夏は死に絶えようとしていた。
ぎらつく太陽に一瞬まぶしい夏の光を感じさせることはあっても、それはすぐに力を失って、熱い紅茶の中の角砂糖のように崩れていく。
「日の傾くのが早くなったわね」
母の言葉に、郁子はふと寂しげな響きを聞き取って、
「お母さん……。どうかしたの」
と、訊《き》いていた。
「——どうして?」
早苗の振り向く顔に、郁子はハッと胸を突かれた。光の具合か、母の髪が急に白いものを増したように見えたのである。
「持つよ、それ」
と、自分のさげていたスーパーの袋を左手に持ち換え、空いた右手で母の手からもう一つの袋を取ろうとする。
「いいわよ、これぐらい」
と言いながら、さほど逆らうでもなく渡すと、「和代さんに頼んどけば良かったわね。まさか急にお休みするとは思わなかったから……」
「いいよ。どうせ明日は日曜日だし、買物ぐらい……」
「重くない?」
「ちっとも。——こっち側、歩いたら? 日かげだよ」
「もう、日射しも大して苦じゃないわ」
と、それでも早苗はまぶしげに木々の枝を縫って落ちてくる陽光を見上げる。
「お母さん、暑さに弱いからな」
と、郁子は言った。
「本当に……。今年の夏は長かった」
と、ため息。
——この夏、早苗は暑さに負けて寝込んでしまった。胃腸がもともと丈夫でないこともあって、おかゆのようなものしか食べられず、すっかりやせてしまったのだ。
やっと起き出して、まだ一週間ほど。
昨日から出歩けるようになったばかりだった。買物も、少し値段は高いが近くのスーパーにしての帰り道。
土曜日の午後、学校から帰った郁子の顔を見て、早苗は申しわけなさそうに買物に誘ったのだった。
「無理しちゃだめだよ」
と、郁子は言った。「もう六十なんだから、お母さんも」
「そうね……。言われなくても、自分の年齢ぐらい分ってますよ」
早苗が、わざと元気なところを見せるように、可愛くすねて見せる。——郁子は、久しぶりにこういう母の表情を見たと思った。
逆に言うと、母の顔から笑顔が消えてずいぶんたつということでもある。
「あ——」
母が、何かにつまずいた。前のめりによろける。
危い! 普段なら、転ぶほどのことでもないのだろうが、今の母は踏み止まることができずに、体が前へ泳いだ。
と——ちょうどすれ違いかけた少年が、パッと手を出して、早苗の体を受け止めた。
背の高い、たぶん高校生らしいその少年は、素早く腰を落として早苗を支えたので、
「あ……。どうも」
と、早苗も胸に手を当てて、「ああ、びっくりした!」
「こっちよ、びっくりしたのは」
郁子は、あわてて、「大丈夫? ——ありがとうございました」
と、少年の方へ礼を言う。
「ほら、足下、気を付けて」
「はい、はい。もう大丈夫よ。すぐそこじゃないの、うち」
早苗は少し腹を立てている。他人の前で年寄り扱いされるのはいやらしい。
「先に、玄関開けとくから」
と、郁子が二つのかさばる紙袋を左手にまとめて、ポケットから鍵《かぎ》を出そうとしていると、
「僕が荷物を持ってるよ」
と、その少年が言った。
「え?」
「藤沢郁子って——君?」
「ええ……」
「そうか。良かった! 会いにきたけど、誰もいなくて帰ろうとしてた」
「あなたは?」
「相沢というんだ。親父が君の学校の教師をしてる」
「ああ! 相沢先生の息子さん?」
郁子はびっくりした。こんな大きな息子がいるとは思ってもいなかったのだ。
「郁子、早く鍵を」
と、早苗が言った。
「あ、はい。——どうも」
と、郁子は相沢という少年へと会釈した。
相沢則行。
それが少年の名で、郁子より一つ上の、十七歳、高校二年生だった。
「——お待たせしました」
郁子が少しかしこまって、お茶を出す。
「すぐ失礼するから」
照れているところは、柄に似合わず幼い感じである。
「先生、具合はどうなんですか」
と、郁子はソファにかけて訊いた。
相沢は夏休み前から少し体調を崩していたが、休み中に入院したとかで、二学期になってからはずっと学校へ出ていない。
「うん、大分良くなったんだけど、何しろ夏の間、寝込んでいたんでね。もう少し体力が戻ってからってことにして」
「良かった。今年の暑さひどかったものね」
