〈秋のN展〉
ポスターの紅葉色が、いかにも美術の秋の気配だった。
ゆうべは台風が通り過ぎて、古い家はあちこちがミシミシときしんで、神経質な早苗はよく眠れなかったのだが、今日は乾いた晴天。空気も洗い流されて澄んでいる。
早苗は午後から出かけて、この美術展にやって来た。——格別に絵が好きというわけではない。昔からの友だちがN展に出品し、入選してここに出ているというので、見に来たのである。
お付合いというもので、またそういうことでもないと、なかなか外出する気になれないのも事実だった。
秋になって、涼しい日がふえる度、弱っていた早苗の体も徐々に回復して、こうして出歩けるところまで来た。健康のありがたさが身にしみる。
今日は、その友だちが、早苗が来るというので待っていてくれることになっていた。
入口を入ると、〈出展者案内〉という机があった。ロビーで、という約束だったし、時間は五分ほど過ぎただけ。ここにいてくれるはずだが。
見当らないので、少し待とうと思ったが、座る椅《い》子《す》がない。ずっと立っているのも疲れそうで、
「——あの、すみません」
と、机の所へ行って、「ここに入選したお友だちと待ち合せているんですが」
と言ってみた。
「はい、お名前は? ——入選した方と、そちら様の」
「あ……。私は藤沢早苗です。友人は岡本。岡本信子です」
「お待ち下さい」
若い女性だったが、対応はていねいで気持良く、早苗など、それだけでずいぶん疲れがいやされる気がした。
「——あ、岡本さん。ご伝言がありました。今、他のお客をご案内しているので、喫茶室で待っていてくれ、とのことです」
「まあ、そうですか! うかがって良かったわ」
「大勢いらっしゃるんですよ、ここで待ち合せて、お会いになれずじまい、という方」
と、係の女性は微笑んだ。
「そうですか。その喫茶って……」
「その右手の階段を下りられると、すぐですわ」
「どうもありがとう」
「いいえ」
正直、ここまで来るのに少しくたびれていたから、ホッとした。
段差の小さい階段をのんびり下りて、意外に広い喫茶室へ入る。
中庭らしいスペースに面した、明るい場所だった。三分の二ほど席が埋っているが、どこに座っても、捜すのに手間どるというほどでもない。
「——ミルクティーを」
と、早苗はオーダーして一息つくと、全面ガラスの向うに、日射しを一杯に浴びた中庭が広がっているのを、まぶしげに眺めた。
緑が鮮やかで、まるで新緑の季節かと思うほどだ。空気が澄んでいるのと、台風の雨で緑が洗われたせいだろう。
ミルクティーに砂糖を少し多めに入れて一口飲むと、思いがけずその熱さが早苗の一番の好みの温度で、この上なくおいしい。そう高級な紅茶を使っているわけではないだろうが、場所や気分でこうもおいしく感じることもあるのだ。
出かけて来て良かったと……。心から良かったと思った。
同時に、いささかの皮肉を自分へ向けて、こんなことで幸せになるのは、年《と》齢《し》をとったという証拠か、とも思ったりしたのである。
年齢……。そう。何といっても、六十なのだ。これからはただ衰えていくばかりの日々。そう思うと、こうして出歩く元気がある内に出かけておきたいという気もする。
「いらっしゃいませ」
というウエイトレスの声に、早苗は友人が来たのかと振り返った。——そうではなかった。やはり知り合いを待たせていたらしい。
「あら、わざわざどうも」
「いいえ、楽しみにして来たのよ」
大方、今日一日、同じような挨《あい》拶《さつ》がこの喫茶室の中ではくり返されるのだろう。
早苗はまた緑のまぶしい表へと目を向けた。
少しして——足音が早苗のテーブルのそばを通って行った。新しいお客か。早苗は振り向こうともしなかった。
どこか奇妙な足音だ。ふとそう思った。
一定のリズムではない、足音の間《ま》が、短く、長く、短く、長く、とくり返し、その間にトン、トンという柔らかい音が入る。
