「お疲れ様でございました」
と、江口愛子が玄関で待っていて、頭を下げた。
「いいえ。江口さん。すっかりお世話になって」
と、靖江が礼を言った。「本当に何から何まで、良くやって下さって」
「とんでもありません」
と、愛子は首を振った。「それより、奥様こそ、お疲れが出ませんように」
「ありがとう。——今夜から家にあの人がいないと思うと、妙な気分ね」
「靖江、何してるんだ。さ、上った上った」
と、隆介が後からやって来て、妹をせかせる。
「はいはい。そう急かせないでよ。若くないんですから」
「和代さんにお塩を——」
と、早苗が言いかけてハッと口をつぐむ。
「本当ね」
と、郁子がすぐに引き取って、「まだ和代さんがいるような気がして、つい名前を呼んじゃうわ」
「私がいたします」
愛子が、浄めの塩をサッと簡単に打って、すぐに奥へ入って行く。
「さあ、休もう」
と言った隆介が、見たところでは一番休みを必要としているようだった。
靖江は、少なくとも外見はそうひどく疲れたり落ち込んだりしている風ではない。白くなった髪をすっかり黒く染めたので、むしろ見た目には若くなったようだ。
「——先生」
と、梶原が玄関の外から声をかけて、「私どもはこれで」
「何だ。いいじゃないか、ちょっと上れ。奥さんやお嬢ちゃんもお腹が空いたろう。寿司が来ているはずだ。食べて行ってくれ」
と、隆介が言うと、梶原は迷って妻の真子の方を振り向いた。
真子は、由紀子の手を引いて立っていた。
柳田の葬儀に、必ずしも真子は出ることもなかったのだが、江口愛子から、
「手が足りないので」
と言われ、由紀子を置いてくるわけにもいかなくて連れて来たのだ。
「じゃ、せっかくですから上らせていただきますわ」
と、真子が言うと、
「ああ。そうだな。せっかくだからな」
と、梶原がホッとしたように言った。
郁子は、二階へ上りかけながら、その梶原と真子の会話を聞いていた。
——一体何があったのか。真子が今ではすっかり夫を引張る立場である。
母は強し、ということに過ぎないのなら、それでいい。しかし、梶原の、妻に対してさえおどおどした態度は不可解だった。
「由紀ちゃん、おとなしくしてるのよ」
と、真子は玄関で娘の靴を脱がしてやりながら言った。
「はい。——お腹空いちゃった」
と、子供は大らかだ。
聞いていた人たちは笑った。
その一言が大分居合せた人たちの気持を楽にしたと言っても良かったろう。
——郁子は、ともかく制服を早く脱ぎたくて、二階へと上って行った。
「兄さん、すっかりお宅を借りちゃって、ごめんなさい」
と、靖江が言った。
「水くさいぞ。うちの方が広くて便利だからだ。それでよかろう」
隆介は、ブラックタイを外し、ワイシャツの喉《のど》もとのボタンを外すと、「今夜泊っていったらどうだ。部屋はある」
「いえ、結構よ。いくら何でも、私も柳田家の嫁ですから。亭主のお葬式の晩から外泊ってのもうまくない」
「それもそうか。では圭介に車で送らせよう」
「お願いしようかしら。明日が心配」
「いつでもうちへ泊りに来い。——早苗、お前も着替えろ」
「ええ。——でも、もうずっと着っ放しでもいいみたい。いやになるくらい、お葬式が続くわ」
「そりゃ仕方ない。俺たちがみんなそういう年齢になったということさ」
隆介はそう言って、洗面所へ行った。
冷たい水で顔を洗うと、少し気持が鎮まっていく気がする。
タオルで顔を拭き、鏡を見ると、愛子が静かに立っていた。
「何だ。——どうした」
隆介が振り向くと、愛子が抱きついて来た。
「おい……。誰が来るか分らんぞ」
と、ためらいがちに愛子の背中へ手を回す。
「分ってます……。でも不安で……」
「不安? 何がだ。俺も先が短いからか? そりゃ、お前ほど長くはないけどな」
と、隆介が笑うと、
「いいえ。——いいえ。あなたが一番良く分ってるでしょう。あなたが不安だから、私も不安でたまらないの」
隆介は、何も言わずに愛子の髪をそっと撫《な》でた。そして軽く息をつくと、
「——仕方ない。俺はもう年齢《とし》だ。同じような年齢の奴が死ぬと、つい次は俺の番かと考えてしまうんだよ」
「あなたを失うことが怖いんです。——こんな気持になったのは初めて」
