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怪談人恋坂21
日期:2018-07-30 20:40  点击:277
 9 破 局
 
 圭介がもう一度母と会って、それから事務所に戻ったのは一時間ほど後のことだった。
 
「——もういいの?」
 
 沙織は机に向っていた。仕事をしていたのだ。
 
「ああ……」
 
 圭介はドアの所に突っ立っていた。
 
「お義母さん、お話はすんだの?」
 
「うん」
 
「それならいいけど。——私は大丈夫よ」
 
 圭介は、ドアを閉めると、
 
「帰ろう」
 
 と言った。「もう夕方だ。帰ろう」
 
「ええ」
 
 沙織は、ホッと息をついて、「ちょうどきりがついたわ。——お義母さんのお金を、使ってもいいの? 本当に」
 
「ああ」
 
「良かったわね」
 
「うん」
 
 圭介は、沙織のそばへ寄って、肩を抱いた。「どうして僕を殴るかどうか、しないんだ」
 
「私は——」
 
 と言いかけて、「鶴だって、自分の羽を犠牲にして恩返ししたわ。私も恩返ししただけだもの」
 
「ありがとう」
 
 圭介は、沙織の額に唇をつけた。「さあ、二人で早百合を迎えに行こう」
 
 沙織は微笑んで立ち上った。
 
 二人が事務所を出ようとしたとき、電話が鳴った。沙織がすぐに駆け寄って、
 
「——はい。——あ、今日は。——ええ、お待ち下さい」
 
 夫を見て、「江口さんよ」
 
 圭介は、少し考えてから受話器を受け取った。
 
「——もしもし」
 
「圭介さん? 今からホテルSへ来て下さい」
 
「今から? いや——もう今日は帰るところなんだ」
 
 と、圭介は言った。「今夜、電話してくれないか」
 
「今度の本のことで、先生が大手のK社へ口をきいて下さったんです。そこの出版担当の方が会って下さるって。こんな機会、ありませんよ」
 
「そう……。待ってくれ」
 
 沙織もそばに来て、話を聞いていた。
 
「——行ってらっしゃいよ。いい機会じゃないの」
 
「しかし……」
 
「私は大丈夫」
 
 沙織が肯いて見せる。
 
「——じゃ、すぐ行く」
 
 と、圭介は答えた。「——ラウンジで? 分った。三十分あれば……」
 
 圭介は電話を切ると、
 
「二、三分早く出ちまうんだった」
 
 と言って、笑った。
 
 
 
 坂は長く、暗かった。
 
 どうして歩く気になったのか、郁子にもよく分らなかった。——本当なら、とてもそんな元気など残っていなかったのに。
 
 ——学校は大騒ぎだった。
 
 相沢は、救急車で病院へ運ばれて行って、その後どうなったのか、分らない。
 
 だが——たぶん助からないだろうと言われていたのを、郁子は耳にしている。
 
 一体いくつの「死」が続いたことだろう?
 
 もう沢山! もう充分だ。
 
 相沢が、充江を裏切ったことは確かだ。充江の母親の恨みも、よく分る。けれども……。
 
 相沢も悩んでいたはずだ。家族を持ち、仕事を持ち、どうしても充江の下へ駆けつけることができなかったのだろう。充江の死から、相沢が突然老け込んだのを見ていた郁子は、相沢を責めるのに、ついためらってしまうのだった。
 
