「あいにくだな」
と、則行が言うと、
「ちっとも」
郁子は、膝《ひざ》の上の包みをガサゴソと開けた。
「弁当か」
「おにぎり、作って来たの。形は良くないけど、そう味は悪くないと思うわ」
と、郁子は予め断って笑った。「私と同じ!」
相沢則行は、笑いながらおにぎりを一つつかんで、一口で半分近くも頬《ほお》ばってしまった。
「そんな食べ方! ——ほら、むせて!」
則行が目をむいて、苦しそうに喉《のど》を押える。郁子はあわてて水筒を取ると、
「ほら、お茶飲んで! ね、早く、これ——」
急いで蓋《ふた》にお茶を注いで渡そうとする。
と、則行はケロッとしていて、
「うまいぞ、おにぎり」
と言った。
「——もう!」
「ハハ、びっくりさせたのさ」
「頭からお茶かけてやろうか?」
「やめてくれ! ごめん!」
大げさに両手で頭をかばう仕草に、郁子もつい笑ってしまう。
「あなたって結構ひょうきんなのね」
「でなきゃ、やってけるかい」
「あら、大人びたこと言って」
「大人だ」
「一つしか違わないくせに」
と、郁子が言い返し、「わあ、凄《すご》い降りだ」
——雨は一段とひどくなった。
二人はほとんど目の高さの位置に、雨が煙のようにたなびいている地面を見ていた。
無人の野球場。
日曜日の午後、郁子は相沢則行に野球部の試合を見に行こうと誘われていた。
朝からどんより曇っていたのだが、早く起き出した郁子は、ゆうべタイマーをかけておいた、炊《た》きたてのご飯でおにぎりを作った。
待ち合せた駅までは良かったのだが、電車に乗っている内、雨が降り出して、この貸グラウンドにやって来たものの、〈本日中止〉の貼《はり》紙《がみ》一枚、人っ子一人いないという当然の状況が待っていたのである。
「せっかくだもの、どこかで食べよう」
と言う郁子に、それならと、このベンチへ入っての昼食となった。
奥の方に座っているので、さすがに雨も降り込んで来ないが、それでもとても出て行く気にはなれない降りだった。
「——この前も、ひどく雨の降った日があったな」
と、則行が言った。
もう二つめのおにぎりを食べている。
「うん。——和代さんのお葬式の日」
「ああ、遊園地で殺された——。犯人、捕まってないんだろ?」
「まだよ」
と、郁子は言って、自分もお茶を一口飲んだ。「——お願い。その話はやめよう」
「うん。何を話そうか」
「何も。何も話さなくていい。おにぎり、食べて」
「お安いご用だ」
と、則行は笑った。
雨が、今の二人にとっては都合のいいBGMになっていたかもしれなかった。何も音がないわけでなく、それでいて注意をひかれる音楽も言葉もなく、ただ途切れることなく聞こえている雨の音は、柔らかい音の絨《じゆう》毯《たん》のようにぼんやりと広がって、他のすべての物音を消している。
黙って、おにぎりを頬ばり、お茶を飲む則行を眺めていると、郁子は今彼がこの身近に、手をのばせば届く間近に生きていることを、心から感謝したいと思った。
則行が一言、
「君も食べろ」
と言った。
「うん」
我ながらおいしい、というのは気のせいか。
このまま、何時間でも過していられそうな気がした。いつまでも、夕方が来なければいいのに……。
——でも、実際にはたぶん、ほんの十五分くらいのものだったろう。おにぎりが全部なくなるまでに、何時間も要したわけがない。何十個もあったわけではないのだから。
「旨《うま》かった」
と、まだ最後の一口を頬ばって、則行が言った。「手を洗うか」
「待って」
おにぎりを入れて来たタッパーウエアの中から、ウェットティシューを取り出す。「これで指を拭いて」
「手回しいいんだな」
「これくらい……。私だって気が付くわよ」
「誰かに——」
「え?」
