「お世話様でございます」
と、柳田靖江は医師に深々と頭を下げた。
「ご愁傷様でした。しかし、まあ苦しまずに逝かれたと思いますよ」
と、医師は言った。
「はい。本当にありがとうございました」
「では、これで」
医師と看護婦が行ってしまうと、靖江はフッと肩の力を抜いた。
霊安室は地下一階にある。——夫の遺体と二人きりになると、いくら夫婦だったとはいえ、あまりいい気持がしない。
その内、誰か夫の会社の人が来てくれる。そしたら、通夜やお葬式の打ち合せで気も紛れるだろう。
靖江は椅子に腰をおろした。涙が乾いて、目の周りが少しカサカサしている。
——クシャクシャになったハンカチを手にしていた。もう涙は乾いていたが、ハンカチには多少湿った感触が残っている。
靖江は、今ここにいた看護婦が何か言いたげにしているのに気付いていた。医師はそういつも靖江を見ているわけではないから分らないだろうが、看護婦たちの間では、靖江のことはかなり知れ渡っている。その辺の状況は正確につかめるのである。
——あの奥さん、ワーワー泣いてさ。それくらいなら、生きてる間にもっと大事にしときゃ良かったのよ。
——ねえ。やってくれるもんだわね。
ふしぎなことに、そんな会話が本当に聞こえてくるようでさえある。
ええ、ええ。何とでも言ってちょうだい。
あなた方も分るわ、その内には。自分が夫を持ち、子供を持ち、忙しく家の用事に追い回されるようになれば。そして何十年もそれが続いたら。
夫なんか、「空気」のような存在になる。いないと困るが、いても気付かない。夫はそれで自ら満足している人だったのだ。
確かに、靖江の方が少々活動的だったのは事実だが、夫はじっとしていることの方が性に合っていたのである……。
だから——今、夫はたぶんホッとしているだろう。いつまでも眠りたい、と言っていた人なのだから。
もう、いつまででも寝て下さい、あなた。——靖江はそう心の中で呟《つぶや》いた。
椅子にかけて、あまりに静かなのと、泣き疲れてしまったせいか、いつしか靖江はウトウトしていた。
椅子からずり落ちかけてハッと目を覚まし、
「いやだ……」
と、頭を振ると、
「——靖江さん」
と、呼ぶ声がした。
「え? ——はい」
つい返事をして、でもどこで呼んだのか分らない。
「靖江さん」
少し遠い感じの声。誰だろう?
靖江は立ち上ると、霊安室を出た。
廊下……。こんな風だったかしら?
少し眠ってしまったせいか、頭がボーッとかすんでいるようで、その廊下がどこか奇妙だということにも気付かなかった。
寒い。——ひんやりとした冷気が動いていた。足下をゆっくりと生きもののように流れている。
青い光が満ちていた。
廊下はのっぺりと続き、床も、壁も天井も、ただツルツルと光っていて、青い光に染っていた。
「——靖江さん、こっち」
廊下の奥から声がした。
「誰ですか? ——看護婦さん?」
靖江は、廊下を歩いて行った。
もちろん、看護婦が「靖江さん」などと呼ぶわけもない。早苗さん? ああ、きっとそうだ。
靖江は、少し足どりを早めたが……。
「靖江さん」
声がフワッと自分を包むように響いて、一体いつ廊下が終ったのか、靖江は自分が広い部屋の中を歩いているのを発見して当惑した。
ここは……どこだろう?
やはり青い光が部屋を満たして、冷気は一段と強くなったようだった。
足を止める。——目が覚めたようだった。
そこには、白い布で覆われた台が整然と並んでいた。三列——いや四列か。
一体いくつ並んでいるのだろう? 広い部屋の奥の方は青い闇《やみ》の中へ溶けて行った。
その白い布は、どれも人の形に盛り上り、台のわきへダラリと下っている。つまり……これは全部死体なのだ。
どうしよう? とんでもない所へ来てしまった。
そう。きっと病院の中でも、ここは入ってはいけない所なのだ。呼ぶ声につられて、きっと方向がよく分らず、こんな所へ迷い込んでしまった。
戻ろう。夫の所へ。でも、どうやって戻ればいいのだろう?