 やっと坂を上り切ろうとして、人影に気付いてギクリとした。
 
「——則行?」
 
 目を疑った。「何してるの? 先生が病院に——」
 
「うん」
 
 則行は、重苦しい表情でやって来ると、「死んだよ、親父」
 
 と言った。
 
「——そう」
 
 何を言えばいいのだろう。何を言ったところで、慰められはしないだろう。
 
「ふざけてるよな、全く!」
 
 と、則行はわきを向いて言った。「生徒とあんなことしといてさ、まだ先生やってたんだぜ。父親って顔してたんだぜ」
 
「則行……」
 
「みっともないっちゃないよ。みんな、目が合わないようにして行っちまうんだ、近所の人だって。そりゃそうだよな。言いようがないもんな」
 
 と、則行は唇を歪《ゆが》めて笑った。「教室で刺されて死ぬなんて……。もうちょっと何とかなんなかったのか。せめて、生徒が車にはねられそうになるのを助けて、自分が代りに死んだ、とかさ。それだったら、同情してくれるかもしれないけど。——恨みたくたって、恨めないじゃないか。あの母親のしたこと……。俺がもし、娘とか妹とか、あんなことになったら、きっと相手の男、殺してるもんな。郁子。——ごめんな」
 
 郁子は青ざめて、立っていた。
 
「何を謝ってるの?」
 
 と、かすれた声で訊く。
 
「あの子、お前の友だちだったんだろ?」
 
「うん」
 
「俺は……。もうたぶん会えない」
 
 郁子は無言だった。則行は首を振って、
 
「家族だけで葬式やって、お袋の田舎へ行くから。——だから、一度だけ会っておきたくてさ」
 
「そう……」
 
「良かったよ、会えて」
 
 則行の顔はかげっていたが、目には光が見えた。「じゃあ……」
 
 則行がクルッと背を向けて、小走りに去って行く。
 
 会えない。——もう、これきりで。
 
 抑え切れないものがふき上げて来た。
 
「則行! 待って!」
 
 郁子は叫んだ。則行が足を止め、振り向く。
 
 郁子は駆け出した。ただ真直ぐに、則行へ向って。見えない力が郁子を引き寄せているかのようだった。
 
 何も言う必要はなかった。ただひたすらに恋する相手の胸にぶつかり、顔を埋めた。
 
「離れたくない……。こんなのってないよ! こんな別れ方なんか……」
 
 自分でも、何が言いたいのかよく分らなかった。ただ、分っているのは、今彼を離したら、もう二度と会えないだろうということ。——それだけだった。
 
「郁子——」
 
「一緒に歩こう。ね? どこへでもいいから、ともかく一緒に歩こう」
 
「——分った」
 
 と、則行は肯いて、郁子の肩へ手を回した。「行こう」
 
 歩き出しながら、ふと郁子は空を見上げて、
 
「雨が降るかもしれない」
 
 と、呟《つぶや》いたのだった。
 
 
 
