「ね、郁子」
山内みどりの話し方は、その声だけで雑談と分るものだった。——もっとも、みどりはクラスの中ではよく勉強する方であり、「雑談」以外のことを話しかけてくることも少なくないことは、みどりの名誉のためにも言っておかなくてはならない。
「うん?」
郁子の方も、みどりから話しかけられてホッとしていた。いつの間にかぼんやりとして、授業から全く気持が離れていたからだ。
「相沢先生、急に白髪がふえたね。そう思わない?」
「そう? ——言われてみればそうかな」
と、郁子は小声で応じた。「でも、病気してたんだから。そのせいじゃない、きっと?」
「それにしたってさ……。普通じゃないよ、あの老け込み方」
と、みどりは言って、自分で肯いている。
そう。——みどりから言われるまでもない。郁子の方がとっくにそのことには気付いている。
何といっても則行の父親である。他の教師よりもずっと目が行くことになるのは当然だった。
髪が白くなった、というのなら、郁子は叔母、柳田靖江の、一夜で真白になった髪を見ているから、相沢を見てもそうびっくりしない。むしろ、カサカサに乾いた感じの肌、青筋や額の、引きつれたようなしわの方が痛々しく感じられた。
則行も、父と家族の間に一種ぎくしゃくしたものがあることは認めていたが、その内容については語ってくれないので、郁子もどう考えていいのか分らなかった。
「——この部分は仮定法になってるんだね。だから、ここからここまでを主語だという風に考えると分りやすい……」
黒板を滑る白墨がキーッと耳ざわりな音をたて、生徒たちが一斉に、
「いやだ!」
と、悲鳴を上げた。
「すまん、すまん」
と、相沢は笑った。「俺のせいじゃない。この白墨を恨め」
郁子は、相沢が笑うのを、久しぶりに見たという気がした。それほど、このところ相沢はふさぎ込んでいた、ということでもある。
ふと、相沢は黒板から離れて生徒たちの方を向くと、
「——俺も、体を悪くして、ずいぶん迷惑をかけた」
と、言い出した。「授業も遅れたし、その遅れを取り戻すだけの元気が出ない。正直、俺も年齢《とし》だ」
教室の中に当惑した空気が広がった。先生、どうしちゃったの? ——みんなそう言いたげな顔を見合せている。
「これはまだ、他のクラスでは言っていないが、俺は学校を辞める」
エーッという声にならない声が広がった。
「ウソ!」
という、おなじみの反応も、もちろんあった。
「本当だ。たぶん——この学期で終りということになる。学年末まで、とも思ったが、体の方が言うことを聞いてくれん。このクラスには特に色々思い出があるが、ま、後のことは学校の方で考えてくれる」
教室は静かになっていた。——めったにないことである。
「誰か泣いてくれないのか?」
と、相沢がおどけて言ったので、あちこちから、
「先生、図々しい!」
「高いですよ!」
相沢は笑って、
「俺の方が泣かんようにしないとな。中年になると、涙もろくなる。お前たちも、その内分る。——さ、続きだ」
と、黒板へ向くと、教室のドアを誰かがノックした。
「何だ?」
相沢が手を止めて、「どうぞ」
と、声をかけると、ドアが開いて、事務室の女の子が当惑した顔を覗かせた。
「先生……。お客様が」
「今、授業中だ。あと……十分ほどで終るから、って待ってもらってくれ」
「そう申し上げたんですけど——」
と言いかける事務の子をわきへ押しのけて、入って来た女性は、
「お邪魔して」
と、生徒たちの方へ頭を下げた。
郁子は見知っていた。自殺した、倉橋充江の母親だ。
「倉橋幸子と申します。充江の母です」
その言葉は、相沢の方へ向けられていた。
「ああ……。どうも、その節は」
と、相沢が会釈して、「少しお待ちいただけませんか。じきに終りますので……」
「すぐすみます」
と、倉橋幸子は言った。「娘の机からこんな物が出て来まして」
と、バッグに手を入れた。
「奥さん。ここではどうも……」
と、相沢が歩み寄った。
「手紙です」