振り向いてみても、扉らしいものがない。そんな馬鹿な! 入って来たのだから、出られないわけがない。
靖江がともかく来た方へ戻って行こうとすると——背後で何か布ずれの音がした。
振り向くと、一つの台を覆っていた白い布がゆっくりと滑り落ちていくところだった。
スルッと床へ落ちて、音もなく波打つように広がる。
台の上には、青い光を受けて、青白い若い女の体が横たわっていた。全裸で、真直ぐ伸した両手が体のわきへピタリと寄せられている。
もちろん、生のきざしは全くなかった。
見たくなんかない! 死体なんて、会いたかないわ。
しかし、その女の死体から、靖江は目を離せなかった。少し離れていたし、見えているのは横顔で、それも明るいとは言えない青い光の下である。
それでも、靖江はその女に見《み》憶《おぼ》えがあるように思えてならなかったのだ。誰だろう? 誰かに似ている。
もう行こう。誰に似ていたってそんなこと構やしない……。
そう思いつつ、靖江の足はその台へ向って動き出していた。
どこかで……。そう、知っている。この人を知っている。
表情がなく、目を閉じていると、こうも見分けられないものか。靖江は台のそばへ寄って、その顔を見下ろした。
この人……。裕美子ちゃんに似てるわ。
そう。確かに似ている。それでも、人は、目がきちんと開いていて、表情のあるときでないと見分けられないものだ。
若い娘なんて、誰も似たようなものだ。それに裕美子がこんな所にいるわけがない。裕美子はもう何年も前に灰になって、お墓の中で安らかに眠っている。
——安らかに?
そうだろうか。裕美子は何もかも知っていたわけではなかった。今、郁子が日に日に裕美子に似てくるようで、靖江は時々ギクリとすることがある。
それはそれで当然のことではあるのだが……。
もう行こう。裕美子はもう死んだ。これはよく似た、全く知らない女の子なのだ。
靖江はその台から離れようとした。すると……。
何かをこするような、キューッというかすかな音がした。——何だろう?
靖江はもう一度、その若い娘の死体を見下ろして、目を疑った。
娘の白くか細い喉《のど》に傷口が開いて来たのである。血は出なかった。まるで一旦縫った縫い目がほころぶように、傷口がパックリと口を開けた。
そうすると、その娘はもう裕美子そのものになった。
靖江は、なぜか恐ろしいよりも懐しい気分で、我知らず手をそっと出して、娘のつややかな肩の丸味に触れた。その肌は、生きているようにつややかだった。
裕美子が目を開けると、靖江を見上げて、
「今晩は、叔母さん」
と言った。
靖江は、金縛りにでもあったように、動かなかった。
「よくしゃべれるわね、喉がそんなで」
自分でもびっくりするような、とんでもないことを言っていた。
「もう痛くないわ」
と、裕美子は言った。「ずっと昔のことだもの」
「そうね……。ずいぶんたったわね」
裕美子がゆっくりと体を起した。
「叔母さん。私の体、きれいでしょ」
「ええ……。きれいだわ」
その裕美子の白い裸身は、実際均整の取れた、立派なものだった。
「私は、愛する人にこの体を抱きしめてもらいたかった。——愛《あい》撫《ぶ》してほしかった。でも、結局何も知らずに死ななきゃならなかったのよ……。叔母さんにも分らないでしょう」
「裕美子ちゃん、私は……」
「訊きたいことがあるの。——正直に答えてね。叔母さんもまだ生きていたいでしょう?」
靖江は、初めて恐怖を覚えた。後ずさり、逃げ出したいと思ったが、足が言うことを聞かない。
「叔母さん」
裕美子がスッと台を下りて床に立った。白い体は青い光に染って、まるで青い服を身につけているかのようだ。
「裕美子ちゃん……」
膝《ひざ》が小刻みに震えた。
「叔母さん。どうしてお母さんは私を憎んでたの?」
思いがけない問いだった。
「——早苗さんが? 憎むだなんて……。そんなこと——」
「いいえ。普通の母親なら、娘が子供を産んだら、心配してくれるものだわ。お母さんはただ、世間の目ばかり気にしていた」
「そんな……」
「私が死んだときも、お母さんは泣きもしなかったわ。——私をなぜ愛してくれなかったの?」
「裕美子ちゃん……。それは——」
と言いかけて、「何も知らない方がいいのよ! ね、そういうこともあるのよ」
「叔母さん。——何も知らずにいた私が、あんなひどい目に遭って、あんな死に方をしなきゃならなかった。許せない。そうでしょう」