「——ここか?」
 
 ドアをノックする前に、圭介はちょっとためらった。
 
 江口愛子と待ち合せたラウンジへ行ってみたら、ホテルのこの客室へ来てくれとメッセージがあったのである。
 
 しかし、出版社の人間と仕事の話をするのに、どうしてホテルの部屋を取るんだ? 圭介は何となくいやな予感がしていた。
 
 ノックをくり返す必要はなかった。
 
「はい」
 
 と、すぐに返事があって、ドアが開いた。
 
「どうぞ」
 
 愛子が微《ほほ》笑《え》んで言った。
 
「——何か内緒の話でもあるのかい?」
 
 と、広いスペースのある部屋へ入って、中を見回しながら圭介は言った。
 
「ご心配なく。誘惑しようっていうんじゃありませんから」
 
「そうは思わないさ」
 
 と、圭介は笑ってから、ふと思い付いて、
 
「親父が来るのか? そうなんだな」
 
 愛子は少し間を置いて、
 
「ええ。先生もみえます」
 
「そうか。——だけど、僕と話をするのに、ここでってのも妙じゃないか」
 
「誤解なさらないで。この部屋を取ったのは、人に聞かれたくない話になると思ったからです」
 
「どういう意味だ?」
 
 圭介はソファの一つに身を沈めると、「出版社って話は嘘だな」
 
「ええ。その点はお詫《わ》びします。でも、どうしても、今日でなきゃならなかったんです」
 
「どうして?」
 
「圭介さんの方がよくお分りでは?」
 
 と、愛子は言った。
 
 圭介はちょっと苛《いら》立《だ》った。——せっかく沙織を一人で帰して、やって来たというのに。
 
「遠回しな言い方はやめてくれ。何が言いたいんだ」
 
 と、不機嫌を露わにすると、
 
「水原という男をご存知ですね」
 
 その一言で、圭介には分った。愛子は、圭介が金に困っていたことを調べ出したのだ。
 
「——ご存知ですね」
 
 と、愛子がくり返す。
 
「君も分ってるんだろう。僕が金を借りていることは」
 
「ええ。——山口という共同経営者が逃げた。その点は同情します。でも、先生を騙《だま》すなんて、とんでもないことですわ」
 
 愛子の口調は厳しさを増した。「先生は、あなたが本当に本を出す仕事に熱中しておられると信じておいでです。だからこそ、出版社に頭を下げてまで、まとめることになっていた講演集を、あなた方へ任せるようにしてもらったんです。でも——」
 
 愛子は、テーブルの上の果物の皿を、指で触れながら、
 
「その権利を担保にして、水原からお金を借りたんですね。出版社の人が知ったら、どう思います? いずれ知れることですよ」
 
「他に手がなかったんだ。山口が消えちまって、しかも僕は沙織とのことで親父といざこざを起したくなかった」
 
「後回しにすれば、いざこざがもっと大きくなる。分らないんですか、そんなことが」
 
 こいつは何もかも知っている。しかし、圭介としては、母から金を出してもらったとは言えない。父が知ったらどう思うか。
 
「江口君。君は家族でも何でもないんだ。余計なことに口を出さないでくれないか」
 
 と、圭介は言った。「金のことなら、都合がつけられたんだ」
 
「都合が? どこのお金ですか」
 
「君の知ったことじゃないだろう」
 
「高利のお金に手を出せば、それこそ破滅ですよ」
 
「そんな金じゃない」
 
「じゃ、どこから出たお金ですか」
 
「言えない」
 
 ——愛子は深々と息をついて、
 
「先生は下で待っておられます。私がお電話するまで待っておられるんです。今、上って来ていただきますわ」
 
 と言うと、足早に電話の方へ歩み寄った。
 
「待ってくれ!」
 
 圭介は立ち上ると、受話器を取り上げようとした愛子の手を押えた。
 
「圭介さん——」
 
「本は出す! いいか、ちゃんと出すんだ! 親父が僕を見直すような、きちんとした仕事をして見せる。——信じてくれ。だから今は何も言わないでくれ」
 
「むだです」
 
 と、愛子は冷ややかに言った。「手を離して下さい」
 
「たかが愛人のくせに、何だ!」
 
 と、圭介はカッとなって怒鳴った。「親父を言うなりに操って、どうしようっていうんだ!」
 
「圭介さん。私が愛人でもどうでも」
 
 と、愛子はいっそうきっぱりと、「あなたのしていることが少しでも変りますか? 私はありのままを先生に申し上げるだけです。判断なさるのは先生ですから」
 
 愛子が受話器を上げる。
 
「待て。——待ってくれ。沙織が——あいつが可《か》哀《わい》そうだ。一生懸命手伝ってくれてるんだ。そうだろう? 親父が知ったら、また僕らは出て行かなきゃならないかもしれない。君も女なら分るだろう。子供もいるんだ。な、本当に金は返せるんだ。あと何日か待ってくれれば分る!」
 
 圭介は、愛子の手をつかんで離さなかった。
 
「先生にそうおっしゃれば?」
 
 愛子は、圭介を突きのけた。そして、ボタンを押して、
 
「——交換ですか? ——地下のバーをお願いします」
 
 と言った。
 
 沙織……。
 
 圭介は、水原に抱かれても夫を守ろうとした沙織のことを考えた。——そうだ。沙織のあの気持を無にできるか。
 
 果物の皿の下に、ナプキンで刃を包んだ果物ナイフが置かれている。
 
 圭介はそれをつかんでいた。
 
「——バーですか? 藤沢先生を呼んで下さい。——はい、そうです」
 
 圭介は、
 
「電話を切れ!」
 
 と、怒鳴った。
 
 愛子は振り返った。
 
 
 