「ああ……。こんなに不幸が重なれば、誰だってやり切れなくなるさ。な、落ちつけ。俺はまだ大丈夫だ」
「ええ……」
愛子は、やっとの思いで隆介から離れると、「——すみません。取り乱して」
と、目を伏せた。
「気にするな。さ、みんなに手伝わせて、お茶の仕度をしてくれ」
と、隆介は愛子の肩を軽く叩《たた》いた。
「はい……」
愛子は目《め》尻《じり》にたまっていた涙をそっと拭《ぬぐ》うと、居間の方へと戻ろうとして足を止めた。
「奥様……」
早苗が立っていた。
「ここだったの。あなた、お電話が、N大学の中山さん」
「ああ、そうか」
隆介は、急いで居間へと戻る。愛子もその後について行ったが、背中にずっと焼けつくような早苗の視線を感じていたのは、神経のせいだったのだろうか……。
「あらあら」
と、真子は苦笑して、「由紀ちゃん! みんなまだ食べてないのよ」
由紀子が、卵焼きに手を出して、さっさと頬《ほお》ばっていたのである。
「いいさ。子供はそう我慢してられやせん」
と、隆介は笑って言った。「さあ、みんな食べてくれ。少し厄《やく》を落す必要があるかもしれんしな」
「——これと、まだ一つありますよ」
と、愛子がお寿司の器をテーブルに置く。
「置ききれないわ」
と、真子が目を丸くして、「あなた、持って来ておあげなさいよ」
「ああ」
梶原が愛子を抑えて、台所へ行った。
「お皿、足りますか?」
と、愛子が小皿を数える。
「一枚足りない?」
「らしいな」
と、圭介が肯く。「何でもいいよ。別に揃《そろ》ってなくても」
「そうね。あ、そうそう、おしょう油もなかった! 何してるのかしら、私」
と、愛子は少し頬を赤くした。
「どこにあるか、分るか?」
と、隆介が訊く。「早苗、行ってやれ」
早苗は席を立とうとしなかった。
「——おい、早苗」
「私も知りません。和代さんは何でも色んな所へしまってしまうんですもの、置き場所がいつも変って」
と、早苗が言った。
「私、捜すわ」
郁子が立ち上る。もちろん、もう普段着に替えていた。
「いいんです。捜せますわ」
と、愛子が言った。
「早苗、お前が一番良く分ってるだろう。一緒に捜してやれ」
隆介が少し苛《いら》立《だ》って言った。
「だったら、あなたが行って捜してあげたら? 江口さんだってその方が嬉《うれ》しいでしょう」
早苗の言葉で、一瞬テーブルの周囲が静かになった。
梶原が、寿司の器を抱えて戻って来て、
「最後が一番豪華だぞ! 残りものに福がある、って奴だ」
と、明るく言ったが……。
その場の雰囲気に気付いて、
「どうしたんです?」
と、ふしぎそうに言った。
「何でもないんです」
と、愛子が行きかけると、
「小皿は、流しに向って左手の扉のついた棚の下から二段め。おしょう油はお米のケースの隣、プラスチックの棚の中」
——誰もが、しばらく口をきかなかった。
その言葉は、あまりにはっきりと語られて、聞き間違いや空耳の可能性の全くないものだった。
「——よく知ってるのね、由紀ちゃん!」
と、愛子が微《ほほ》笑《え》んで、「言われた所を捜してくるわね」
と台所へ小走りに。
「——由紀子。どうして知ってるんだ、お前が?」
由紀子は黙って、注いでもらったジュースを飲んでいる。
愛子がすぐに戻って来た。
「当り! ちゃんとありました」
右手に小皿、左手にしょう油のペットボトルを持っている。
「驚いた。由紀ちゃんは超能力があるのかな?」
と、圭介が言った。
「よっぽどお腹が空いていて、覗いたのよね。由紀ちゃん」
と、真子が言った。「だめよ、よそのお家であちこち勝手に開けたりしては」
由紀子は、しかし自分が何を言ったかも忘れたように、早速小皿にお寿司を取っていた。
「——さあ、食べよう」
隆介の言葉で、みんながホッとしたように食べ始めた。
むろん、葬式の後なのだから、と言えばそれまでだが、テーブルを囲むみんなの表情は、今ひとつ晴れず、話も切れ切れのまま宙に浮いていて、どこかかみ合わないものがあった。
隆介、早苗、圭介、郁子。そして梶原と真子、江口愛子。——靖江もまた、それぞれに自分なりの不安を抱えて、それに気付かないように振舞っていた。
ただ、由紀子一人が、無心にお寿司を食べていたが……。
