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怪談人恋坂14
日期:2018-07-30 20:32  点击:255
 2 歌 声
 
「いいお天気ね」
 
 と、女はコーンに入ったソフトクリームをなめながら言った。
 
 それは、あまりに平凡なセリフだと梶原には思えた。——そうだろう。こんな日には、もう少し特別な言葉が似合いそうなものだ。
 
「——少し座ろうか」
 
 と、梶原は言った。「何か食べるかい?」
 
「まだお腹は空いてないわ」
 
 女はそう言って、「でも、日に焼けそう。日かげに入りたい」
 
 と、まぶしげに空を仰ぐ。
 
「じゃ、そこへ入ろう。コーヒーでも飲むさ」
 
 二人は、遊園地のあちこちにある休憩所の一つに入って、空いた椅子に腰をおろした。
 
「待っててくれ」
 
 ここは、ただ飲物の自動販売機が並んでいるだけだ。梶原は立って行って、アイスコーヒーの缶を手に戻って来た。
 
「今日は休みなの?」
 
 と、女が訊《き》く。
 
「ああ。——休みを取ったのさ。休める日を待ってたら停年になっちまう」
 
 と、梶原は言って、缶コーヒーを空け、一気に半分ほど飲んだ。
 
「喉《のど》がかわいてるの?」
 
「ああ。——糖尿病かな。その気があるんだ、以前から」
 
「大丈夫? ひどくなると、あっちの方がだめになるって言うじゃない」
 
「今日はだめじゃなかったろ?」
 
「そうね。今日はよく頑張った」
 
 と、女は声を上げて笑う。「ホテル代だけで勘弁してくれってわけ?」
 
 梶原の顔が少し歪《ゆが》んだ。
 
「——図星ね」
 
「ボーナスの時期でもない。月給からひねり出すのは大変なんだ」
 
 と、梶原は女の方をうかがうように見て、「少し待ってくれ。——な?」
 
「大方そんなことだと思ったわ」
 
 女はパリッとコーンをかじった。
 
 梶原は、缶の表面の露で濡《ぬ》れた指先をズボンで拭《ふ》いて、
 
「女房もおかしいと思い始めてる。——給与明細を見せろと言われりゃ、それまでだ。ばれたら色々厄介だよ。そうだろ?」
 
 女は冷ややかな目になって、
 
「そんなの、私の知ったこっちゃないわ。取引きですもの、これは。都合をつけるのはあんたの仕事。私が事情をいちいち考えてたら、取引きなんて成立しないでしょ」
 
 梶原の表情がこわばる。
 
 重苦しい沈黙があって、やがて女が弾けるように笑った。
 
「そう深刻な顔しないで。——いいわ。待ってあげるわよ」
 
「すまん」
 
 と、梶原はひきつったような笑みを浮かべた。
 
「でも、暮のボーナスまでなんて言わないでね」
 
「ああ,それまでには必ず何とかする」
 
「当てにしてるわ。ちょっと欲しいバッグがあってね」
 
 女は、コーンも全部食べてしまうと、指先にべとついたクリームをハンカチで拭いた。
 
「——それにしても、遊園地なんて久しぶりだわ」
 
 二人は外へ出た。
 
「平日でも、結構お客が入ってるものなのね」
 
「ああ、あんまり空いてる遊園地ってのも寂しいじゃないか」
 
「それもそうね。——でも、どうしてこんな所に?」
 
「たまにゃ気分を変えようと思ってさ。何か乗ってみないか」
 
「変な人!」
 
 と、女は笑った。
 
 とりあえず、こんな爽《さわ》やかな空の下、ぶらぶらと歩き出した。
 
「——ここんとこ、先生はどうだい」
 
 と、梶原は言った。
 
「どうって? お元気よ」
 
「そうじゃなくて……。あの女——何てったっけ」
 
「江口愛子? よく心得てるわ。お年寄りを喜ばす手を」
 
「じゃ——やっぱり先生と?」
 
「ロンドンからよ、それは」
 
 と、和代は言った。
 
「初めから?」
 
「だから、戻ったとき、圭介さんたちにやさしかったんじゃない。自分に女がいるんだから、息子に厳しくするのはさすがに気が咎《とが》めたのよ」
 
「なるほど。そういうことか、あの心変りは」
 
 と、梶原は肯《うなず》いた。「じゃ、奥さんが寝込んだのもそのせい?」
 
「もともと暑さには弱い方だから。でも、無関係じゃないわよ、当然」
 
「そうだろうな」
 