その手は、郁子の目にも分るほど震えていた。「憶えていらっしゃるでしょう? ご自分が書かれたんですから」
手紙を、相沢は受け取らなかった。受け取れなかったのかもしれない。
郁子は、どうして考えつかなかったのかと——分っても良かったのだ! 充江が愛していたのは、相沢だった……。
「奥さん……」
相沢はうなだれた。「私は——」
「先生」
倉橋幸子は真直ぐ背筋を伸すと、「あの子を愛したことは恨みません。でも、どうしてあの子を裏切ったんですか! あの子は先生を待ち続けていたのに。恨みの遺書一つ残さずに死んだのに!」
張りつめた言葉、厳しい声だった。
「申しわけありません!」
相沢は深々と頭を下げた。
——教室の中は、みんな息もしていないかと思えるほどに静かだった。
相沢が顔を上げ、
「私は——」
と言いかけたとき、倉橋幸子がバッグから小さな尖《とが》った包丁をつかみ出した。
「いけない!」
郁子が叫んで立ち上る。その声の余韻が、相沢の呻《うめ》き声と重なった。
包丁は、ほとんど刃の部分一杯、相沢の腹に呑み込まれていた。相沢がよろけて、教壇に寄りかかる。
「先生……」
倉橋幸子が、青ざめた顔で、眉《まゆ》をくっきりとつり上げて、「充江が待っています」
と言った。
「私は……私は……」
相沢がそうくり返すと、床へ崩れた。血が上着をどんどんどす黒く染めつつあった。
郁子は駆け出した。廊下へ飛び出すと、
「誰か! ——誰か来て!」
と、叫びながら事務室へと走って行った……。
三階までは、古くてのんびりしたエレベーターよりも階段を上った方が、ずっと早かった。
それでも、以前の沙織なら、エレベーターを使っていただろう。いつも疲れが影のように一緒だった。
しかし、今の沙織は階段を一気に三階まで駆け上っても、軽く息を弾ませるくらいのものでしかなかった。いつの間にそんな体力がついたものやら、沙織自身もよく知らない。
格別運動や健康法を試したわけではない。——たぶん、圭介との結婚で精神的に安定したこと、早百合を産むのに体に気を付け栄養をとったこと。そして今は何より、子供を育てていること自体、大変な運動なのだ。
こんなに自分を若く感じたことは、二十代だって、なかったような気がする。
「——ただいま」
少しきしんだ音をたてるドアを開けて、「遅くなっちゃった」
と言うと、ちょうど圭介は電話に手をかけているところだった。
「あ、電話するの? どうぞ。——ちゃんとイラスト、もらって来たわよ」
しっかり脇《わき》に抱えていた大判の封筒を机の上に置く。
「ありがとう。——いいんだ。これからかけるんじゃない。今、切ったところだ」
圭介は、電話から手を離し、「ご苦労さん。悪いな、外を歩き回らせて。疲れるだろ」
「ちっとも! 本当よ。楽しいの。だって、ホステスしてたころは、仕事で出かけるなんてこと、なかったんですもの。青空の下を歩いてるのが仕事だなんて、本当にすてきよ」
沙織の言葉を聞いていた圭介は、
「そうか」
と、微笑みながら肯いた。「それなら良かった」
「ええ。——今日は少し早く帰ってもいいかしら? 早百合のオムツカバーを買って帰りたいの。三十分くらい早く出られれば充分なのよ」
「ああ、いいよ、もちろん」
圭介は、立ち上ると、薄汚れた窓の方へ立って行って外を眺めた。
この狭い、古い事務所を借りたのは、ついこの一週間ほどのことだ。前に入っていた人は夜逃げ同然で出て行ってしまったそうで、机や戸棚が、中に雑多な書類を一杯詰め込んだまま残っていた。
沙織はまず戸棚と机の中身を全部捨てることから始めて、ここを掃除しなくてはならなかったが、おかげで机も椅子も、そのまま使えて安上りだった。新しく買って入れたのはソファが一つ。——忙しくなったら、上で仮眠できる。
しかし、隆介の講演集一つ出すといっても、全く経験のない圭介たちにとって、仕事は煩雑を極めた。
机や空だった戸棚は、たちまち種々の資料で埋ってしまった。今も、机の上はあまり空間がない。
「どうかしたの?」
と、沙織は訊いた。