「いや……。他の誰かにも、おにぎり作ってやったこと、あるのかなと思ってさ。やっぱり、指を拭くように用意して」
と、則行は何となく目をそらして、「別にいいんだぜ。だからどうっていうんじゃないけどな」
「もしあったら?」
「だから——あったっていいって言ってるじゃないか」
「私、十六よ。男の子と付合ったことなんかないもの」
「そうか……。俺も……」
「お父さんが先生だと、やっぱりうるさい?」
「先生ったって、普通の男さ」
則行の声に突然苦い調子が混って、郁子はびっくりした。
「先生が——」
と言いかけ、「ごめん。そういうことは忘れようね、今は」
「うん」
則行は微《ほほ》笑《え》んだ。
「いい笑顔だね」
「そうか? そんなこと言われたことないぜ」
「照れてる! こら!」
手をのばすと、郁子は則行の髪に指を入れてクシャクシャッとかき回した。
「何すんだよ!」
と、言いながら則行も怒ってはいない。
「可愛いよ、そういう頭にすると」
「男捕まえて『可愛い』はよせって」
「だって、可愛いんだもん」
「お前の髪もやってやる」
「だめだめ! やめて!」
と首をすぼめる郁子に、則行の手は郁子の頭にかかったまま止って……。
二人がふと黙って目を見かわす。ほんの数秒。
そして、わずかに則行の手に力がこもると、郁子は滑るように近付いて、唇に唇を受けた。
雨の音が一瞬遠のく気配。瞼《まぶた》が震えながら閉じたが、じきに唇は離れて瞼も上り、ほとんど瞬きと変りない。
「——初めてか」
「分る?」
「分らないから訊いてるんだろ」
「じゃ、もう一度」
唇が再び重なって、今度は互いの息の暖かさを感じるゆとりもあった。
郁子は身をひいて息を吐くと、
「——今のは初めてじゃない」
と言って笑った。
「変な奴だな、お前」
「ありがとう」
「変な奴って言ったんだぜ」
「賞められたと思ってる」
「やっぱり変だ」
郁子はもう一度唇を自分から触れていくと、深く息をついて、則行の肩に頭をもたせかけた。
「——雨で良かった」
と、郁子は言った。「晴れてたら、こんなこと、できないものね」
そうしたら、一度もキスなんかしないままで終ってしまったかもしれない。
生きていくことって、偶然の重なりなのだろうか。
「——寒くないか」
則行が郁子の肩を抱く。
互いのぬくもりが通い合う。それは郁子の体の奥深くしみ通っていくようだった。
「寒くない……」
郁子は目を閉じて、則行の胸に身をよじってもたれて行った。「あったかい……。もっとあったかくして……。則行……」
則行の腕の中にすっぽりと抱かれて、郁子は休日の朝に目覚めて、まだゆっくり二度寝できると分ったときのような、言い知れぬ心地良さに包まれていた。
「——ただいま」
郁子には、玄関を上りながら、何か起ったのだと分っていた。
インターホンで呼んでも誰も答えてくれず、自分で鍵《かぎ》をあけて入って来たのである。
それでも一応は「ただいま」と言ってみたが、やはり誰も応じてはくれない。
「どうしたんだろ……」
郁子は、呟《つぶや》きながら、ともかく靴下が濡《ぬ》れてしまったので、とりあえずお風《ふ》呂《ろ》場で脱ぎ、足をタオルで拭いてから二階の部屋へ上って行った。
まるで則行に体重を吸い取られたかのように、まだ体が軽い。息も乱れず、タッタッと階段を上って——。
ドアを開けると、窓辺に彼女はいた。
「——また雨ね」
郁子の方を見ないで、裕美子は言った。
「お姉ちゃん……」
郁子は、突然夢から覚めたような気持で、「私……」
「分ってるわ」
と、裕美子は言った。「心配することはないわよ。みんな病院」
「病院? ——何かあったの?」
「柳田の叔父さんが危篤なのよ」