靖江は、自分が死んだ人間と話していることを、忘れそうになった。
「ええ、その気持は……」
「知っていることを話して。二度と目が覚めなくなるかもしれないわよ」
白い指がゆっくりと靖江の喉へ伸びて来て、かすかに触れた。それは氷のように冷たく、靖江の全身を凍らせんばかりだった。
「やめて……。裕美子ちゃん、お願い!」
と、かすれた声を出していた。
「私は、もっともっと寒い所にいるのよ」
靖江は、立っていられなくなって、冷たい床にベタッと座り込んでしまった。
床に手をついてやっと体を支え、
「——早苗さんを責めないで。あの人も辛い思いをして来たのよ……」
と、裕美子を見上げながら言った。
「それが私のせいなの?」
「あんたは……早苗さんの子じゃなかったからよ」
裕美子は長い間何も言わず、立っていた。ただ、青い光を浴びて立っていた。
靖江には、裕美子の目だけが激しい怒りとも驚きともつかぬ色を発しているのが感じられた。
「——そういうことか」
と、裕美子は言った。「そういうことだったのか」
「隆介兄さんは……いつも誰か女を作ってたからね。早苗さんは、圭介さんを産んでから体調を崩して、もう子供のできない体になったのよ……」
靖江は、やっと少し普通に声が出せるようになった。「許してあげて。早苗さんは、あんたも郁子ちゃんも——」
「私や郁子に何の罪があったの?」
「ええ……。分るわ。分ってる。でも、早苗さんの身になれば……」
「叔母さん、もう一つ訊くわ。私を辱めたのは誰?」
靖江がハッと息をのむ。
「知らない。——それは誰も知らないのよ」
「目をそらしたでしょ。知ってるんでしょ、叔母さんは」
「知らない。知らないのよ」
と、首を振った。「知ってどうなるの? 今さら何も変らない。そうでしょ?」
「罪は償わせるわ」
と、裕美子は言った。「その男が、私を殺したはずよ。でなければ、眠っている、寝たきりの女の喉を切るなんて、そんな残酷なことができるわけがない。——叔母さん。言って」
「お願い。勘弁して、裕美子ちゃん! もうこれ以上は——」
靖江は、床に頭を抱え込むようにして、キュッと目を閉じた。「裕美子ちゃん……。裕美子ちゃん……」
ガタガタと震える靖江の首筋を、ヒヤリと冷気が撫《な》でて通った。
「——お兄さん」
郁子は目を開けて、圭介がベッドの傍の椅《い》子《す》に腰かけたまま、居眠りしているのを見て、びっくりした。
「——うん?」
圭介はハッと目を開け、「郁子。——お前大丈夫か!」
——もう、朝になっていた。
病室の窓から光が洩《も》れ入って、ドアの外には人の話し声がする。
「私……貧血起したのか」
「うん。しかし、かなりひどいぜ。ほとんど一晩眠り続けてたんだからな。ちゃんと検査してもらえよ」
「ありがと。でも、もう何ともない、ぐっすり眠った感じ」
と、伸びをして起き上る。
圭介は苦笑して、
「呑《のん》気《き》だな。人に心配かけといて」
「お母さんは?」
「帰ったよ。いるって言ったけど、俺が無理して一緒に倒れたら困る、って言ってやったんだ。それに、医者が一応お前を診察して、過労だろうとしか言わなかったからな」
「過労か、勉強のしすぎかな?」
「おい……」
郁子は、軽く頭を振った。
「ごめんね、心配かけて。たまに貧血気味になるの。女の子にはそういうことって、あるのよ」
「分った。ま、どうせ叔父さんのこともあるしな」
「あ、そうか! 今日は学校があったっけ」
「それで勉強のしすぎか?」
と、圭介が笑った。「母さんが学校へは電話してる」
「そう……」
郁子は、ベッドから足を下ろし、「身だしなみを整えるから、ちょっと出てて」
と言った。
「分った」
圭介がドアを開けると、
「あ、藤沢さんですね」
と、看護婦が何やらあわてた様子で立っている。「昨日亡くなられた柳田さんの——」
「ええ、親《しん》戚《せき》ですけど」
「柳田さんの奥様がどこかへ行かれてしまって、見当らないんです」
圭介は、振り返って郁子と顔を見合せた。
「——どこに行ったんだろ? ここへは来てません」
「霊安室におられたんですけど、いつの間にかお姿が見えなくなって……。今朝になっても、戻っておられないんですよ」
「変だな。——じゃ、ちょっと父へ連絡してみます。兄ですから」
「お願いします。ショックで一時的に放心状態になる方もおありなんです」
「分りました」
圭介は廊下へ出て、公衆電話へと急いだのだった。