と、つい気楽な口をきいてしまう。
「これ……。預かって来たんだ」
と、相沢則行はポケットから取り出した物をテーブルに置いた。
キーホルダーである。小さな、木彫りの熊が鎖の先についていた。
「これ……。もしかして——」
見憶えがあった。手に取って、
「あの——充江のでしょ? 倉橋充江の」
「うん。英語部の部室に落ちてたんだって。親父が、あの後で拾ってね。きっとその子のだと思って遺族に渡そうと思ったらしいんだけど。病気で渡しそびれて、ずっと持っててね。気にしてたんだって。二、三日前に、退院のときに失くすといけないからって、僕に預けたんだよ」
「そうですか……」
郁子は、そのキーホルダーにまだ充江の手のぬくもりが残っているかのように、そっと両手の間に挟んだ。
「君に渡せば、遺族に届くだろうって……。迷惑かな」
「いいえ、ちっとも! できたら、私が持っていたいけど。うかがってみるわ、充江のお母さんに」
と、郁子は言った。
「——仲が良かったんだね」
と、相沢則行は言った。
「友だちだった。本当の友だち。自分が信じた分だけ、向うも信じてくれてるって分ってた。そんな人って少ないわ」
「そうかもしれないね」
「可哀そうに、充江……。まだ分らないんですよ、充江の待ってた男が誰なのか」
と、郁子は言った。「充江の恨みが届いて死んじゃえばいいんだわ」
則行は何も言わずにお茶を飲んだ。
「でも……充江の恨みじゃなくて、私の恨みかな。充江が男のことを恨んでたかどうか、分らないし」
と、郁子は言って、木彫の熊をそっと指先で撫《な》でた。
「でも、ひどい話だな」
と、則行は言った。
「ねえ。——でも、充江はきっと恨んでなかったと思う」
「どうしてそう思うんだ?」
「恨んでたら、自分が死ぬことを男に言い遺《のこ》していくと思うの。それとも、遺書で男の名前を明かしておくとか」
「そうか……。何も遺さなかったのか」
「ええ。遺書はなかったの。知らなかった?」
則行は肩をすくめ、
「細かいことは知らないんだ。親父も話したがらないしね」
「そうですね。——ごめんなさい。あなたは充江のこと、知らないんですものね」
郁子は、電話が鳴り出したので、「ちょっとすみません」
と、立ち上る。
「あ、もう失礼するから」
と、則行が声をかける。
電話に出た郁子は、
「——はい、藤沢です。——お兄さん? どうしたの」
と、訊いて、「——え? 本当? おめでとう! ——お母さん」
早苗がタオルで手を拭きながらやって来る。
「何なの、お客様の前で大きな声出して」
「お兄さんよ。沙織さん、女の子が産まれたって!」
早苗は、ちょっと無表情になった。
「そう。——無事ですって、沙織さんも? 良かったわ。おめでとうと言っといて」
「ちょっと、お母さん!」
郁子は、母が台所の方へ戻って行ってしまうのを見て、ちょっとため息をついた。「もう……」
送話口を手で押えていたので、兄の耳に届いてはいないだろうが、それにしても、父が今ではそういやな顔を見せないのに、なぜか母の方は頑《かたく》なである。
「——あ、もしもし」
と、郁子は明るい声を出して、「お母さん、今手が離せないの。沙織さんにおめでとうって」
「分った」
圭介も、事情は分っている様子だった。「ともかく、一応知らせとこうと思ってさ」
「見に行ってもいい?」
郁子の言葉に、圭介は嬉しそうに、
「いいよ、もちろん。でも——忙しいんじゃないのか」
「明日は日曜日。いいときに産れて来たよね。名前、決めてあるの?」
「まだこれからさ」
「そう。楽しみだね。じゃ、後で行くよ」
「分った。俺もいるから」
「じゃあ」
電話を切って、「——あ! ごめんなさい!」
相沢則行が、どうしたものか困った様子で、突っ立っていたのである。
「——坂を下りると近いの」
と、玄関を出た所で郁子は言った。「じゃ、どうもありがとうございました」
病院へ行くので仕度をして、相沢則行と一緒に出て来たのである。
「僕も下りよう。駅へ出るのも、その方が近いんだろう?」
「ええ。でも——長いですよ、坂」
「下りじゃないか。それに、もう暑くないし」
「そうね」
と、郁子は微《ほほ》笑《え》んで一緒に坂を下りて行ったのだが……。