靖江の夫である。そんなに悪いとは思っていなかった。
「じゃあ……行った方がいいね」
「居間のテーブルに、お母さんのメモがあるわ」
「分った」
郁子は、ともかく着替えることにした。
「郁子」
「うん?」
「男は男よ」
郁子の手が止った。裕美子はゆっくりと振り向いた。
「傷つくのはあなたよ」
「彼は……いい人よ。みんながみんな、同じようじゃないわ」
「今に分るわ」
裕美子は、少し寂しげな目で郁子を見つめていた。
「私……着替えて病院へ行くね。どれくらい前にお母さんたち……」
「一時間くらいでしょ。まだ間に合うわ、きっと」
「そう」
「郁子。——どうして私の目を見ないの?」
「別に……。着替えてるだけよ」
「彼に抱かれて、気持良かった?」
郁子が顔をサッと赤く染めた。
「お姉ちゃん……。私だって十六よ。男の子と付合ったって、いいでしょ」
一気に言って、郁子はゾッとした。裕美子に向って、こんな口をきいたのは、初めてだった。
裕美子が、則行と郁子の付合いを快く思っていないことは分っていた。しかし——郁子も「自分」を持っているのだ。裕美子の気持は痛いほど分りながら、則行との心の休まる時間を捨てることはできなかった。
「郁子——」
と、裕美子が言いかけたとき、電話の鳴るのが聞こえて、郁子は急いで廊下へ出て取った。
「——はい。——あ、お母さん」
「メモ、見た?」
と、少し押えた声で早苗は言った。「柳田さんが危いの。すぐ来られる?」
「うん。今、着替えてたところ」
「じゃ、待ってるわ。病室は……何号だったかしら」
「訊くからいい。すぐ出るわ」
と、郁子は言って、電話を切った。
部屋へ戻ると、もう裕美子の姿は消えていた。——少し胸が痛んだが、今は早く仕度して出かけることだけを考えることにした。
それでいて、部屋を出るとき、郁子は一《いつ》旦《たん》振り向いて、そこに裕美子がいないことで落胆していた。
階段を下りる。タクシーで行こうか。いや、むしろバスと電車の方が確かだ。
雨の中へ、傘を広げて郁子は出て行った。
何だか、ドラマチックな場面に来合せてしまった。
郁子は、病院の廊下を急いで、やっと柳田の叔父の病室を見付けたところで足を止めた。ちょうどドアが開いて、母が叔母を抱きかかえるようにして出て来る。
郁子は一瞬立ちすくんだ。——何ごとがあったのか、と思った。
しかし、考えてみれば「起ること」は分り切っていたのである。郁子が当惑したのは、叔母が肩を震わせて泣いていたからだった。
「あ、郁子、来たの」
と、早苗が言った。「今、柳田さん……」
そうか。——亡くなったのか。
「お別れしといで」
「はい」
郁子は、叔母に何か言おうか、せめて頭だけでも下げようかと思ったが、向うは全く郁子が来たことにも気が付いていないのである。
病室の中へ入ると、たった今、臨終を迎えたらしい。まだ医師が看護婦に何か言って書き取らせており、傍では若い看護婦が静かに、しかし手早く酸素吸入器や、心拍を見るオシロスコープを片付けていた。
ベッドの前には、父と兄が立っていた。
「お前か」
と、圭介が郁子を見て、「静かに逝《い》ったよ」
「そうだな」
と、父、隆介がポツリと言った。「こういう風に死にたいもんだ」
郁子はギクリとした。父がそんなことを言うのを、初めて聞くような気がした。
——意外なことだった。
あんなにも「忘れられた存在」だった叔父が、死によってこんなにも周囲を厳粛な気持にさせるとは。
叔母があんなに泣き崩れていたのも驚きだったが、すでに息をしなくなった叔父を見る父の目に、一種恐れにも似た身近な何かを覚えているらしい様子を見てとって、郁子は驚いたのである。
「後のことについては……」
と、半ば髪の白くなった医師が言いかけると、ドアが開いて、
