「——以上の点から見て、日本的経営のマイナス点に目をつぶってやっていく、これまでのやり方は、日本企業にとってもいい結果を生まない、と言わざるを得ません」
藤沢隆介の声は、たとえマイクがなくても充分にこの七百人収容のホールに響き渡っただろう。しかし、もちろんマイクの使い方にかけては隆介はプロである。
「欧米企業は、短期的発想で経営方針を変えますから、今、日本的経営を評価しているからといって、それが明日引っくり返らないとは限らないのです。以上、大《おお》雑《ざつ》把《ぱ》に——」
ちょっと言葉が途切れた。「大雑把ではありますが、私の見解を申し述べました」
時間はピタリ。一分の余りもない。
拍手が起る。——むろん、「お義理」という面もないではない。しかし、隆介は聴衆の手応えを正確に計測するのにも慣れている。
隆介は、自分の言いたいことは言いながら、聞く立場の人間を認めてやることを決して忘れない。それが、隆介の講演に人気の集まる理由なのである。
人は、「自分が間違っていた」と認めたくないと同時に、「間違っていたと認める自分は偉い」と思うことも好きなのだ。
舞台の袖《そで》で待っていた江口愛子は、隆介が戻ってくると、
「お疲れさまでした」
と、おしぼりを渡す。
「ああ、ありがとう。——マイク、調子はどうだった?」
「ちょうど良かったと思います」
廊下へ出ると、
「先生、ありがとうございました」
と、主催者の担当の男が礼を言いにくる。「どうぞ、あちらでお休み下さい。社長も待っておりますので」
「いや、せっかくですが」
と、隆介が愛子を見る。
「次の予定が、先方の都合で早まりまして。申しわけありませんが、これで失礼いたします」
と、愛子が言うと、
「あ——。そ、そうですか! でも、社長が……。あの、ちょっとお待ち下さい!」
担当の男があわてて駆けて行く。
「やれやれ」
隆介は笑って、「あの社長の相手をするんじゃ、休んだことにならん」
社長という人種は、いつも周囲が気をつかってくれるので、自分の方で気をつかうことに慣れていない。招いておいて自慢話ばかり聞かせるような社長は少しも珍しくない。
そういうときは、愛子もちゃんと心得ていて、「次の予定が」と言うことにしているのである。
「——先生」
と、愛子は言った。「誰かご存知の方がいらしたんですか、お客の中に」
「どうしてだ?」
「終りのところで、ちょっと言葉が途切れました」
「君は鋭いな」
と、隆介が苦笑した。「圭介がいた」
「え?」
「終り近くに入って来たのがいたんで、誰だろうと思ったんだ。そしたら圭介だった」
「そうですか。じゃ——たぶんロビーでお待ちですね」
「用があるから来たんだろう。あいつの方から用があるってときは、大体ろくなことがない」
「でも、今は早百合ちゃんもいらっしゃることですし」
「ああ……。君、ちょっと行って見て来てくれんか」
「はい。それじゃ、下のティールームででも?」
「そうしよう」
愛子は足早にロビーへと出て行った。
聴衆はほとんど帰った後で、圭介がソファに座っているのがすぐ目に入った。
「——やあ」
「どうなさったんですか?」
と、愛子は訊いた。
「親父、気が付いたんだな。大したもんだ。——すぐ出てくる?」
「ええ。先生に急ぎのご用ですか」
当然のことだ。特に急ぐのでなければ、夜、家で話せばいいことである。
「ちょっとね。時間、あるかな?」
「三十分ほどでしたら。下のティールームにいらして下さい」
「分った。そうするよ」
と、圭介は立ち上った。「——ここで一時間しゃべって、いくら取ってるんだい?」
「百万円です」
「一時間百万か」
ヒュッと口笛を鳴らし、「パートのおばさんが一時間七百円とかいってるのが別世界だな」
「でも、先生はきちんと準備なさるし、緊張もされてお疲れになるんですよ」
「ああ、分ってる。——じゃ、待ってるよ」
愛子は、やや複雑な表情で圭介の後ろ姿を見送っていた。
「どうした?」
と、隆介がやってくる。
「あ、先生。すみません。——もう、いいんですか」
「どこかへ飲みに行こう、なんて言い出すから、『またいずれ』と言っといた。あそこはだめだな。調子に乗りすぎると先は見えている」
「圭介さんはティールームで」
二人はホールを出て、エレベーターの方へ歩いて行った。
「何か言ってたか」
と、エレベーターの中で、隆介は言った。
「いえ……。でも、お金の話ではないでしょうか」
「そうか……」
「お友だちの会社を手伝っているとおっしゃっていますけど、大丈夫でしょうか」
「あいつは、何でも中途半端なんだ。人は悪くないから、あくどい稼ぎはできん。といって、分を心得て、地道に働くのも苦手だ」