「——私の部屋からここが良く見えるの。ほら、あの窓が私の部屋」
と、足を止めて、指さす。
そんなことを教えてもらっても相手は面白くもあるまいが。
「長い坂だね。何という名前?」
「この坂? 〈人恋坂〉」
「へえ。ロマンチックだな。ここを通ると恋でもするの」
「そうじゃないわ」
と、笑って、郁子は名前の由来を教えてやった。
「——君はやさしいな」
ちょっと唐突に聞こえて、
「どうして?」
「兄さんに気をつかって。——聞いてて、良く分ったよ」
「変なこと聞かれちゃって」
と、少し頬を染め、「母がお嫁さんのこと、気に入ってないの。それで……」
「分る。どこだって、そういうことはあるさ」
と、則行は足下に目を落としながら、「でも、やさしそうなお母さんじゃないか」
郁子は戸惑った。否定するのもおかしなものだが、ええ、と言うのもなぜかはばかられる。
一つ年上のこの少年が、何か鉛のように重いものを呑み込んでいることを、郁子は敏感に感じていた。
無言になって、二人は坂の下の方まで下りて来た。——妙な気分だった。郁子は、あれこれしゃべっているときは何ともなかったのに、こうして黙っていると「何か話さなくちゃ」という気持にせかされて、それでも何を言っていいのか分らず——ついさっき会ったばかりなのだから当然だが——ただ気持ばかりが胸の辺りにひしめいて熱でも発している、という具合だった。
今日の坂はいやに長くも短くも感じられた。早く下まで着いてほしいと思いながら、下へ着いたら、何だかもう話ができないような気がしていたのである。
「——あ」
妙な所で、妙なことを思い出すもので、「いけない!」
「どうかした?」
と、則行が顔を向ける、
「お財布が……。バッグ、違うの持って来ちゃった。これじゃ、バスにも乗れないわ」
と、小さく舌を出す。
「何だ。貸してあげるよ、バス代くらいなら」
「いいえ。何かお菓子くらい買ってってあげようと思ってたから。一《いつ》旦《たん》戻るわ。坂を上るだけだから」
「大変だね」
「慣れてるの、ここを上り下りするのは」
と、郁子は笑って、「ドジだなあ。こんな風だから、いつまでたっても……」
もう、坂を下り切った所である。
「じゃ、ここで。——ありがとうございました」
と、郁子はピョコンと頭を下げた。
「こっちこそ——。また……会いたいね」
そう言って、少し照れたのか、「それじゃ!」
と、則行は小走りに行ってしまった。
郁子は何となくホッとした気分で、というのも、もし駅までずっと一緒だったら、途中何を話していようかと悩みそうでもあったからだ。
また会いたいね。——十七歳の男の子が社交辞令でもあるまい。
少し遠くまで行って、則行が振り返り、手を振った。郁子も手を振り返して、
「気を付けて……」
などと、聞こえるはずもないのに呟《つぶや》いていた。
郁子は、坂道を上り始めた。
何だかいやに足どりは軽くて、いつもよりずっと早く上って行く。
きっと母が笑うだろう。いや、笑ってくれれば、それはそれで郁子のドジも少しは役に立ったというものだが……。
相沢先生のお宅も、あの則行の口ぶりでは色々あるらしい。——もちろん、あって当然なのだろうが、特に病人がいると家庭の中は何かと大変である。
郁子の家に、もし和代を雇うほどの余裕がなかったとしたら、寝たきりの裕美子と、赤ん坊の郁子を早苗がみることは、とてもできなかったに違いない。もともと早苗は丈夫ではないし……。
タッタッ。——小気味よく路面を踏んで上って行く郁子は、何か黒い汚れが同じくらいの間隔を置いて路面に残っていることに気付いた。
何だろう? 泥ではあるまい。別にこのところ雨もないし、水たまりらしいものも見当らなかった。
この跡は——たぶん、あの相沢則行の足跡だ。たった今下りて行ったのだから、道のどの辺を通っていたかも憶えている。
坂を上って行くと、路面に規則正しく印された汚れは少しずつはっきりと、わずかずつではあるが、大きくなって来た。
上りながら、郁子の目はひたすらその「汚れ」に引き寄せられていた。——一歩、また一歩と上って行くにつれ、郁子の顔は厳しさを増し、心臓は次第に早く打ち始めた。
まさか。——どうしてそんなことが?