 トイレに立っていた隆介は、戻って来てコードレスホンを手渡された。
 
「ありがとう。——ああ、藤沢だ。——江口君か? ——もしもし」
 
「お出になりませんか?」
 
 と、ウエイターが気にして言った。
 
「うむ……。もしもし。——やあ、すまん、手洗いに立っていてね」
 
 と、隆介は言った。「圭介は?」
 
 少し間があって、
 
「こちらにおいでです」
 
「そうか。今から行くよ」
 
 と、隆介が言うと、
 
「いえ——。それには及びません」
 
「何だって?」
 
 隆介は眉《まゆ》をひそめて、「どういう意味だね」
 
「圭介さんのご説明で、よく分りました。ご心配かけて申しわけありません」
 
「ほう。——そうか。それならいいが」
 
「私の調査が不充分で。すみませんでした」
 
 と、愛子は言った。「先生、恐縮ですが、この後のTV局、私がいなくてもよろしいでしょうか」
 
「ああ。別に構わんが」
 
「局までお送りします。実は、圭介さんが急いで帰られたいそうなので、TV局の後、ご自宅までお送りしようと思って」
 
「すまんね、それは。タクシーで帰せばいい」
 
「いえ、大した手間じゃありませんから。先生、玄関へ出て待っていて下さいますか。私、圭介さんと一緒に、車を駐車場から出して玄関へつけます」
 
「分った」
 
 電話を切って、隆介はちょっと首をかしげた。——愛子があれほど調べていたというのに。いやに簡単に納得したものだ。
 
 もちろん、隆介としては息子がしっかり仕事をしていると分れば嬉《うれ》しいので、あえて疑ってかかるつもりもないのだが。
 
 支払いをして、バーを出ると、隆介はロビーへ上るエスカレーターの方へと歩いて行った。
 
「藤沢様」
 
 と、バーのマネージャーが呼び止めて、「お電話が入っております」
 
「ああ」
 
 何だ? ——愛子だろうか?
 
 バーの入口のカウンターで電話を取ると、
 
「——あなた?」
 
「早苗か。よく分ったな」
 
 と、隆介は言った。
 
「捜してもらったの。ね、急いで帰って来て」
 
 早苗の声は不安げだった。
 
「どうしたんだ?」
 
「靖江さんが……」
 
 と、早苗は言いかけてためらった。
 
「靖江? 靖江がどうしたんだ」
 
 夫を亡くしてから、閉じこもりがちでいることは知っていて、気にしていたが、何といっても忙しくて訪ねて行くこともできなかった。
 
「今、うちへみえてるの。でも……。ともかく電話じゃ話せない。説明できないの。お願い、すぐ帰って来て」
 
 早苗の言い方はただごとではなかった。
 
「分った」
 
 隆介は、そう答えて切ると、エスカレーターへと駆け出していた。
 
 
 