「甘えてらっしゃるんです」
と、愛子は、少しきつい口調で言って、「すみません。——それを言えば私だって」
「それとこれは別だ。愛子」
「はい」
「少し、君のマンションで休みたい。構わんか」
愛子は隆介を見つめて、
「いつでも。お好きなときに」
「ベッドに男が寝てる、なんてことはないか?」
「私、お年寄りにしかもてませんの」
隆介は、楽しそうに笑った。エレベーターが一階に着く。
「——君、車の所で待っていてくれ」
「はい」
隆介は、圭介の待つティールームへと歩いて行った。
背中に、老いのかげが射している。足どりもスタイルも若々しいが、やはり六十七という年齢は、隠しようがなかった。
愛子は、鞄《かばん》を持ち直すとビルの出口へと向った。
「——もしもし。——ええ、今そっちへ向ってるんですが、車が渋滞に巻き込まれてまして……」
愛子は、声のした方を振り返って、笑いそうになってしまった。
ロビーの隅で、携帯電話を使っているのである。三十代半ばくらいの、いかにも人当りの良さそうな男だった。
車が渋滞に巻き込まれて、か——。
ビルのロビーで、渋滞もないものだ。ああいう言いわけがスラスラ出てくるのは、感心したことじゃない。まあ、人それぞれ事情はあって、愛子の知ったことではないが。
ビルを出ようとしたとき、今度は愛子の鞄の中で携帯電話が鳴り出した。あわててロビーの椅子にかけ、電話を取り出す。
「はい、江口です。——もしもし?」
向うは黙っている。誰だろう?
「もしもし?」
とくり返して、切ろうとした。
「父を返して」
と、声がした。
「——え?」
「父を返して」
「どなた?」
「私——裕美子です」
女の声。若い女だが、少し遠い声だった。
「裕美子さん……?」
「父はあなたのものじゃないわ。返して」
「あの——」
電話は切れた。
裕美子。——裕美子だって?
「そんなことって……」
パタリと電話をたたむ。——いたずらか。それとも——。
「——ああ、山口です。——ええ、どうもすみません」
さっきの男が、愛子の近くの椅子にかけて、また別の所へ電話している。
愛子は、立とうとした。
「——今日、これから急にニューヨークへ発つことになりまして。——ええ、今、成田なんですよ。本当に申しわけありません。今日お返しにあがれると思ってたんですが」
愛子は呆《あき》れてしまった。つい、耳をそば立ててしまう。
「——いえ、いつかご紹介した、藤沢君が。——ええ、そうです。藤沢隆介の息子なんですよ。彼がきちんと保証しますんで。——ええ、ご心配は全くありません」
愛子は、自分にかかって来た電話のことも一瞬忘れていた。
「——ニューヨークから戻りましたら、すぐ飛んで行きますから。——よろしくお願いします! ——はい、どうも」
山口といったその男は、さらに別の所へ電話をかけようとしていた……。
「——先生」
愛子は、ベッドで眠り込んでしまった隆介を、軽く揺さぶった、「先生。——起きて下さい」
「うん?」
隆介はハッとした様子で、「どうした?」
「いえ、何も。大丈夫です」
と、急いでなだめて、「ただ、お宅へ帰られた方が、と思って」
「そうか……」
隆介は、上体を起こした。「君の部屋だったな」
カーテンを引いた寝室は暗いが、まだ夕方の六時。少し明るさが残っている時刻だった。
「俺は……」
隆介は、ワイシャツとズボンのままの自分に気付いて、「そうか。——途中で眠っちまったのか。すまん」
「やめて下さい」
愛子は、裸身にシーツを巻きつけて、「充分楽しかったのに」
「そうか……。それならいい」
隆介も、愛子の気のつかい方に同調することにした。「今夜は、ここで何か食べて帰ろう」
「お帰りになった方が」
と、愛子は言った。「お宅で食事をとられて下さい」
隆介は、愛子の手を握った。
「——その方がいいかな」
「そうして下さい。奥様に電話なさって」
「分った。そうしよう」
と、隆介は肯いた。
「シャワーを浴びて来ます」
愛子はベッドを出て、バスルームへと入って行った。
ザッとシャワーを浴びて、バスローブをはおって出てくると、隆介が上着を着ている。
「奥様は?」
「ああ。今から帰ると言ったら、待ってると言ってた」
「良かったわ。——あ、ネクタイが曲ってます」
愛子は、手早くネクタイをしめ直して、「車でお送りします。五分で仕度できますから」
「タクシーで帰るよ」
「送らせて下さい」
愛子には、隆介と話したいこともあったのである。
——自分の車に隆介を乗せることは、愛子にとって愉《たの》しみだった。自分が運転席にいて、隆介は助手席。いつも、「先生と秘書」という間柄でいるときと違って、二人が対等の関係でいられるような気がするのである。