電話が鳴って、
「私が出る」
郁子は、席を立った。
カタカタとサンダルの音が人恋坂に響いた。
それは郁子の心そのもののように弾んでいた。
「やあ」
と、相沢則行が手を上げる。
「学校の帰り?」
と、郁子は少し息を弾ませている。
「クラブをさぼった」
と、則行は笑顔で、「何だ、元気そうじゃないか。良かった」
「心配して来てくれたの?」
「ああ。だって、学校を休んでるって言うしさ」
「叔父さんが亡くなったのよ」
「そうか……。じゃ、今日が葬式?」
「ええ。このところ、続いてるからね。家の中は重苦しいわ」
と、郁子は言った。「ね、上って行かない?」
「まさか。こんなときに上れないよ」
「じゃあ……。少し歩こう」
と、郁子は言った。「坂を下りないで、上って行きましょ」
「どっちでもいいよ」
と、則行は肩をすくめた。
「遠回りだけど、バスで帰ればいいわ」
郁子は、則行の腕を取った。
二人は坂を上り、藤沢家の前を通って広い通りの方へと出て行った。
郁子は、ちょっと足を止めて家の方を振り向いた。
「——どうかしたのか」
「何でもない」
と、郁子は首を振って、「ね、シェークを一杯飲みたいな」
「そんぐらいの金ならある」
「じゃ、おごって」
郁子は、ごく普通の男の子と女の子のようにしながら、甘えていられることが嬉しかった。
坂を上りながら、郁子はずっと感じ続けていたのだ。自分の部屋の窓辺に立つ人——裕美子がじっと自分たちを見つめているのを。しかし、郁子は則行の肩に顔を押し付けるようにして、ついに窓を見なかった……。
「——甘いな」
と、自分もバニラシェークなど頼んで、則行は顔をしかめた。
「だから言ったじゃない」
と、郁子は笑った。
——二人はハンバーガーショップの二階で席についていた。空いた時間なので、飲み物だけでもいやな顔はされない。
「飲めなかったら、やめたら? コーラでも買って来てあげる」
と、郁子が言うと、則行はパッと表情を変えて、
「いや、旨《うま》い」
「何だ。甘いもんも好きなの?」
「初めて、旨いと思った」
「虫歯がふえるかもね」
「ああ。でも——何だか、思いっ切り甘いものが欲しい気分だったのかな、もしかすると」
郁子は自分のストロベリーシェークを少しストローでかき回して、
「私もそうかもしれない。子供のころに戻って、甘いものに浸って……。幸せだったころのことを思い出す……」
「うん……」
二人は少し黙っていたが、則行がやがてちょっと笑って、
「俺たち、いくつだ?」
「本当だ」
二人は一緒に笑った。そして、
「——何かあったのね」
と、郁子は訊いた。
「話したくない」
と、則行は首を振って、「今はもっと楽しい話をしよう」
「ええ……」
郁子はチラッと他のテーブルを見回した。
二人の方へ顔を向けている客はなかった。郁子は、則行の手にそっと自分の手を重ねた。
「また……二人で出かけたいわ」
「うん。——今度も弁当付きかな」
「何人分でも」
と、郁子は言って、則行の手を握りしめながら、ふっと窓の外へ目をやった。
「そろそろ帰らないと……。すぐ戻るって言って来ちゃったから」
郁子はそう言って、手の甲にパタッと何か滴が落ちたのを感じて目を向けた。「——あら」
「何だ……。鼻血なんて、出したことないのに」
と、則行が急いでハンカチを出し、鼻に当てた。
「大丈夫? 上を向いて。——鼻の両脇を押えるといいのよ」
「こんな甘いもの、たまに飲んだせいかな」
「待って。何か——タオルみたいなものがあれば」
「じきに止るさ」
だが、鼻に当てていたハンカチは、見る見る血に染って行った。「——畜生、ひどいな」
「私——何も持って来なかった……」
郁子は、店の人に頼んで、タオルを一枚借りて来た。
「ね、これ……」
と、タオルを差し出そうとして青ざめた。
テーブルの上に血だまりができている。則行は口に流れ込もうとする血を必死に吐き出していた。
他の客たちも心配そうに見つめている。
「横になって! 仰向けに——」
則行は首を振って、
「上向くと……喉《のど》に入るんだ……」
と、切れ切れに言った。
郁子はタオルを当てたが、それもたちまち血に染って行く。
郁子は身震いした。——やめて! やめて!