顔を向けたとき、その人はもう後ろ姿で早苗の視界から外れるところだった。軽く足を引きずり、杖《つえ》を突いた女性である。チラッと見たところで、それ以上は分らなかった。
足音の間が均等でないこと、杖の先のゴムが床に当る音が、あの柔らかい音になっていたこと。——とりあえずそれが分って、早苗は納得した。
その女性は早苗の真後ろに座ったらしい。椅子を引いてかける音がした。
早苗は、ゆっくりとミルクティーを飲みながら、友人の送ってくれたチラシをバッグから出して眺めたりした。——他に予定があるわけでなし、のんびりしていよう、と思った。
その内——妙なことが気になり出した。
後ろに座った、足の悪い女性の所へウエイトレスが一向に注文を訊きに行かないのだ。
ウエイトレスは、なかなか感じのいい女の子だった。たぶん、他の客に気を取られていて、その女性客に気付かなかったのだろう。
しかし、早苗がわざわざウエイトレスを呼んで、後ろの女性のことを教えてやるのもお節介が過ぎると言われそうな気がした。
早苗はそういうことが気になるたちである。自分が忘れられているのなら、そうでもない。他人がいくら呼んでも一向に気付いてもらえず苛《いら》立《だ》ってくるのを見ると、まるでそれが自分のせいででもあるかのように居ても立ってもいられない気分にさせられてしまうのだ。
その内、チラシを眺めていても落ちつかなくなって来て、ウエイトレスを呼ぼうかと思った。そこへ、友人が入って来たのである。
「ごめん! ちょっと、同じ先生についてる年上の方に捕まっちゃってね」
と、息を弾ませながらやって来る。
岡本信子は、同じ六十代の初めだが、髪も赤く染め、服装も活動的で若々しい。早苗など、いつもそのエネルギーが羨《うらやま》しいと思っていた。
「いいのよ、ちっとも」
と、早苗は言った。「気持のいい日だし、引張り出してくれてありがたいわ」
「そう。あなたは、そうでもしないと出て来ないものね。——あ、私、いいわ」
と、岡本信子は、水を持って来たウエイトレスに言った。「あなた、もう飲んだんでしょ?」
「ええ。いただいたわ」
「じゃ、絵の方へ行きましょうか」
「そうね」
と、早苗はバッグを手に立ち上った。「あ、いいのよ」
信子が伝票を取ろうとしたので、あわてて押える。
「でも、来ていただいて——」
「何言ってるの。それに、このミルクティーとてもおいしかったわ」
ウエイトレスが微《ほほ》笑《え》んで、
「ありがとうございます」
と礼を言った。
「あ、そちらの方、注文がまだのようよ」
と、早苗は付け加えた。
「は?」
「ほら、後ろの席の——」
と、振り返って、早苗は言葉を切った。
後ろのテーブルには、誰もいなかったのだ。椅子もきちんと入れたままになっていた。
早苗は、喫茶室の中を見回した。——杖をついた女性客の姿は、どこにもなかった。
〈坂道〉
その絵はそう題がつけられていた。
夕日が坂道に射している。坂を下っていく一人の人物。——年寄りか若者か、男か女かすらもはっきりしない黒い輪郭。
その人物から、長い影が伸びて坂道を下っている。影は坂の傾斜に合せて歪《ゆが》み、身をよじった蛇のようにも見えた。
「——気に入った?」
と、信子がやって来て訊く。
「あ、ごめんなさい。つい、立ち止っちゃって」
「近ごろ珍しい絵ね」
と、信子はその〈坂道〉という絵を眺めて、
「うーん……。そういい絵とも思えないけど。何だか全体がアンバランスよね」
そう。——確かにそうだ。
早苗は、この絵を見て何となく不安を覚えたのだが、それは信子の言うように、構図にしても色の使い方にしても、どこかアンバランスなものを感じていたからだろうと分った。
「うちのそばの坂道がこんな風だからね。それで気になったんでしょ」
と、早苗は言って、「ごめんなさい。あなたのは?」
