「いいお天気ね」
と、女はコーンに入ったソフトクリームをなめながら言った。
それは、あまりに平凡なセリフだと梶原には思えた。——そうだろう。こんな日には、もう少し特別な言葉が似合いそうなものだ。
「——少し座ろうか」
と、梶原は言った。「何か食べるかい?」
「まだお腹は空いてないわ」
女はそう言って、「でも、日に焼けそう。日かげに入りたい」
と、まぶしげに空を仰ぐ。
「じゃ、そこへ入ろう。コーヒーでも飲むさ」
二人は、遊園地のあちこちにある休憩所の一つに入って、空いた椅子に腰をおろした。
「待っててくれ」
ここは、ただ飲物の自動販売機が並んでいるだけだ。梶原は立って行って、アイスコーヒーの缶を手に戻って来た。
「今日は休みなの?」
と、女が訊《き》く。
「ああ。——休みを取ったのさ。休める日を待ってたら停年になっちまう」
と、梶原は言って、缶コーヒーを空け、一気に半分ほど飲んだ。
「喉《のど》がかわいてるの?」
「ああ。——糖尿病かな。その気があるんだ、以前から」
「大丈夫? ひどくなると、あっちの方がだめになるって言うじゃない」
「今日はだめじゃなかったろ?」
「そうね。今日はよく頑張った」
と、女は声を上げて笑う。「ホテル代だけで勘弁してくれってわけ?」
梶原の顔が少し歪《ゆが》んだ。
「——図星ね」
「ボーナスの時期でもない。月給からひねり出すのは大変なんだ」
と、梶原は女の方をうかがうように見て、「少し待ってくれ。——な?」
「大方そんなことだと思ったわ」
女はパリッとコーンをかじった。
梶原は、缶の表面の露で濡《ぬ》れた指先をズボンで拭《ふ》いて、
「女房もおかしいと思い始めてる。——給与明細を見せろと言われりゃ、それまでだ。ばれたら色々厄介だよ。そうだろ?」
女は冷ややかな目になって、
「そんなの、私の知ったこっちゃないわ。取引きですもの、これは。都合をつけるのはあんたの仕事。私が事情をいちいち考えてたら、取引きなんて成立しないでしょ」
梶原の表情がこわばる。
重苦しい沈黙があって、やがて女が弾けるように笑った。
「そう深刻な顔しないで。——いいわ。待ってあげるわよ」
「すまん」
と、梶原はひきつったような笑みを浮かべた。
「でも、暮のボーナスまでなんて言わないでね」
「ああ,それまでには必ず何とかする」
「当てにしてるわ。ちょっと欲しいバッグがあってね」
女は、コーンも全部食べてしまうと、指先にべとついたクリームをハンカチで拭いた。
「——それにしても、遊園地なんて久しぶりだわ」
二人は外へ出た。
「平日でも、結構お客が入ってるものなのね」
「ああ、あんまり空いてる遊園地ってのも寂しいじゃないか」
「それもそうね。——でも、どうしてこんな所に?」
「たまにゃ気分を変えようと思ってさ。何か乗ってみないか」
「変な人!」
と、女は笑った。
とりあえず、こんな爽《さわ》やかな空の下、ぶらぶらと歩き出した。
「——ここんとこ、先生はどうだい」
と、梶原は言った。
「どうって? お元気よ」
「そうじゃなくて……。あの女——何てったっけ」
「江口愛子? よく心得てるわ。お年寄りを喜ばす手を」
「じゃ——やっぱり先生と?」
「ロンドンからよ、それは」
と、和代は言った。
「初めから?」
「だから、戻ったとき、圭介さんたちにやさしかったんじゃない。自分に女がいるんだから、息子に厳しくするのはさすがに気が咎《とが》めたのよ」
「なるほど。そういうことか、あの心変りは」
と、梶原は肯《うなず》いた。「じゃ、奥さんが寝込んだのもそのせい?」
「もともと暑さには弱い方だから。でも、無関係じゃないわよ、当然」
「そうだろうな」
「でもあの女——江口愛子って、したたかよ。もし奥様に何かあれば、後《あと》釜《がま》に入り込むでしょうね」
「そこまで先生が?」
「十中八、九ね」
和代は息をついて、「——こんな所で遊んでくの? 私、買物にでも行くわ」
と、足を止める。
「せっかく来たんだぜ。何か乗って行こう」
「私、ああいうの、苦手」
和代は、地鳴りのような音をたてて駆け抜けるジェットコースターから、風に乗って聞こえてくる悲鳴とも歓声ともつかない甲高い声に、顔をしかめた。
「じゃ、これがいい」
と、梶原はどぎつい看板を見上げて、「〈ホラーの館〉か。昔は〈お化け屋敷〉っていったもんだけどな」
「やめてよ」
と、和代は情ない顔になって、「私、怖いものってだめなの。お化けとか、全然だめ」
そう聞いたとき、梶原は心の底から笑い出しそうになった。
言ってくれるよ。お前こそ化け物のくせに! 人の生血をすすって平気で口を拭《ぬぐ》ってる怪物じゃないか!