郁子は、床に膝《ひざ》をつくと、顔を伏せ、
「お姉ちゃん……。お願い、もうやめて!」
と、押し殺した声で言った。「この人が何したの! お願い、やめて!」
——目の前に誰かが立っていた。
顔を上げると、裕美子が見下ろしている。白い衣装が血に染って、青白い顔で、じっと郁子を見ている。
「——お姉ちゃん」
「思い出すのよ。あのとき、あなたが何を誓ったか。あなたの母親が、どんな目に遭ったか」
「憶えてる、忘れやしないわ」
「それなら、してくれるわね。私の願ってることを」
「お姉ちゃん……」
「郁子。——あなたは私の子なのよ」
「分ってる……。分ってるから……。お願いよ、この人にひどいことをしないで」
「ひどいこと?」
裕美子が微笑んだ。「こんなことが? 私が何をされたか……。まあいいでしょう。あなたには分らない。誰にもね。——私は決して忘れない。郁子。分ってるわね」
「分ってる……」
郁子は顔を伏せた。「分ってるから……。お姉ちゃん——」
「——おい」
肩に手がかかった。ハッと顔を上げると、
「もう止った。——大丈夫だよ」
と、則行が血で汚れた顔で肯いて見せた。
「——止った? 良かった」
郁子は立ち上りながら少しふらついて、「心配だった……」
「お前こそ、何してたんだ? お祈りでもしててくれたのか。ブツブツ言ってたもんな」
「そんなものよ」
と、郁子は言った。「さ、洗面所で顔を洗って来て。ひどい有様よ」
「ああ。店の人にも——」
「私がお礼を言うから。ね、則行は顔の汚れを落として来て」
「うん……。ああ、気持悪いよ。口の中が……」
と言いながら、則行は二階のトイレに入って行った。
郁子は、テーブルの上に広がったままの血だまりを見下ろして、ゾッとした。
郁子が迷っていることを、裕美子はちゃんと承知しているのだ。
靖江の髪が一夜で真白になっているのを見たとき、郁子は自分のしたことに愕《がく》然《ぜん》とした。いや、むろんやったのは裕美子だとしても、郁子はそれに手を貸していたのだから。
しかし、あの叔母をそこまで恐ろしい目に遭わせてどうなるというのだろう。——郁子は、このままでいいのかと……。裕美子の仕返しが、どこまで行くものなのかと、恐ろしい思いでいたのである。
裕美子はそれを察していた。もしここで郁子がためらうようなことがあれば、則行が——。次のときには、鼻血は止らないだろう。いや、もっとひどいことになっているかもしれない。
——郁子は、覚悟を決めなければならなかった。
「やっと、さっぱりした」
と、則行が戻って来た。
「私、お店の人と話してくる」
郁子が謝りに行くと、責任者の女性が快く、
「誰だって具合の悪いことはあるんだから」
と言ってくれた。
郁子は、重苦しさから少し救われた気がした。
則行をバス停まで送ると、すぐにバスが来て、
「何だかひどいことになっちゃったな」
と、少し照れた様子。
「ううん。でも、気を付けて。服に血がついてるわ」
「うん。あんまりのぼせないようにするよ」
則行がバスに乗って、席を捜すよりも窓から郁子へ手を振ってくれる。そばの女性客が仏《ぶつ》頂《ちよう》面《づら》をしてそれを眺めている。
バスはすぐに遠ざかり、郁子は手がまだ少し血で汚れていることに、やっと気付いた。
戻ろうとすると、
「——江口さん」