「でもあの女——江口愛子って、したたかよ。もし奥様に何かあれば、後《あと》釜《がま》に入り込むでしょうね」
 
「そこまで先生が?」
 
「十中八、九ね」
 
 和代は息をついて、「——こんな所で遊んでくの? 私、買物にでも行くわ」
 
 と、足を止める。
 
「せっかく来たんだぜ。何か乗って行こう」
 
「私、ああいうの、苦手」
 
 和代は、地鳴りのような音をたてて駆け抜けるジェットコースターから、風に乗って聞こえてくる悲鳴とも歓声ともつかない甲高い声に、顔をしかめた。
 
「じゃ、これがいい」
 
 と、梶原はどぎつい看板を見上げて、「〈ホラーの館〉か。昔は〈お化け屋敷〉っていったもんだけどな」
 
「やめてよ」
 
 と、和代は情ない顔になって、「私、怖いものってだめなの。お化けとか、全然だめ」
 
 そう聞いたとき、梶原は心の底から笑い出しそうになった。
 
 言ってくれるよ。お前こそ化け物のくせに! 人の生血をすすって平気で口を拭《ぬぐ》ってる怪物じゃないか!
 
 危うく口から本当にその言葉が飛び出しそうで、梶原はあわてて抑えた。
 
「じゃあ……。〈世界一周〉にしよう。あれなら怖くない」
 
「〈世界一周〉? ——へえ」
 
 和代は半信半疑という表情で、その建物を見上げた。
 
 日曜日や祭日には〈何十分待ち〉の表示が出るのだろうが、今日はほんの七、八人が並んでいるだけだった。
 
 係の男も欠伸《あくび》しながら、
 
「はい、どうぞ」
 
 と、ボートが来ると、ろくに見もせずに客の好きなようにさせている。
 
「ボートが勝手に動いて、世界の名所のミニチュアを回るのさ」
 
 と、梶原は言った。「さ、前の列に乗ろうよ」
 
「揺れる! ——キャッ!」
 
 和代はボートが揺れて、尻《しり》もちをつくようにして席についた。
 
 二人ずつ三列しか席がなく、ボート一隻に六人である。しかし、詰めて乗る必要もないので、ボートの前の列に二人が乗ると、次のグループは別のボートを待つことにしたようだった。
 
「——お一人ですか? じゃ、これにどうぞ」
 
 係の男の声がして、一人の客が梶原たちのボートに乗って来た。二列目に一人で、その女は座った。サングラスをかけて、無表情な口もとをキュッと結んでいる。
 
「——一人で来てるのかしら」
 
 と、和代がそっと囁《ささや》く。
 
「しっ。聞こえるよ」
 
 ボートが動き出す。
 
 水路は暗いトンネルの中へ入って行った。
 
「いやだ……怖いじゃないの」
 
 と、和代が文句を言う。
 
「すぐ明るくなるさ」
 
 ボートが暗がりの中を進んで行く。水のはねる音がかすかに聞こえて、やがて歌声が響いて来た。
 
「フォスターね。〈草競馬〉だっけ?」
 
 視界が広がると、天井の高い空間に、アメリカの大平原が展開し、精巧な列車のミニチュアが走り、蒸気船がミシシッピーをゆっくりと下って行く。
 
 にぎやかなバンジョーの音。ヴァイオリンがキイキイと鳴って、西部開拓民の踊りが、ほとんど実物大の人形でショーになっていた。
 
「よく、あんなに動くわね」
 
 和代は、ついさっきの文句は忘れてしまった様子で、面白そうに眺めている。
 
 ボートは、パリのセーヌ河《か》畔《はん》へ出たかと思うと、ヴェニスのゴンドラとすれ違った。
 
「——〈旅情〉を思い出すわ」
 
 と、和代はしみじみと言った。「知ってる? ハイミスのアメリカ女性がヴェニスにやって来て、イタリア男と恋に落ちる。——でも儚《はかな》い夢なの」
 
 少し間があって、
 
「君は、どうして独りなんだ」
 
 と、梶原は訊いた。
 
「好きで独りでいるわけじゃないわ。機会もないし……。もう三十六よ」
 
 和代は肩をすくめて、「お金を貯めて、好きなことして……。でも、子供の一人でもいたら、って思うわね。——あんたは私のこと、鬼だと思ってるだろうけど」
 
 二人はちょっと笑った。
 
 アラビアの砂漠をラクダが行く。——和代は、じっとその光景を見ていた。
 
「〈月の砂漠〉か……。私、こうやって〈世界一周〉して……。偽物の世界一周で終るのかしらね。——でも、たいていの女はそうよね。ここで夢を見て、外へ出たら、現実が待ってるんだわ」
 