危うく口から本当にその言葉が飛び出しそうで、梶原はあわてて抑えた。
「じゃあ……。〈世界一周〉にしよう。あれなら怖くない」
「〈世界一周〉? ——へえ」
和代は半信半疑という表情で、その建物を見上げた。
日曜日や祭日には〈何十分待ち〉の表示が出るのだろうが、今日はほんの七、八人が並んでいるだけだった。
係の男も欠伸《あくび》しながら、
「はい、どうぞ」
と、ボートが来ると、ろくに見もせずに客の好きなようにさせている。
「ボートが勝手に動いて、世界の名所のミニチュアを回るのさ」
と、梶原は言った。「さ、前の列に乗ろうよ」
「揺れる! ——キャッ!」
和代はボートが揺れて、尻《しり》もちをつくようにして席についた。
二人ずつ三列しか席がなく、ボート一隻に六人である。しかし、詰めて乗る必要もないので、ボートの前の列に二人が乗ると、次のグループは別のボートを待つことにしたようだった。
「——お一人ですか? じゃ、これにどうぞ」
係の男の声がして、一人の客が梶原たちのボートに乗って来た。二列目に一人で、その女は座った。サングラスをかけて、無表情な口もとをキュッと結んでいる。
「——一人で来てるのかしら」
と、和代がそっと囁《ささや》く。
「しっ。聞こえるよ」
ボートが動き出す。
水路は暗いトンネルの中へ入って行った。
「いやだ……怖いじゃないの」
と、和代が文句を言う。
「すぐ明るくなるさ」
ボートが暗がりの中を進んで行く。水のはねる音がかすかに聞こえて、やがて歌声が響いて来た。
「フォスターね。〈草競馬〉だっけ?」
視界が広がると、天井の高い空間に、アメリカの大平原が展開し、精巧な列車のミニチュアが走り、蒸気船がミシシッピーをゆっくりと下って行く。
にぎやかなバンジョーの音。ヴァイオリンがキイキイと鳴って、西部開拓民の踊りが、ほとんど実物大の人形でショーになっていた。
「よく、あんなに動くわね」
和代は、ついさっきの文句は忘れてしまった様子で、面白そうに眺めている。
ボートは、パリのセーヌ河《か》畔《はん》へ出たかと思うと、ヴェニスのゴンドラとすれ違った。
「——〈旅情〉を思い出すわ」
と、和代はしみじみと言った。「知ってる? ハイミスのアメリカ女性がヴェニスにやって来て、イタリア男と恋に落ちる。——でも儚《はかな》い夢なの」
少し間があって、
「君は、どうして独りなんだ」
と、梶原は訊いた。
「好きで独りでいるわけじゃないわ。機会もないし……。もう三十六よ」
和代は肩をすくめて、「お金を貯めて、好きなことして……。でも、子供の一人でもいたら、って思うわね。——あんたは私のこと、鬼だと思ってるだろうけど」
二人はちょっと笑った。
アラビアの砂漠をラクダが行く。——和代は、じっとその光景を見ていた。
「〈月の砂漠〉か……。私、こうやって〈世界一周〉して……。偽物の世界一周で終るのかしらね。——でも、たいていの女はそうよね。ここで夢を見て、外へ出たら、現実が待ってるんだわ」
和代は、天井に映し出された星空に見とれている。