「こっち、こっち」
と、先に立って行きながら、「自信なかったんだけど、割合とみんな賞めて下さるの」
ついて行きながら、もう一度早苗は振り向いて〈坂道〉という絵を見た。——そうか。あのねじれた影が、まるで坂を流れ落ちていく血の帯のように見えたのだ。
でも、もちろんあれはただの影で、人恋坂とは何の関係もない。
早苗は気を取り直して、信子の後について行った。
——岡本信子の絵を眺め、そして賞めた後に、早苗は一人、他の絵をブラブラと見て回った。
正直、絵のことはよく分らないので、賞めるにしてもどう賞めたものやら困ってしまうのだが、黙って見て歩くだけなら気が楽である。信子は、また別の友だちと待ち合せているということで、絵の前でそのまま別れた。
「あなたも絵、やれば?」
と、いつも信子はすすめてくれるが、今さら何かを学ぼうという元気もない。
確かに、語学とかスポーツと比べれば、絵をかくというのはマイペースでできるから楽かもしれないが、若いころ、少しでも絵筆を執ったことのある人はともかく、そうでもなければ、なかなか踏ん切りのつくものではない。
私は、こうやって見て歩いてるぐらいがいいんだわ……。展示の間を歩きながら、早苗はそんなことを考えていた。
コト、コト。——靴の音に挟まれて聞こえてくる鈍い音。あれは……。もしかして、さっきの?
——こういう一般公募の展覧会は作品数が多いので、壁面だけではとても間に合わない。臨時にパネルを立てて、そこにもズラッと絵が並んでいる。そのパネルは、足下が空いていて、向う側を行く人の足先が覗いているのだが——。
今、そこをゆっくりと歩いて行くのは、片足を引きずり、杖《つえ》をついていく女性。さっきティールームで見かけた人だろう。
やはり、ちゃんといたのだ。——そう思って早苗はホッとした。
さっきティールームでいつしか姿を消してしまっているのを見て、一瞬ゾッとしたのだったが、自分がぼんやりしている内に出てしまっていたのだろう。
早苗は安《あん》堵《ど》した。
パネルの端を回って、反対側へ出ると、ちょうどその女性は向う端を回って消えるところで、入れ違いということになった。
別にどうでもいい……。格別知り合いというわけではないのだから。
それとも——向うはこっちを知っていて、わざとそばを歩いているのだろうか?
そんなことはない。偶然だ。
坂道の絵。あの影。そして杖をつく女性。
まさか。——まさか、そんなことがあるわけはない。
ずっと昔。ずっとずっと昔に、早苗は知っていたことがある、片足をいつも少し引きずって歩いている女性を。
友人なんかではない。いや、むしろ「敵」だったかもしれない。敵……。
早苗は争ったことがなかった。もともと争いは好きでない。恨んでも、それを相手にぶつけたりはしなかった。
早苗は足を止めた。
絵を見ていたわけではない。——その絵は奇妙な四角と三角の取り合せの絵だったが——ちょうどパネルを挟んで向う側に、その女性は立ち止っていたのだ。
靴先と、杖だけが目に入る。どうしてじっと立ち止って動かないのだろう?
まるで私と向い合って互いに見つめ合ってでもいるかのよう。
そう考えると、パネルを通して向うの視線が早苗の体にまで届いて来そうな気さえする。
早苗はしばらくその場から動かなかった。向うが先に歩みを進めてくれるのを待っていたのである。
しかし——その女性は早苗が動くのを待っているように、ただじっとたたずんでいた。
そんなことが……。そんなことがあるわけはない!
そう。きっと今見ている絵が気に入って、眺めているのよ。そうに決ってる。
早苗はその場から動かなかった。——きっと向うが動き出す。そしたら動こう。
待った。——まるで果てない時間がたったと思えるほど長い間、待った。
しかし、その女は動かなかった。杖も足も、そこに根が生えたように、動かずにいる。
誰なの? あなたは誰?