 郁子は荒く息をしていた。
 
 胸の動悸は、いつやむとも知れない。——こんな疲れと緊張は、初めて知るものだった。
 
 それでも、郁子は自分と肌を触れ合っている則行の鼓動を聞き、同時に彼の中に固まって出て来ようとしない言葉をも聞き取れるように感じていた。
 
 女だから? 男よりも、その時間を過ぎてしまうと冷静になれるのだろうか。
 
 則行は自分を責めている。父のしたことに憤り、父を許せないと思った自分が、同じことをしてしまった。——その気持が、則行を沈黙させているのだった。
 
 少し、気を楽にさせてあげなくては。——なぜか、保護者のような気分になって、郁子は言った。
 
「運動しないで息が切れたのって、初めて」
 
 則行はちょっと面食らい、それから笑った。
 
「本当だな」
 
「則行は少し運動したね。ご苦労様」
 
 冷たい布《ふ》団《とん》も、今は暑いほどに感じられる。
 
「郁子——」
 
「謝っちゃだめよ」
 
 と、郁子は指を彼の唇に当てた。「謝ったら、悪いことしたことになる」
 
「うん」
 
 と、則行は肯いた。
 
「必要だったの。私たちには。——ね?」
 
「そうだな」
 
 郁子は、則行に身をすり寄せて行った。
 
「——汗、かいたね」
 
「ああ。そりゃそうさ」
 
「私はあんまり……。則行の方が純情なのかな」
 
 と、郁子は笑った。
 
 二人の唇が出会って、しばし話が途切れた。
 
 ——二人で歩く内、駅前の商店街を抜け、駅へ出てしまうのがいやだという、ただそれだけの理由で、入ったことのないわき道へさまよい込んだ。
 
 そして通りがかったのだ。今どき、とびっくりするような、普通の家くらいの広さしかない〈旅荘〉——。
 
「休憩」という文字が何を意味するか、もちろん郁子も知っていた。ただ、こうする場所を捜していたわけでもなく、予期していたのでもない。
 
 それでいて、二人は顔を見合せて同時にお互いが同じものを見ていたと知ると、そのまま中へ入っていた。見えない手に押されているように、ためらわず——後で気が付いたように、払うのはどっちか、という現実的な問題も含めて——何も考えずに入っていたのである。
 
「郁子……」
 
 と、則行が郁子の柔らかい髪をなでる。
 
「私……良かったと思ってる」
 
 と、郁子は言った。「もし——則行がどうしても遠くへ行かなきゃならないとしても、このことがあれば、堪えられるかもしれない」
 
「離れたくないよ」
 
「私だって……。でも、私たち、一人で生きてるわけじゃないんだし。お互い、家族を捨てるわけにもいかないでしょ」
 
「そうだな……」
 
「私たち、まだ大人じゃないんだもの。——ね、やけになったりしないで。私も約束するから、則行も約束して」
 
 自分でも、意外だった。もっともっと我を失い、突っ走るかと思ったのに、こうして結ばれてみると、却ってしっかりと自分を手の中に取り戻したという気がするのだ。
 
「ああ、分った。——手紙ぐらい書けるしな」
 
「電話もできる」
 
「うん」
 
 則行は、父の死から立ち直っていた。それが何より郁子には嬉しかった。
 
「——もう、行きましょ」
 
 と、郁子は体を起して、初めて明りを点けたままだったことに気付いてポッと赤くなった。「いやだ。やっぱりあがってたんだな」
 
 手を伸して、下着を取る。
 
 二人とも、服を着るときは妙に気恥ずかしくて、背中を向け合いながらだった。
 
「——良かったよ。気にしてたんだ」
 
「何が?」
 
「この前みたいにさ、何でもないときでもあんなに鼻血出したろ。今度なんか、止まんなかったらどうしよう、って」
 
 郁子がハッとした。
 
 忘れていた! ——そう。則行と一緒にいる間、郁子は裕美子のことを、全く忘れていた。
 
 なぜ、裕美子は黙っていたのだろう? あれほど、郁子が男に近付くことをいやがっていたのに、どうして則行に抱かれるのを見逃していたのだろう。
 
 何か……。何か起っている。きっとそうだ!
 