「いつか……こんな星空を見たいわ。作りものじゃなくて、本物の星空を」
——ボートは更に東洋を回り、出口へ続く暗いトンネルへと、滑り込んで行った。
「もうおしまいね? ——結構楽しかった」
和代の声には、暖かいものがあった。
「おしまいだ」
と、梶原は言った。
後ろの席の真子が、細い紐《ひも》を和代の首へかけた。和代がハッとのけぞる。
「あなた! 押えて!」
と、真子が言った。
梶原は和代にのしかかるようにして、手足を押えつける。真子が紐を固く固く引き絞った。和代の体がガクガク震え、梶原はともすれば凄《すご》い力で弾き飛ばされそうになった。
「急げ!」
と、梶原が言った。「出口だ」
突然、和代の体から力が抜けた。
「——やったわ」
と、真子が言った。「早く水の中へ」
梶原は、和代の両足をかかえ上げると、ボートの外へ何とか押し出した。
ザブッと波が立って、ボートが揺れる。
「——大丈夫よ」
と、真子は言った。「ちゃんと座って!」
「ああ……」
梶原は汗をかいていた。
ボートが明るい場所へ出た。
ボートが停《とま》り、梶原は降りたが、一瞬膝《ひざ》に力が入らず、よろけた。
「大丈夫ですか?」
降ろす係の男に言われて、
「ああ、何ともない」
と、足早に歩き出す。
「落ちついて!」
真子が追いついて来て言った。「普通に歩くのよ!」
「普通だって? どんなのが普通だっけ? 忘れちまった」
「真《まつ》青《さお》になって! 顔を洗ってらっしゃい」
と、真子は夫を押しやった。
「由紀子は?」
「あそこよ。連れて来るわ」
真子は、娘を置いて来たベンチへと急いだ。——大丈夫。ちゃんと座っている。
「あら、眠っちゃったのね」
六歳になる由紀子は、一人ベンチで気持良さそうに眠り込んでいた。
「由紀ちゃん。ごめんね」
と、真子が軽く肩を揺ると、由紀子は目を開き、大きな欠伸《あくび》をした。
「もう、ご用はすんだの?」
と、目をこすりながら訊《き》く、
「ええ、すんだわ」
「じゃ、アイスがほしい」
「いいわよ。手で持つやつ?」
「ウン!」
由紀子はたちまちご機嫌になって、ママと手をつないで歩き出した。
「——パパは?」
「お手々を洗ってるわ。——ほら来た」
梶原は、ハンカチで手を拭きながら戻って来ると、
「もう帰るか」
「あら。せっかく来たのに? これから由紀ちゃん、アイスを食べるんですって。ね?」
「パパも食べない?」
梶原は、さっき和代がコーンに入ったソフトクリームをなめていたのを思い出した。
「いや、パパはいらない」
「それじゃママと二人で食べましょ。ね、由紀ちゃん」
「うん」
梶原は、手をつないで軽やかに行く妻と娘を見送って、深々と息をついた。
——和代を殺した。人殺しをしたのだ。
梶原は怖かった。一刻も早くここから出て行きたかった。
当然、和代の死体はじきに見付かるだろう。警察もやってくる。それまでにここを出ていたい。
しかし、真子は全く何ごともなかったかのように、由紀子と手をつないで歩いている。——アイスクリームだって!