郁子は、診察でゆるめたままのスカートやブラウスをきちんと着て、鏡の前で髪を通した。
個室を借りてくれていたので、小さな洗面台もあり、顔を洗った。
やっと目も覚めて、病室を出ると、圭介が戻って来た。
「今、母さんも来るって。——どうしちまったんだろうな」
と、眉《まゆ》をひそめる。
「変ね。——でも、叔母さん、しっかりしてると思うけど」
「ああ。俺もそうは思うけどさ。人は見かけによらないって言うじゃないか」
と、圭介は言った。「お前は家へ帰ってろよ。タクシーに乗ってけばいい」
「どうせ、学校は休んじゃったんだから」
と、郁子は肩をすくめ、「それより、お兄さんは? 仕事、いいの?」
圭介は、何となく訊《き》かれたくない様子で目をそらした。
きっと、また仕事を変ったんだろうと郁子は思った。いつも長続きしないのだ。
しかし、圭介も今は一人の子の父親でもある。いつまでもそんなことをしてはいられないだろうが。
そのとき、さっきの看護婦が廊下を走って来た。
「藤沢さん!」
ただごとでない様子。青ざめた顔は、郁子たちをドキリとさせるに充分だった。
「あの——叔母が?」
と、圭介が訊いた。
「ええ……。いらっしゃいました」
「どこに? ——叔母の身にも何か?」
看護婦が問いに答えなかったので、圭介も郁子も悪い想像をせざるを得なかった。
「叔母も——もしかして亡くなったんでしょうか?」
圭介の問いに、
「あ、いえ。そうじゃありません。亡くなってはおられません。本当です」
「それなら……」
「ともかく、一緒にいらして下さい」
と、看護婦が先に立って行く。郁子と圭介は仕方なくその後をついて行った。
地下へ下りて行くと、何となく低い騒音が足下を揺るがすようで、
「——この奥です」
と、看護婦が言った。「一体どうしてこんな所へおいでになっていたのか分らないんですけど」
「何ですか、ここ?」
「洗濯室です。シーツやベッドカバーや、ナプキンや、そういう物を洗濯して乾燥機が乾かしてるんですけど」
大きな扉がスルスルと自動的に開くと、ゴーッという響きが郁子たちを包んだ。
びっくりするほど広い部屋に、大きな洗濯機、乾燥機が並んでいる。
「霊安室も地階なんですけど、ずっと離れてるんですよ」
機械と、立ち働いている人たちの間を抜けて行きながら、看護婦が言った。
少し大きな声を出さないと、聞こえない。
「こんな所に叔母がいたんですか」
と、圭介が言った。
「ええ。——洗濯物の山が、ゴソゴソ動いてるっていうんで、係の人が気味悪がって警備員を呼んで来たんです。で、シーツの山を取り除いてみると……」
看護婦がドアの一つを開けた。
「どう?」
休憩室らしいその部屋では、中年の女性たちが五、六人、タバコをふかしていたが、看護婦の顔を見ると、
「ああ。大分落ちついたようよ」
と、一人が言った。「でも、まだ時々震えが来てるけど」
「先生に診《み》ていただくわ。——柳田さん。甥《おい》ごさんたちがみえましたよ」
部屋の隅で背中を丸めてうずくまっている。——誰かが。
郁子は、それが叔母だとは思わなかった。看護婦が誰か別の人と勘違いしているだけで……。
そう。あれが叔母のわけがない。あの白髪の老婆が。
「——郁子ちゃん」
と、その老婆が言った。「もう大丈夫なの? 具合悪かったんでしょ」
「——うん。もう何とも……」
「そう。良かったわね」
「叔母さん……。あの——上に行きましょ。みんな心配してる」
郁子は、兄の方を見た。ただ呆《ぼう》然《ぜん》として靖江を眺めている。
靖江の髪は、まるで白く塗り潰《つぶ》したように、真白になっていた。——顔つきは少しも変っていない。それだけに髪の白さは異様に際立った。
「そう……。ごめんなさいね。自分でもどうしたのか、よく憶えてないの。何だかボーッとしてたらしいわ。——行きましょうね」
「ええ。歩ける?」
「大丈夫よ……。別に気分が悪いわけじゃないんだもの。本当よ」
郁子は、靖江の腕を取って、そっとその部屋から連れ出した。
「——何があったんだ?」
と、圭介が言った。
「お兄さん。——今は黙ってて」
と、郁子は小声で言った。「それより、お母さんたちを玄関で待ってて。このことを話しておいてちょうだい」
「分った。いきなり見たら、ショックだろうな」
と、圭介は呟《つぶや》くように言った。「何か——よっぽど悪い夢を見たんだ」
「そうね」
郁子は、靖江に肩を貸して、ゆっくりと歩いて行った……。