しかし、やがてそれは疑いようのない事実になった。
間違いない。でも、なぜ?
郁子は足を止めた。——だが、そこから足跡は始まっていた。そして、第一歩はくっきりと靴の形を描き、その色さえも……。
郁子はかがみこむと、手を伸し、指先でそっと黒ずんだその跡に触れてみた。
郁子は自分の指先を見て青ざめた。——指先は汚れていた。血の、生々しい赤が、指を濡《ぬ》らしていた。
「お姉ちゃん……。どうしたの? どうしてこんなことが……」
呟《つぶや》くと、郁子は周囲へ目をやった。誰かに見られているような気がした。
「お姉ちゃんなの?」
郁子は不安になって、口に出してみた。
むろん返事はなかったが、郁子には分っていた。どこかから裕美子がじっと自分を見つめているということが。
ふと日がかげった。
まるで、突然夜になったようで、郁子はドキッとした。坂だけが影に包まれたかのようで、しかし、それは長くは続かなかった。
すぐに坂に日が射し、郁子はホッとした。大方雲が通って日を遮ったのだろう。
そして、郁子は再び足下に目を落として、立ちすくんだ。
あの足跡が、消えていた。下へずっと続いていたのが、すべて跡形もなく消えていたのである。自分の指を見ると、やはり血の汚れなど幻だったかのように、きれいになっていた。
そして——郁子には分った。
裕美子の気持が、分ったのである。
「あら、郁子ちゃん」
振り返る前に、それが誰だか分っていた。
「今日は、叔母さん」
それにしても意外だった。——どうして柳田靖江がこんなに早く病院へやって来たのだろう?
「珍しい所で会うわね」
と、靖江は言って、ふと真顔になり、「ちょっと。——ちょっと」
と、郁子を引張るようにして病院の廊下の奥へと連れて行く。
「叔母さん……」
郁子は面食らっている。「どうしたんですか?」
「どうした、じゃないわよ」
ソファのある一画へ来て、二人して座ると、「——ね、お母さんには黙っててあげるから、話してごらんなさい」
「——え?」
郁子は、一旦家へ戻ってから出直して、圭介と沙織の赤ちゃんの顔を見に来たところである。
大きな総合病院で、迷子になりかけたものの、やっと産婦人科の病室を見付けてホッとしたところだった。
「叔母さん、何のこと?」
と、郁子は言った。
「ごまかしてもだめ! 見付かっちゃったんだから、諦《あきら》めなさい。この前の誕生日祝いの席で貧血起して倒れたり、おかしいと思ってたのよ。でもまさか……。あんた十六になったばかりじゃないの」
「はあ……」
「正直におっしゃい。誰なの、相手?」
と、声をひそめる。
「相手って……」
「お腹の子の父親よ。どうせニキビの消えてない男の子なんでしょ」
郁子は唖《あ》然《ぜん》とし、それからやっと靖江の言うところを理解した。〈産婦人科〉へやって来た郁子を見て、早とちりに結論を出したのだ。
「ひどいわ、叔母さん! 勘違いよ、そんな!」
「じゃ、どうしてこんな所へ来たの?」
「叔母さん、知らないんだ。沙織さんが赤ちゃん産んだの」
今度は、靖江の方が目をパチクリさせている。郁子の説明で、やっと了解すると、
「何だ! 叔母さん、びっくりしちゃったわよ」
と、笑い出す。
「こっちだわ、びっくりしたのは」
「ごめんごめん!」
と、手を合せたりして、郁子も笑ってしまう。
「じゃ、叔母さんはどうしてここに?」
「亭主がここに入院してるの」
「あら」
入院していること自体、初耳だった。何しろ、この叔母の前では、昼間の月のごとく影が薄い人なのである。
「見舞って、帰ろうと思ったら、郁子ちゃんがいるじゃない。びっくりして——」