 和代は、天井に映し出された星空に見とれている。
 
「いつか……こんな星空を見たいわ。作りものじゃなくて、本物の星空を」
 
 ——ボートは更に東洋を回り、出口へ続く暗いトンネルへと、滑り込んで行った。
 
「もうおしまいね? ——結構楽しかった」
 
 和代の声には、暖かいものがあった。
 
「おしまいだ」
 
 と、梶原は言った。
 
 後ろの席の真子が、細い紐《ひも》を和代の首へかけた。和代がハッとのけぞる。
 
「あなた! 押えて!」
 
 と、真子が言った。
 
 梶原は和代にのしかかるようにして、手足を押えつける。真子が紐を固く固く引き絞った。和代の体がガクガク震え、梶原はともすれば凄《すご》い力で弾き飛ばされそうになった。
 
「急げ!」
 
 と、梶原が言った。「出口だ」
 
 突然、和代の体から力が抜けた。
 
「——やったわ」
 
 と、真子が言った。「早く水の中へ」
 
 梶原は、和代の両足をかかえ上げると、ボートの外へ何とか押し出した。
 
 ザブッと波が立って、ボートが揺れる。
 
「——大丈夫よ」
 
 と、真子は言った。「ちゃんと座って!」
 
「ああ……」
 
 梶原は汗をかいていた。
 
 ボートが明るい場所へ出た。
 
 ボートが停《とま》り、梶原は降りたが、一瞬膝《ひざ》に力が入らず、よろけた。
 
「大丈夫ですか?」
 
 降ろす係の男に言われて、
 
「ああ、何ともない」
 
 と、足早に歩き出す。
 
「落ちついて!」
 
 真子が追いついて来て言った。「普通に歩くのよ!」
 
「普通だって? どんなのが普通だっけ? 忘れちまった」
 
「真《まつ》青《さお》になって! 顔を洗ってらっしゃい」
 
 と、真子は夫を押しやった。
 
「由紀子は?」
 
「あそこよ。連れて来るわ」
 
 真子は、娘を置いて来たベンチへと急いだ。——大丈夫。ちゃんと座っている。
 
「あら、眠っちゃったのね」
 
 六歳になる由紀子は、一人ベンチで気持良さそうに眠り込んでいた。
 
「由紀ちゃん。ごめんね」
 
 と、真子が軽く肩を揺ると、由紀子は目を開き、大きな欠伸《あくび》をした。
 
「もう、ご用はすんだの?」
 
 と、目をこすりながら訊《き》く、
 
「ええ、すんだわ」
 
「じゃ、アイスがほしい」
 
「いいわよ。手で持つやつ?」
 
「ウン!」
 
 由紀子はたちまちご機嫌になって、ママと手をつないで歩き出した。
 
「——パパは?」
 
「お手々を洗ってるわ。——ほら来た」
 
 梶原は、ハンカチで手を拭きながら戻って来ると、
 
「もう帰るか」
 
「あら。せっかく来たのに? これから由紀ちゃん、アイスを食べるんですって。ね?」
 
「パパも食べない?」
 
 梶原は、さっき和代がコーンに入ったソフトクリームをなめていたのを思い出した。
 
「いや、パパはいらない」
 
「それじゃママと二人で食べましょ。ね、由紀ちゃん」
 
「うん」
 
 梶原は、手をつないで軽やかに行く妻と娘を見送って、深々と息をついた。
 
 ——和代を殺した。人殺しをしたのだ。
 
 梶原は怖かった。一刻も早くここから出て行きたかった。
 
 当然、和代の死体はじきに見付かるだろう。警察もやってくる。それまでにここを出ていたい。
 
 しかし、真子は全く何ごともなかったかのように、由紀子と手をつないで歩いている。——アイスクリームだって!
 