もちろん、それが自分の立場を少しも変えるものでないことぐらい、愛子も承知していたが。
「——いつもより、スピードを出さないんだな」
と、隆介が言った。
「夕暮どきは危いんです。視界が狭くなって」
と、愛子は言った。「グレーの服の人が横断歩道を渡っていると、下のアスファルトの色に溶け込んで、一瞬見えなくなることがあります。いつでも、急ブレーキを踏んで間に合うスピードにしておかないと」
「なるほど」
と、隆介は感心したように言った。「君らしい観察力だ」
赤信号で車を停《と》めると、
「先生。——圭介さんは何とおっしゃったんですか?」
と、愛子は訊いた。「私の訊くことではないかもしれませんが」
「いや、そんなことはない。いや、君にも知っておいてもらった方がいい。——商売の話だが、金を貸せというのとは違ってたよ」
と、隆介は笑って言った。
「それでは……」
「出版の仕事を手がけたい、と言うんだ。発行と発売が別ということは珍しくない。発売はどこか大手の出版社に委託する。——ま、その口ききを頼みたいというのと、俺の講演をまとめて本にしたい、と言うんだ」
後の車のクラクションが鳴って、愛子は急いでアクセルを踏んだ。
「——な、愛子」
と、しばらくして、隆介は言った。「君に力を貸してほしい。今でさえ君が忙しいことはよく分ってる。しかし、この仕事を頼める人間は他にいないんだ。やってくれるか」
愛子はじっと前方を見据えたまま、答えなかった。
隆介はやや不安げに愛子の横顔を見て、
「ま、君には相当無理を言っている。どうしても、とは言えないが……。俺の方の仕事で、少し手を抜いてくれてもいい。給料もそれなりにふやそう」
と、思い付きを並べて、「——俺は心配なんだ。このところ、身の周りで、どんどん先立つ者が続く。俺も、遠くはないかもしれん」
愛子は黙って唇をかんだ。隆介は続けて、
「俺がいなくなったら、後はどうなる? 早苗は生活力などない。郁子はまだ高校生だ。柳田が元気だったら、色々頼んでおけたが、先に死んじまった……。結局、圭介しかいない。その圭介が、三十七になるのに、何をやりたいのかさっぱり分らんと来ては、頭が痛いのも分るだろ?」
隆介はため息をついて、「今度の話が、うまくやれるかどうか分らん。しかし、ともかくやらせてみたいんだ。うまく軌道に乗れば、あいつもそれなりにやっていくだろう。——俺の力でできることは、してやりたい」
隆介は、愛子の方へ目をやって、びっくりした。愛子の頬を、涙が伝い落ちていたからだ。
「おい、どうしたんだ? 大丈夫か?」
愛子の涙を見たのは初めてで、隆介はあわてた。
愛子は車を道の端へ寄せて停めると、
「大丈夫です。——すみません」
と、ハンカチを出して涙を拭《ぬぐ》った。
「いや……。すまん。俺が無茶ばかり言って——」
「そんなことじゃないんです」
と、首を振り、「私は——言われなくてもお手伝いする気でした。だからって、先生の仕事も、決して手は抜きません。ただ……先生が、今にも亡くなられそうなことをおっしゃるんで、悲しくなって……」
「すまん。——すまなかった」
隆介が、愛子の肩を抱く。愛子はそのまま隆介の胸に顔を埋めた。
「愛子……。お前はすてきだ」
と、隆介は言った。
嬉しそうな声だった。
——愛子は、隆介の腕の中でじっと目を閉じていた。言ったことは嘘《うそ》ではない。しかし、泣いてしまった理由はそれだけではなかったのだ。
圭介の話がでたらめだということ——少なくとも、父に隠している部分がいくらもあって、おそらくそれの方が差し迫った問題に違いないということを、愛子はあのロビーで聞いた、山口という男の言葉で知っている。
隆介が、息子の言葉を信じ、素直に喜んでいるのを見て、哀れだったから泣いたのだ。そして圭介に対して怒りを覚えた。
しかし、今こうして喜んでいる隆介に、自分の考えていることを、そのままぶつけることはできなかった。愛子は、圭介たちが何を考えているのか、何を狙《ねら》っているのか、今どんな状況なのか、ちゃんと調べ出してやろうと決心していた。
「——もう大丈夫です。すみません」
愛子は体を離すと、「お宅でお待ちですね、奥様が」
と、微《ほほ》笑《え》んで車を出した。
そして、少し走らせた所で、
「——先生。裕美子さんって、亡くなったお嬢様でしたね」
と訊いた。
「ああ、どうしてだ?」
「いえ……。亡くなって、どれくらいたつんですか」
「七年だ。——俺がちょうど六十のときだった。裕美子のことがどうかしたのか」
「何でもありません。ふっと思い付いただけで」
と、愛子は言って、「明日は何時にお迎えに上りましょうか」
と、話題を変えたのだった。