圭介はどこか放心したような表情で外を見ていた。そしてゆっくり振り向くと、
「何でもない。——寝不足でボーッとしてるのさ」
「体をこわすわ。今日はもう帰ったら?」
「そうはいかない。権利関係をクリアしとかなきゃいけないものが、まだ二、三件残ってる」
圭介は、軽く息をついて、「——な、ちょっと出てくる。じき、戻るから」
「ええ、いいわよ」
と、沙織は笑顔で言った。
圭介は上着に腕を通しながら、
「金を稼ぐってのは、大変だな」
と言った。
「でも、仕事があるだけでも感謝しなくちゃ」
沙織は、ポットでお茶をいれながら、「仕事もなくて、途方にくれてる人も沢山いるわ」
「そうだな」
「印刷物のファイルを整理しておくわ。一度やっておかないと、と思ってたの」
「ああ。助かるよ」
圭介はドアを開けて、出て行きかけたが、
「——沙織」
と、振り向く。
「え?」
「よくやってくれてる。ありがとう」
「何よ、突然」
と、照れて笑う。「やっぱり疲れてるのよ」
「そうかもしれないな」
圭介は肯いて、出て行った。
沙織は、ちょっと気になったが、ともかく今は早百合のことで頭の中の八割方は占められている。
「さあ、今夜は何を作ろうかな」
夕食のことまで、つい考えている沙織だった。
妙なもので、ホステスをしていたころと比べても、今はひどく忙しい。家のことをして、早百合がいて、圭介がいる。そうして慣れない仕事までしている。
それでも、疲れはずっと少ない。動けば動くほど元気になり、楽になっていくようでさえある。
自分にこれほど「生きていく力」があったことに、驚かないわけにはいかなかった。
圭介が座っていた椅子に腰をおろし、仕事に熱中すると、たちまち二十分、三十分はたってしまう。
ドアの外に足音がして、キーッとドアがきしんだ。顔を上げないまま、
「もう戻ったの? 早かったのね」
と言うと、
「何だ。——驚いたな」
と、男の声がした。「沙織か」
「まあ。——水原さん?」
ホステスのころ、よく店に来た客である。
「藤沢と結婚したんだっけ。ああ、思い出した。ママが言ってた」
水原は、何を本業にしているかよく分らない男である。世の中が不況になっても、なぜかいつも金を持っている。世の中には、こういう得体の知れない金持という人間がいるのだ。
見たところ実直なサラリーマンという外見なので、却《かえ》って気味が悪い。五十がらみだろうが、年齢のよく分らない男である。
「——藤沢は?」
と、水原はコートを脱いでソファの上に放り出した。
「外出してますけど……。何か、主人にご用ですか」
と、沙織が訊くと、水原はちょっと笑って、
「そうか。——知らないんだね、奥さんは」
ソファに寛《くつろ》ぐと、「逃げたか」
「逃げた?」
「さっき電話をしたんだ。そしたら、『待ってるから来てくれ』ってことだった」
「主人がですか? じゃあ……。じき戻ると思いますけど」
「いや、しばらくは戻らんだろう」
水原はタバコを取り出して火を点《つ》けた。「——灰皿はないのか」
「喫《す》わないんです。子供が産まれて、二人ともやめました」
「子供か……。そいつはおめでとう」
水原は煙を天井へと吐き出した。
「あの……主人にご用って……」
「決ってるじゃないか。金だ」
「お金を……」
「山口って男がいた。知ってるか?」
「ええ」
「姿をくらました。方々に借金してな。うちの分は、藤沢君が返済してくれることになっていた」
「知りませんでした」
「そうだろう。それに、個人的にも貸してある。この事務所の費用だって、どうせ借金だ」
と見回し、「ひどい所だな」
と、顔をしかめた。
「あの……私には分らないんです」
「うん」
水原は立ち上ると、窓辺に行って、タバコを窓枠のサッシでもみ消した。そして、振り向くと、
「利息分だけでも今日もらう約束だ。さっきの電話じゃ、奴も分ってたはずだ」
「でも——聞いていません」
沙織は、圭介の様子がおかしかったことを思い出した。なぜ黙って行ってしまったのだろう?