 梶原は、重い足どりで妻と娘の後をついて行った。
 
 いくつも売店があるというのに、よりによって、真子たちは和代がソフトクリームを買った所に足を向けていた。
 
「——由紀ちゃん、何がいい?」
 
「ソフトクリーム」
 
「じゃあ、ママはチョコレート。——ソフトとチョコね」
 
「はい」
 
 ベレー帽のような赤い帽子をかぶって、コーンにサーバーでクリームを入れているのは、さっきの和代のときと同じ女の子である。
 
 梶原はその子から見えないように、わきへそれて立っていた。
 
「あなた。——何をすねてるの、そんな所で?」
 
 と、真子がクリームをなめながらやって来る。
 
「おい……。あそこの子は俺と和代を見てるんだぞ」
 
「知ってるわよ。だからどうだっていうの?」
 
「もし、警察にでも訊かれて——」
 
「しっ!」
 
 真子は厳しい目で夫をにらんで、無心にソフトクリームをなめている由紀子の方へチラッと目をやってから、「由紀の前で、『警察』なんて言わないで」
 
 と、押えた声音が一段と怖い。
 
「ああ……。怖くないのか、お前」
 
「怖いのは、あなたが自首でもするんじゃないかってことの方ね」
 
 梶原は、改めて真子を眺め、
 
「お前も変ったな」
 
「あなたが変えたの。間違えないで」
 
 と、真子は言い返した。「私はね、後悔なんて決してしないわよ。あなたと由紀と……。私たち三人の生活を守るためにやったんですものね。間違ったことをしたんじゃないわ」
 
 梶原は、あのボートで和代がふと心の弱味を覗かせて話していたことを思い出した。
 
 もちろん、和代を憎んでいた。しかし、和代は誰を憎んでいたのか。いや、誰か、和代を愛してくれる人間はいたのだろうか。
 
 今になって——和代がこの世の者でなくなってから、梶原は初めて和代がどんな女だったのかと考えていた。
 
「——見て」
 
 と、真子がそっと視線を遠くへ送る。
 
 あわてた様子で駆けて行くのは、確かさっきボートに乗る案内をしていた男だ。
 
「見付けたな。もう出よう」
 
「今、あわてて出て行ってごらんなさい。それこそ誰かに顔を憶《おぼ》えられるわ」
 
「しかしあの男が——」
 
「あんな薄暗い所で、しかも欠伸しながらやってたのに、誰があの女と一緒に乗ったかなんて、憶えてるわけないじゃないの」
 
 真子は事もなげに言った。「由紀ちゃん、もう食べた?」
 
「もう少し」
 
「あらあら。お口の周りが真っ白」
 
 と、真子は笑って、「食べたら、きれいに洗いましょ」
 
「お馬さんに乗りたい」
 
「はいはい。でも、お馬さんもお手々がベタベタの子はいやだって。——あそこに行って、手を洗わせてもらいましょ」
 
 コーンの残りを、名《な》残《ご》り惜しげにかじっている由紀子を促し、真子はレストランの方へ歩き出した。
 
 梶原は、仕方なくその後について行った。
 
 レストランに入ると、由紀子は「お馬さん」のことは忘れて、
 
「お腹空いた」
 
 と言い出した。
 
「ハンバーガーを見付けたのね」
 
 と、真子は笑って、「お昼、ほとんど食べてないし、食べて行きましょうか」
 
 由紀子がパチパチと拍手をする。
 
 梶原は諦《あきら》めの気分で、テーブルについた。
 
 真子は由紀子の手を洗ってやり、テーブルへやって来た。
 
「じゃ、ママは何を食べようかな」
 
 と、のんびりメニューを眺める真子は、以前の真子とは別人のようだ。
 
 夫の弱味を知り、それを自分の手で解決してやったことで、真子は「妻の座」に自信を持ったのだろう。
 
 だから、梶原が和代にゆすられ続けていたと告白したときも、意外なほど真子は冷静で、怒りを見せなかった。
 
「——あなたも食べて」
 
「俺は……」
 
「ちゃんと食べて」
 
「分ったよ」
 
 オーダーをすませ、水をガブ飲みしていると、かすかにサイレンが聞こえた。
 
「——何でもないわよ」
 
 と、真子が穏やかに言った。
 
「分ってる」
 
「じゃ、普通にしてて」
 
 真子は、由紀子が紙のランチョンマットにボールペンでいたずらがきしているのを見ながら言った。「あなたが、もし自首するなんて言い出したら——。上手ね、由紀ちゃん。それ、何?」
 
「ハンバーガー」
 
「あ、そうか」
 
 と笑って、「——私、あなたを殺すわよ」
 
 サイレンは次第に近くなっていたが、梶原の耳には、まるで遠ざかっていくかのようにも聞こえていた……。
 
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09/06 23:19
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