愛子が少し離れた所に立っていたのだ。
「遅いから見に来たの」
「ごめんなさい」
「今の子、彼氏?」
一緒に家へと歩きながら、「すてきな子だ、なかなか」
「まあ、そんなもんかな」
と、両手を背中で組む。
手の汚れを見せたくなかった。
「もう、みんな食べ終った?」
と、郁子が訊く。
「郁子さんの分、少し取ってあるわ。先生のご指示で」
「そうお腹空いてるわけじゃないけど」
「みんなそうね。——そうパクパク食べる状況でもないし。でも、その割にきれいに食べ尽くしちゃってる」
と、愛子は笑って言った。
郁子は、ふと愛子の笑い方に心の和むものを感じた。——本来なら、母の気持を考えれば到底好きにはなれない相手である。
「愛子さん、大変ね。和代さんがいなくなって、雑用がふえたでしょ」
愛子はちょっとびっくりしたように、
「そんなことは……。どうでもいいの。どうせ、自分の時間はないと思ってるから」
「よくやれるなあ、そんなに」
「郁子さん……」
愛子は、何か心に秘めたものを打ち明けようとするように、じっと郁子を見つめたが、気が変ったのか、「ありがとう」
とだけ言った。
そして、家が見えて来た辺りで、中から梶原たちが出て来たのを見て、
「もうお帰り?」
と、声をかけた。
「明日、学校ですし」
と、真子が由紀子の手を引いて、「あなた車をここへ持って来て」
「うん。じゃ、待ってろ」
梶原が小走りに行ってしまう。——もう黄《たそ》昏《がれ》どきになっていた。
「もう眠そうね」
と、愛子は、トロンとした目で欠伸《あくび》をしている由紀子の頭を軽く撫でた。
「子供はどこででも眠れるものね」
と、真子は言った。「どうぞ、いらして。すぐ主人が車を回してくるわ」
「ええ、それじゃ」
愛子が会釈して、家の方へ入って行く。
郁子は、由紀子がじっとこっちを見ているのに気付いて微笑んだが、向うはそんなことを望んでいるわけではないようだった。
「郁子さん、お母様もお疲れのようね。お気を付けて」
と、真子が言った。
「ええ。ありがとうございます」
郁子は礼を言って、「じゃ、さよなら由紀子ちゃん」
由紀子は、どこか人を冷ややかに眺めているようで——気のせいかもしれなかったが——郁子はあまりいい気持がしなかった。
「由紀ちゃん。さようなら、は?」
と、真子が娘をつつく。
「あ、いいんですよ。じゃ、失礼します」
と、郁子が会釈して玄関へと歩いて行くと、由紀子が何か小声で歌を歌い出した。
郁子は振り向いて、真子がなぜか青ざめた顔で、
「やめなさい、由紀ちゃん!」
と叱《しか》りつけるのを見た。
別に、子供が歌ったって、叱るほどのことでもないようだが。
車が来た。
「さ、乗るのよ!」
真子はあわてた様子で娘を後部席へ乗せると、自分は助手席へ乗り込んだ。
梶原は、玄関の前にたたずんでいる郁子に気付くと、なぜかこわばった表情で会釈した。何とか笑顔を装ってはいたが、あまり目を合せていたくなかったのは確かだ。
何があったのだろう? 梶原が変ったということは確かだ。
車が走り去り、玄関を入りながら、郁子は今、由紀子が口ずさんでいた歌を口の中でくり返してみた。
ああ。——フォスターの〈草競馬〉だわ、あの子が歌ってたの。
「郁子、どこへ行ってたんだ?」
と、圭介が玄関へ出て来て、呆《あき》れたように言った……。