早苗は心臓の打つ音が耳について、それがやがてすべての音を隠してしまうのを聞いていた。
何をしてるの! 早く歩いて行って!
——限界だった。
早苗は我知らず駆け出していた。見てやろう。反対側へ回って、誰なのか見てやるのだ!
精一杯走ってみたが、そう速くは無理である。喘《あえ》ぎながら、早苗はパネルの端を回った。
そこには——誰もいなかった。
「嘘《うそ》よ……」
ちゃんと立っていたのだ。このパネルの前に。足を悪くして、杖までついて。どうしてそんなに速く走れるだろう?
早苗は、ハアハアと息を切らしつつ、歩いて行った。
今、その前には誰もいない。そばに他の客でもいれば、訊いてみることもできるが、今は誰一人いない。
あの女は、いつ、どこへ行ったのだろう?
早苗は、しばらく動《どう》悸《き》が治まらずに、立ち尽くしていた。
何人かの女ばかりのグループがにぎやかにやって来て、早苗は先へ進まないわけにいかなくなった。
もっと先に、あの女が待っているのではないかと心配だったが、それはなかった。いつしか外へ出ていて、光の溢《あふ》れる中へ体をさらすと、大分動悸の方も鎮《しず》かになった。
周囲を見回しても、怪しげな人影はない。
「——しっかりして」
と、呟《つぶや》く。
私は何もしたわけじゃない。そうでしょ?
私は……。あのとき、坂道は濡《ぬ》れていた。
雨だったのだ。雨のせいだった。
早苗は強く首を振ると、歩き出した。今は早く家へ帰り着きたかった。
あんなによく晴れていたのに、ふと日がかげって、早苗はゾクッとした……。
「——何だ、お母さん」
玄関を入ると、郁子が立っていた。「私も今帰って来たところ」
「早いのね、今は」
「テストの前で、クラブがないから」
郁子はまだ制服姿で、鞄《かばん》を手に階段を上りかけ、「お父さん、いるよ」
早苗も気付いていた。女ものの靴があることも。
「愛子さんも一緒」
「ええ」
早苗は、肯《うなず》いて上った。
「——奥様。お帰りなさい」
愛子が出て来る。
「愛子さん、主人もいるの?」
「はい。もう失礼するところでした。仕事の打ち合せをしていました」
愛子はそう言って、「何か夕食のお仕度して帰りましょうか」
「必要ないわ」
と、早苗は即座に言った。「自分でやります」
「はい。じゃ、先生にご挨拶してから帰ります」
愛子が居間へ入り、「——奥様のお帰りです」
「そうか。じゃ、君、頼むよ。明日までにやれるか」
「何とか」
と、愛子は書類を詰めた鞄を手に、「じゃ、明日は午前十時に伺います」
「ご苦労さん」
と、隆介は言った。
早苗は、愛子が帰って行くのを送って、玄関をきちんとロックした。
居間へ入ると、夫が新聞を広げている。
「ただいま。N展に行ってたの」
「そうか。また誰かのが偽物だって騒ぎにでもなればいいけど。——早苗」
「すぐ夕ご飯の仕度をするわ」
と、行きかける早苗へ、
「江口君に作ってもらっておけばいいじゃないか。せっかく言ってくれてるんだ」
「私、やります」
「疲れてると思ったから——」
「少し動いた方がいいんです。そう病人扱いしないで下さい」
つい、苛《いら》立《だ》つような口調になった。
隆介は顔を上げて、
「何を苛々してるんだ」
「ちっとも」
早苗も、何とか笑顔を作った。「簡単なものでいいですか」
「ああ。さっぱりしたものが食べたい。外じゃ、フランス料理だの懐石だのだ。この年《と》齢《し》じゃもたれる」
「そうおっしゃればいいのに」
「接待する方が食べたいのさ。まさか湯豆腐でいいとも言えんだろ」
と、隆介は笑って、「ああ、それから、圭介から電話があった。遅くなるそうだ」
「そうですか」
早苗は、着替えようと居間を出て、廊下を歩いて行き、玄関の前を通りかかって、「——あら」
かがみ込んで拾うと、クシャクシャになったチケット。——今日のN展の入場券である。
上るときに落としたんだわ。
早苗は、二階へ上った。今、圭介と沙織たちが一階の部屋を使っている。和代がいなくなって、部屋が空いたのである。
早苗は、着替えると、バッグの中身を出して、鏡台に置いた。
その手が止る。——小さく折りたたんだチケット。
おかしいわ……。広げてみると、確かにN展の入場券である。日付は今日。
屑《くず》カゴから、ついさっき捨てた券を拾い出してみる。——やはり今日の日付の入場券だった。
なぜ二枚あるんだろう?