「失礼いたします」
と、江口愛子が入って来た。「遅れまして。——お悔み申し上げます」
「うん」
隆介は、小さく肯《うなず》くと、「靖江は今、少し取り乱している。君、細かいことをやっといてくれるか」
「かしこまりました」
「先生、この江口君が承ります」
と、隆介は医師に言った。
「分りました。では、こちらへ」
江口愛子は医師へついて行こうとして、ふと隆介の方へ戻ってくると、
「対談は来週に延期してもらいました」
と言った。
「——ああ、そうか。ありがとう」
郁子は、ベッドのわきに立って叔父の穏やかな死顔を見ていたが、チラッと父の方へ視線をやって、江口愛子が一瞬父の右手を両手で包むように握りしめ、黙って軽く揺るのを見た。
江口愛子が出て行くと、隆介は大きく息をついて、
「圭介」
「うん」
「後を頼む。靖江が少し落ちついたら、相談してくれ。具体的な手配は江口君がする」
「いいよ。——父さんは?」
「少し疲れた。先に帰って休む」
「分った。母さんにも言っとく」
「うむ……。会えば自分で言うがな」
隆介は病室を出て行った。
看護婦もいなくなり、圭介と郁子が残ることになった。
「——出るか」
と、圭介が言った。「沙織にも知らせてやらないとな」
沙織は、早百合(そういう名になった)を連れて故郷へ戻っている。隆介の気が変ったせいで、圭介たちも家に同居することになっていた。
「でも、すぐには出て来られないでしょ」
「そうだな。ま、俺がいるからいいか」
「——お兄さん」
「何だ」
「お父さん、何がショックなんだろ」
「ああ……。人間、自分と年齢の近い奴が死ぬと、他人事じゃないからゾッとするのさ」
「それだけ? ——だって、お父さん……若いじゃないの。忙しいし、元気だし、それにあの江口さんと……」
「それはそれだ。若いと信じたくて、女を抱くんだろうから、実は若くないってことを知ってるのさ。知るのが怖いのかな」
そうだろうか?
若い女の肉体を征服することも、結局死を前にしては何の力にもならないということ……。父はそう思っていたのではないか。
「だけど、このところ葬式が続くな」
と、圭介がため息をつく。「気がふさぐぜ、こっちも」
それは事実だ。
小野、笹倉医師、和代。そして今、柳田の叔父……。
単に仕事上の付合いとか、そういう範囲でならともかく、血縁という点では柳田だけだが、他の三人も家の中にまで入って来る知り合いだった。
しかも、その内の一人は殺されている。
圭介が「気がふさぐ」と言うのも無理からぬところだった。
「うちは呪《のろ》われてるのかな」
と、圭介が冗談めかして言った。
「やめて、そんなこと言うの」
「何だ、怒ったのか。珍しいな」
「お兄さんの所は、赤ちゃんが産まれたばかりじゃないの。そんな縁起でもないこと、言うもんじゃないわ」
圭介は真顔になって、
「郁子。——お前、沙織に初めからやさしくしてくれたな。お前はいい奴だ」
と言った。「柳田の叔父さんも、お前のことを気に入ってたよ」
「でも……何だか気の毒みたい。生きてるときに、もっと『いい人だ』って言ってあげたかった」
「仕方ない。そんなもんさ、人生ってのは」
圭介は、郁子の肩を叩《たた》いて、「さ、行こう」
自分はドアまで行って手をかけたが——。郁子がベッドのそばにじっと立って動かないのを見て、
「どうした」
と、呼んだ。「郁子——」
突然、郁子が床に崩れるように倒れた。
「郁子!」
圭介がびっくりして駆け寄る。「どうした! ——郁子!」
自分が妙なことを言ったせいか。一瞬、本気で心配したが、手首をつかんでみると、脈はあった。
「待ってろ……。誰か呼んで来るからな」
圭介は、病室を飛び出して行った。