「則行! ——私、急いで帰らないと」
 
 郁子は手早く服を着た。
 
「ああ。でも、送っていくよ」
 
「いえ、いいの。一人で帰る。——ごめんね」
 
 郁子は、制服を着て鞄をつかんだ。
 
「何かあったのか?」
 
「もしかするとね。——また電話する。則行——」
 
 素早く唇を触れ合って、郁子は部屋を飛び出した。
 
 
 
「——じきに着きます」
 
 車を運転している江口愛子が言った。
 
「すまんな」
 
 と、隆介は言った。「一体何ごとなんだ」
 
 意味もなく謝っているのである。苛《いら》立《だ》ちがついそういう言葉になって出るのだ。
 
 圭介も、後部座席に父親と並んで座っている。無言だった。
 
「——圭介、何か知らないのか」
 
「知らないよ。でも、靖江叔母さん、あの髪が真白になったとき、びっくりしたからな。よっぽど参ったんだよ」
 
「そうだな。気丈な奴だが……」
 
 靖江たちには息子がいるが、アメリカに行ったきり、戻って来ない。もう十数年になるか。
 
 向うで仕事を持ち、結婚もして家族がいるのだが、帰国して来たことがなく、父親の葬儀にも来なかった。
 
 靖江は、見かけが元気で威勢がいいだけに、実際には脆《もろ》いものを持っているのかもしれない。
 
 キッと急ブレーキをかけて車が停《とま》った。
 
「すみません」
 
 と、愛子が息をついた。「信号が赤なのを見落としそうになって」
 
「ああ。——君、大丈夫か?」
 
「何がですか?」
 
「顔色が良くないぞ」
 
「少し風邪気味なんです。大したことはありません」
 
 と、愛子は言って、信号が変るとアクセルを踏んだ。
 
「そうか。大事にしてくれ。俺たちが降りたら、もう帰るといい」
 
「でも、私も心配です」
 
 愛子は車をわき道へと入れた。——門の前に車を寄せて停ると、
 
「どうぞ、いらして下さい。私、車の向きを変えます」
 
 と言った。
 
「分った。圭介、行くぞ」
 
「うん……。ああ、それじゃ——。行こうか」
 
 父と息子は、車を出て玄関へと急いだ。
 
 愛子は、一人車に残ると大きく息をついた。——このまま車で近くの病院へ行こうか。
 
 しかし、今となっては車を運転して行き着けるかどうか、自信がなかった。まだ頭ははっきりしている。いや、そのつもりでいるだけだろうか?
 
 藤沢家の中で何ごとが起っているのか、愛子にもむろん気になったが、それを見届けることはとても無理だと悟っていた。
 
 ともかく——車の向きを変えよう。
 
 できるだけハンドルを切り、一杯に寄せておいてバックへギアを切り換える。
 
 大丈夫、いつもやっていることよ。落ちついて。まだ、充分にしっかりしているわ。
 
 ガクン、と後輪がどこかへ乗り上げて、激しい痛みが愛子を襲った。——無理だったのだろうか。でも、ここまで来たのだ。もう一度。——もう一度やってみよう……。
 
 そのとき、窓の外に、誰かの顔が覗いた。
 
 ——郁子だ。
 
 気を取り直して、愛子は窓を下ろした。
 
「どうかしたの?」
 
 と、郁子が言った。
 
「大丈夫。ちょっと勘が狂っただけです」
 
 と、愛子は微笑んで見せて、「それより、お宅で何かあったようです」
 
「うちで?」
 
「先生と圭介さんを今送って来たんですけど……。早く行ってみて下さい」
 
「分ったわ」
 
 郁子は、家の中へと駆け込んで行く。
 
 愛子は、エンストを起してしまった車をもう一度動かそうとした。
 
 どうしたの? 手が……エンジンキーに届かない。右手が上らないのだ。
 
 そんな! 痛みは大したことないのに。どうして? ——暗い。車の中も、外も、暗い。
 
 夜だといっても、街灯の明りがあるのに。どうしてこんなに暗いんだろう?
 
 明りを……。明りを点ければ、大丈夫。
 
 愛子の手は、車内灯のスイッチを求めて、虚《むな》しくさまよった。ずっとずっと先の方まで手を伸しているのに——。どうして届かないの?
 
 どうして……。
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