梶原は、重い足どりで妻と娘の後をついて行った。
いくつも売店があるというのに、よりによって、真子たちは和代がソフトクリームを買った所に足を向けていた。
「——由紀ちゃん、何がいい?」
「ソフトクリーム」
「じゃあ、ママはチョコレート。——ソフトとチョコね」
「はい」
ベレー帽のような赤い帽子をかぶって、コーンにサーバーでクリームを入れているのは、さっきの和代のときと同じ女の子である。
梶原はその子から見えないように、わきへそれて立っていた。
「あなた。——何をすねてるの、そんな所で?」
と、真子がクリームをなめながらやって来る。
「おい……。あそこの子は俺と和代を見てるんだぞ」
「知ってるわよ。だからどうだっていうの?」
「もし、警察にでも訊かれて——」
「しっ!」
真子は厳しい目で夫をにらんで、無心にソフトクリームをなめている由紀子の方へチラッと目をやってから、「由紀の前で、『警察』なんて言わないで」
と、押えた声音が一段と怖い。
「ああ……。怖くないのか、お前」
「怖いのは、あなたが自首でもするんじゃないかってことの方ね」
梶原は、改めて真子を眺め、
「お前も変ったな」
「あなたが変えたの。間違えないで」
と、真子は言い返した。「私はね、後悔なんて決してしないわよ。あなたと由紀と……。私たち三人の生活を守るためにやったんですものね。間違ったことをしたんじゃないわ」
梶原は、あのボートで和代がふと心の弱味を覗かせて話していたことを思い出した。
もちろん、和代を憎んでいた。しかし、和代は誰を憎んでいたのか。いや、誰か、和代を愛してくれる人間はいたのだろうか。
今になって——和代がこの世の者でなくなってから、梶原は初めて和代がどんな女だったのかと考えていた。
「——見て」
と、真子がそっと視線を遠くへ送る。
あわてた様子で駆けて行くのは、確かさっきボートに乗る案内をしていた男だ。
「見付けたな。もう出よう」
「今、あわてて出て行ってごらんなさい。それこそ誰かに顔を憶《おぼ》えられるわ」
「しかしあの男が——」
「あんな薄暗い所で、しかも欠伸しながらやってたのに、誰があの女と一緒に乗ったかなんて、憶えてるわけないじゃないの」
真子は事もなげに言った。「由紀ちゃん、もう食べた?」
「もう少し」
「あらあら。お口の周りが真っ白」
と、真子は笑って、「食べたら、きれいに洗いましょ」
「お馬さんに乗りたい」
「はいはい。でも、お馬さんもお手々がベタベタの子はいやだって。——あそこに行って、手を洗わせてもらいましょ」
コーンの残りを、名《な》残《ご》り惜しげにかじっている由紀子を促し、真子はレストランの方へ歩き出した。
梶原は、仕方なくその後について行った。
レストランに入ると、由紀子は「お馬さん」のことは忘れて、
「お腹空いた」
と言い出した。
「ハンバーガーを見付けたのね」
と、真子は笑って、「お昼、ほとんど食べてないし、食べて行きましょうか」
由紀子がパチパチと拍手をする。
梶原は諦《あきら》めの気分で、テーブルについた。
真子は由紀子の手を洗ってやり、テーブルへやって来た。
「じゃ、ママは何を食べようかな」
と、のんびりメニューを眺める真子は、以前の真子とは別人のようだ。
夫の弱味を知り、それを自分の手で解決してやったことで、真子は「妻の座」に自信を持ったのだろう。
だから、梶原が和代にゆすられ続けていたと告白したときも、意外なほど真子は冷静で、怒りを見せなかった。
「——あなたも食べて」
「俺は……」
「ちゃんと食べて」
「分ったよ」
オーダーをすませ、水をガブ飲みしていると、かすかにサイレンが聞こえた。
「——何でもないわよ」
と、真子が穏やかに言った。
「分ってる」
「じゃ、普通にしてて」
真子は、由紀子が紙のランチョンマットにボールペンでいたずらがきしているのを見ながら言った。「あなたが、もし自首するなんて言い出したら——。上手ね、由紀ちゃん。それ、何?」
「ハンバーガー」
「あ、そうか」
と笑って、「——私、あなたを殺すわよ」
サイレンは次第に近くなっていたが、梶原の耳には、まるで遠ざかっていくかのようにも聞こえていた……。