早苗は、鏡台の前に座った。——夏の疲れで寝込んでから、自分でも老《ふ》け込んだと思う。白髪もふえて、むろん出かけるときは黒く染めて行くが……。
このところ続いた「親しい人の死」も、早苗にとっては重苦しくのしかかる出来事だった。
老けてしまった。夫も、もちろん若くはない。けれども、少なくとも忙しく動き回っていることが、夫を支えている。
そして——早苗は認めたくなかったが——常に夫の傍に女の影が添っていたことが、夫の行動力を生み出していたこと。それは否定できない。
江口愛子にしても、単なる秘書でないことは初めから気付いていた。
ただ——これまでの女たちと違うのは、秘書として、毎日隆介と行動を共にしていること。そして、和代がいなくなったせいで、家へ入り込んで来るようになったことである。
それはそれで、早苗も助かっている。だからこそ余計に苛立ちが早苗を捉えていたのである。
もういいわ、考えたところで仕方ない。
早苗は二枚の入場券を屑カゴへ入れると、寝室を出て——。
「江口さんが?」
と、思わず呟いた。
さっき、帰って来たときには落ちていなかった。ということは……。あの後、江口愛子が帰って行くときに落としたのだ。
そうだとすると——彼女もN展に行っていたのか?
「あなた」
と、居間を覗くと、夫はソファで眠り込んでいた。
早苗はあえて起さなかった。
台所へ行き、夕食の仕度をしながら、早苗は、どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのだろう、と自分に腹を立てていた。
江口愛子が仕組んだことなのだ。わざと片足を引きずって歩き、杖をついて——。早苗に古い悪夢を思い出させようというのか。
「誰が……」
と、早苗は呟いていた。「誰が負けるもんですか」
「——お義《か》母《あ》さん」
と呼ばれて、びっくりして振り向く。
「沙織さん——。いつ帰ったの?」
「お手伝いします。何か買物して来ますか?」
「いいのよ。早百合ちゃんは?」
「今眠ったところですから。あ、私が……」
早苗は、水仕事を沙織に任せて、
「圭介、ゆうべも遅かったのね」
と言った。
「ええ。でも、お義《と》父《う》様のご本を出すんだって、張り切ってるんです」
沙織は微《ほほ》笑《え》んでいた。
「そう。うまく行くといいわね」
と、早苗は言った。
新しい「主婦」の加わった暮しに、早苗はやっと慣れつつあった。
もっとも、このところ沙織は圭介の仕事を手伝うので毎日出ている。早百合は元同業だった友人が預かってくれているそうで、早苗はそういう職業の女同士、互いに助け合う姿に感心し、自分の偏見を恥じることがあった。
公平な目で見れば、確かに沙織は控え目で、常に圭介を立て、自分は目立たないようにしている、古風な「嫁」だ。
早苗のように、多少子供のような部分の残っている人間の常で、一《いつ》旦《たん》信頼してしまうと、今度は頼り切ってしまうことになりがちだった。早苗は自戒していた。
それでも、沙織が要領良く食事の仕度をするのを見ながら、自分が言い出すのを止められなかった。
「沙織さん。——江口さんのことなんだけど……。あの人、私が死んだら、主人と結婚するつもりかしら。どう思う?」