくりした様子で、駆け寄る。
少 女「大丈夫? 休みましょう。——悪かったわ。無理だったのね、この坂が」
笹 倉「いやいや……。(しゃがみ込み)それにしても……こんなに長かったかな? もう倍も——三倍も上って来たような気がする」
少 女「そんな気がするんだわ、きっと。下りならねえ、良かったのに。転り落ちれば、アッという間だわ」
笹 倉「(ちょっと、少女から目をそらす)この坂は……どうも好かん。なあ、途中からは、坂の下も、上も見えん。今までどれくらい来て、あとどれだけあるのか分らんってのは、いやなものだよ」
少 女「人生のようね」
少女、壁にもたれて、ちょっと空を見上げる。
笹 倉「(喘《あえ》ぎながら笑って)人生のようか。全くだ! 君は面白いことを言うね。しかし、私は、あとにそう残っとらん。君はまだまだ上る分の方がずっと長い」
少 女「そうとも限らないでしょう。若くたって、早く死ぬ子もいるわ」
笹 倉「そりゃそうだが……。可愛いハンカチだ。いい匂《にお》いがするね。(ハンカチを顔の近くへ持って行く)——ワッ!」
笹倉、突然声を上げて、ハンカチを投げ出す。
少 女「どうしたの?」
笹 倉「(うろたえて)すまん……。いや、今急に……何だかハンカチに……血がついているように見えたんだ」
少 女「あら! どこか、けがでも? (ハンカチを拾って)——血なんかついてないわ」
笹 倉「そうか。——いや、すまん! 君のハンカチを……」
少 女「いいえ、構わないわ。早く行って休んだ方がいいかもしれないわね。手を引いてあげるわ。行きましょう!」
少女が手を差し出すと、笹倉は催眠術にでもかかったように、その手を取り、フラリと立ち上る。
二人、再び坂を上り始める。
しかし、少し上ると笹倉は足がもつれ、苦しげに喘いで、座り込んでしまう。
笹 倉「(苦しげに息をして)もう上れん! どうしたんだ? こんなに遠いなんて。それに、真夏のように暑いぞ!(シャツの胸もとを開ける)君、すまんが、一人で上って行って、あの家の者を誰か呼んで来てくれんか……」
少 女「(振り向いて)もう大丈夫。着いたのよ」
笹 倉「何だって? ——しかし、まだ見えんじゃないか。まだ着いとらんよ」
少 女「いいえ、着いたのよ。ここで、あなたの坂は終ったの」
笹 倉「私の坂……。何の話だ?(苛《いら》立《だ》たしげに)ふざけてる場合か。早く呼んで来るんだ!」
少 女「暑そうね。でも、あの日に比べれば……。アッという間に血も乾いたあの暑さに比べれば、楽なものでしょ」
笹 倉「(少女を見上げて)何を言ってるんだ? 冗談はやめてくれ。呼んで来ないと言うんだな? それなら……。上って行ってやる!」
笹倉、這《は》うように坂を上りかけるが、ほんの数メートル進んだところで、突っ伏してしまう。
笹 倉「(息も絶え絶えに)頼む……。助けを……」
笹倉、ふと自分の手を見て、目をみはる。ガバッと起き上って、
笹 倉「(自分の手を見て)何だ、これは! 血が……血がべっとりついて! ——ここは……。そうか、あのとき棺が落ちた所か!」
制服の少女、白《しろ》装《しよう》束《ぞく》の裕美子に変る。笹倉、それを見て悲鳴を上げ、坂を這い上ろうとする。
笹 倉「近寄るな! お前だったのか! こっちへ来るな!」
裕美子「助けを呼ぶといいわ。私も呼んだ。喉《のど》を切られて、血が流れ出ていくのを感じながら、声を出そうとしたわ。一瞬の間に死ねれば良かった。じわじわと血が失われて、次第に意識が薄れていく、今、死んで行くと自分で意識している、あの恐ろしさ……。あなたも、その何十分の一でも味わってみなさい」
笹 倉「裕美子……。私が何をしたというんだ! 私は——私は——。(胸をかきむしる)苦しい……」
裕美子「私が病気で死んだと偽の証明を出したわ。お金と引き換えに、私が殺されたことを隠したわ」
笹 倉「それは……悪かった。しかし……金が必要だったんだ! 許してくれ! もう……目がかすんで、見えん……」
裕美子「苦しそうね。——楽にして上げましょう」
裕美子、落ちていたハンカチを拾い上げると、笹倉の傍に膝《ひざ》をつく。
裕美子「(ハンカチを笹倉の目の前へ出して)これが見える?」
笹 倉「よく……分らん。何か……白っぽいもんだ……」
裕美子「光ってるのよ。よく切れるでしょ、きっと。あなたは長く苦しまなくてすむわ」
笹 倉「(目をむいて)助けてくれ! 殺さんでくれ! 後生だ! 私は……言われた通りにしただけだ……(泣く)」
裕美子「一つ教えて。——私を殺したのは誰?」
笹 倉「(激しく咳《せき》込《こ》む)苦しい……。お願いだ……。救急車を……」
裕美子「言えば呼んであげる。私の喉を切ったのは誰?」
笹倉、何か言いかけて喘《あえ》ぐ。裕美子、笹倉の口もとに耳を寄せる。
裕美子「何と言ったの? ——もっとはっきり! ……」
笹 倉「私は知らん! 本当に知らんのだ……」
裕美子、ゆっくりと体を起す。そして、手にしたハンカチを笹倉の喉へ触れさせると、サッと払う。
笹 倉「(息をのみ、手を喉へ持って行く)ああ……。血が! 血が出てる! お願いだ!血を止めてくれ! ——頼む。死んでしまう……。血がどんどん流れ出て……ああ、もう目の前が真暗だ! 許してくれ……。血を……」
笹倉、徐々に体の力が脱けて、その場に倒れ、動かなくなる。
裕美子、ハンカチを笹倉の上に投げる。そして、坂の上の方をハッと見上げる。
裕美子「あなたは!」
裕美子、誰もいない坂の上をじっと見つめて立っている。
坂に、雨が降り始める。