「ちょっと! それじゃ、後を尾《つ》けてたの? 叔父さんが産婦人科に入院してるわけないもの」
「ああ。——まあ、そうね」
と、涼しい顔で、「で、赤ちゃん、どっちだって?」
「すぐごまかす。得意なんだから」
と、郁子はにらんだ。「女の子。一緒に見に行く?」
「はいはい。それで勘弁してもらいましょ」
「変なの」
と、郁子は苦笑した。
廊下を歩き出して、
「でも、郁子ちゃん、あの後は大丈夫?」
「え? ああ、貧血のこと? あれからはないわ」
「夏、暑かったものね」
「お母さんの方が参ってる」
「そうか。寝込んでたのね。忘れてた。ごめんなさい」
「もう起きてるけど……。今日やっと買物に出たの」
「色々あるからね、ストレスもたまるわ」
と、靖江は小さく首を振って、「あの笹倉先生じゃないけど、無理して坂を上ろうとして死んじゃうなんてこともあるわ。くれぐれも無理させないで」
「ええ……」
と、郁子は、ちょっと目をそらす。
「大変だったわね、あのときも。朝まで見付からなくて、大騒ぎで……」
「あ、お兄さん」
圭介が廊下をやって来るのが見えて、郁子は手を振った。
「——やあ! ありがとう、来てくれて。叔母さんも?」
と、圭介がびっくりしている。
郁子が口を開く前に、
「ちょうどお宅へ電話したら、教えてくれてね。郁子ちゃんとここで待ち合せたの」
と、靖江は澄まして出まかせを言っている。
郁子は呆《あき》れて、怒るより感心してしまう。
「わざわざすみません。今、沙織は授乳室にいます。ガラス越しですが、赤ん坊は見ていただけますよ」
圭介は、いつになく声も弾んで、嬉《うれ》しそうだった。郁子は、こんな兄を初めて見たような気がした。
案内されて、広い窓のある部屋の前で足を止め、
「待ってて下さい」
と、圭介が入って行く。
「——人並みにパパしてる」
と、郁子が言うと、
「そんなもんよ」
靖江は分ったような口をきいた。
窓の向うに、圭介が少し危なっかしい手つきで赤ん坊を抱いて現われた。沙織がガウン姿でついて来ている。少し疲れている表情だが、笑みは満ち足りたものだ。
郁子は手を振って見せた。
圭介が得意げに赤ん坊をガラス窓へ近付けて、郁子たちの方へ顔を向けた。
ふっと、何かある衝撃が郁子の胸を突いた。
それは、間違いなく自分と血のつながりを持った新しい生命がそこにあるということでもあり、同時に、一人の赤ん坊としていかにも「生れて来て良かった!」という表情を浮かべているのが驚きだったからでもある。
ともかく、その従妹に対して、郁子はある種の感動を覚えたのだった。
頑張って。——いつしか、郁子は赤ん坊へそう呼びかけようとしていた。
頑張って! しっかり生きて行ってね。
赤ん坊は、郁子の心の声が聞こえたかのようで、圭介の手の中で小さな手を振ってくれた。郁子は思わず笑って、
「ちゃんと人間らしい顔してる!」
と、兄が聞いたら怒りそうなことを言った。
「ね、叔母さん、お兄さんに似てるかな」
と振り向き——。
靖江はハッと我に返ったように、
「そうね。似てるんじゃないかしら」
と早口に言うと、「じゃ、郁子ちゃん。私、ちょっと事務へ寄ってかなきゃいけないの。またね」
「はい……」
何だろ? 兄たちへ窓越しに会釈して見せ、そそくさと行ってしまう靖江を見送って、郁子は首をかしげた。
少しすると、圭介が廊下へ出て来た。
「叔母さん、どうしたんだ?」
「さあ……。何か事務に寄るって」
「そうか。忙しい人だな」
圭介は、気付いていない様子だった。しかし、郁子は見ていたのだ。
赤ん坊を見た靖江が、なぜか青ざめ、そして逃げるように立ち去ったのを。