「そう言われても、こっちも商売だ。差し押えることも、訴えることもできる」
「水原さん——」
「なあ、沙織」
と、水原はなれなれしく沙織の肩に手をかけた。「俺はお前を気に入ってた。知ってるだろ? 藤沢も知ってるさ。だから、お前を置いてったんだ」
「何のことですか」
「返済を待つ代りに、新しく担保を入れるってことさ。言いにくかったんだろ、お前にゃ。それとも、何も言わなくても分ってくれる、と思ってたんじゃないのか。そういう男だ。いつでも誰かに救われる。それに慣れちまった」
水原は淡々と言った。「やさしい亭主だろ。しかしな、やさしい奴ってのは、時には一番残酷なことも平気でやるのさ」
沙織は、ここを出て行くときの圭介の表情を思い出した。——直感が、水原の言ったことが正しいと教えた。
「どうする?」
と、水原は窓によりかかって沙織を眺めている。
沙織は一旦目を伏せていたが、やがて水原を見上げて、
「ブラインドを下ろして」
と言った。
「——圭介」
と、母の声がした。「圭介」
こんな所で? 空耳だ。きっとそうだ。
目の前の座席に、母が座った。
「何、返事もしないで」
「——母さん」
圭介は呆《あつ》気《け》にとられて、「どうしたのさ、こんな所で」
「あんたは?」
「僕は……一休みしてるんだ」
黒ずんだ木の内装がいかにも古い喫茶店。——圭介は、もう一時間もここに座って、すっかり冷めたコーヒーを飲んで——いや、見ているだけだった。
「あんたの会社がどこなのか、訊こうと思って入口から覗いたら、あんたが見えたのよ」
早苗は、ホッとした様子で、水を持って来たウエイトレスに、「ミルクティーを」
と、頼んだ。
「母さん……。僕の会社だなんて。訊いたって分るわけないだろ」
と、圭介は笑った。
「でも、あんたを見付けたわ」
早苗の言う通りだ。
「僕に用事で?」
「もちろん。家だと、お父さんの耳に入るかもしれないから。あんたも聞かれたくないでしょ?」
圭介は当惑して、
「何の話?」
「お金で困ってるんだろ」
早苗は静かに言った。「借金がかさんで、お父さんにも言えなくて」
圭介はじっと母親を見つめた。——何分間だったか。ともかくミルクティーが来てしまった。
「——どうして知ってるの」
と、圭介は言った。
「父親の目はごまかせても、母親は騙《だま》されないわ」
と、早苗は首を振って、「嘘をつくときの子供の表情はいくつになっても同じ。あんたのことなら、私が一番よく知ってるのよ」
圭介はため息をつくと、
「山口の奴が、消えちまったんだ。おかげでこっちはとんだ迷惑だよ。——何とか今度の父さんの本を出して、払おうと思ってるんだけど——。それまで待ってもらうのが大変なんだ」
「いつの話なの? 半年先? 三か月先? 作ってもいない本のお金を、先にくれとは言えないでしょ」
圭介は気が重そうに、
「母さんがどうしてそんなことを気にするのさ」
と言った。「お金を貸してくれるわけじゃないだろ。金のことは父さんでなきゃ」
早苗が、バッグから封筒を取り出し、圭介の前に置いた。
「——何、これ?」
「中を見て」
圭介はテーブルに封筒の中身を出した。
——預金通帳と、印鑑。
「これは私の預金なの。父さんには使っても分らないわ」
「母さん……」
圭介が、金額を見て目をみはった。——三千万以上ある。
「実家の方で、山を持っていた叔父さんが亡くなって、私にも分けてもらったの。もう何十年も放っておいたから、その金額になってたわ」
「母さん! ありがとう」
圭介は頬を紅潮させた。
「その代り、やってほしいことがあるの」
と、早苗が言った。
「何だい?」
「江口愛子さんのことよ。——あの人は私を殺そうとしてる」
「何だって?」
「本当よ。私を守って。ね、圭介。どういう方法でもいいから。あの人を——あの人に私を殺させないで」
「母さん——」
「私の子供は、あんただけなのよ。圭介。分るわね」
早苗が圭介の手を固くつかんだ。それは圭介がびっくりするほどの力だった。
「母さん……。待って。詳しいことは後で聞くからさ。今——ちょっと事務所へ戻らなきゃならないんだ。またすぐ来るから、ね。ここにいて!」
圭介は、通帳と印鑑をつかむと、喫茶店を飛び出した。
走って、走って……。ビルの階段も駆け上った。汗がにじみ、心臓が破裂しそうな気がしたが、構わなかった。
事務所のドアを、突き破りそうな勢いで開ける。
——自分の鼓動と激しい息づかいだけが聞こえた。
ブラインドが下りた薄暗い事務所のソファで、沙織がゆっくりと起き上った。
「——もう少し遅く帰れば良かったのに」
と、沙織は言った。「せめて、私が服を着るぐらいの時間」
圭介の手から、通帳と印鑑が落ちた。
「十日間、待つって」
と、沙織は言った。「私は十日分の利息ってことね」
「沙織!」
圭介が駆け寄って、全裸の沙織を抱きしめた。
「——ね、ドアを閉めて」
と、沙織が言った。「人に見られるわ」
圭介は泣き出していた。