「お母さん」
と、玄関を上りながら、郁子は呼んだ。「——どこ? お父さん?」
家の中は静かだった。——郁子が呼びかけても、答えはない。
誰もいない? そんなわけはない。江口愛子が父と兄を送って来たと言っているのだから。
鞄《かばん》を玄関の上り口に置いて、郁子は居間や台所を覗いたが、どこも空っぽだった。
みんなが消えてしまった? ——一瞬、そんな考えに捉えられてゾッとしたが、台所の窓の向う側がボーッと明るくなっているのを見て、分った。
離れだ。——裕美子がずっと寝ていた離れに行っているのだ。
郁子は渡り廊下へと急いだ。
裕美子が死んでから、離れはずっと閉められたままになっている。閉めてあるというより、どうしていいか分らないままに、手を付けずに来てしまった、と言う方が適当だろう。
圭介と沙織が一緒にここで暮すことになったとき、離れを使っては、という話も出たのだが、やはりそれはみんな気が重かったとみえて、立ち消えになってしまった。
郁子が渡り廊下へ出たとき、囁《ささや》くように音をたてて、雨が降り始めた。
お姉ちゃん……。雨だよ。
郁子は裕美子へ呼びかけるように、チラッと夜空を見上げてから、廊下を渡り、離れの戸を開けた。
——当然、そこにはみんながいた。しかし、戸を開けて入って行く郁子の方を振り向く者は一人もいなかったのである。
誰もがベッドの方を見つめていた。裕美子のベッドを。
「——どうしようもなかったのよ」
と言ったのは、柳田靖江だった。「あなたの恨みは良く分る。でも、分ってあげてちょうだい。あなたは死んでしまって、残った人たちのためを、まず第一に考えるしかなかったの」
郁子が進み出ようとすると、隆介が気付いて止めた。
「行くな」
「お父さん。でも——」
「ここへ来て、突然独り言を言い始めたんだ。——まるで裕美子が生きていて、そこに寝てる、とでも言うようにな」
と、隆介は言った。「——靖江。もういい。一緒に家へ帰ろう。連れて行ってやる」
靖江はベッドの傍に座っていた。そして隆介の方を向くと、
「だめ。何もかも話してしまわなくては。裕美子ちゃんが可哀そうでしょう。いつまでもここで死んだまま、成仏できないなんて」
「もう裕美子はいない! お前だって知っているじゃないか」
「何を言ってるの。——ここにいるじゃない。可哀そうに、喉《のど》を切られて。何てむごいことを……。しかも、私たちはそれを隠そうとして来たんだわ」
早苗が、郁子の腕を取った。
「郁子。あなたは出ていて。さあ」
「お母さん」
郁子は静かに言った。「私、知ってるよ。お姉ちゃんが殺されたことも、私がお姉ちゃんの子だってことも」
早苗が青ざめて、郁子から手を離すと、その場に座り込んだ。
「裕美子が話したのか。——そうだな。いつまでも隠しておけというのは無理だったかもしれん」
と、隆介は厳しい表情で言った。
圭介は少し離れて、こわばった表情で、何も言わなかった。そして沙織は、早百合を抱いて隅に座っていた。
もちろん圭介から話は聞いていただろう。しかし、七年前に何が起ったのか、詳しいことは知らないのだ。
郁子は、靖江の方へ近付いていくと、
「叔母さん」
と言って、膝《ひざ》をついた。
靖江はふしぎそうに顔を上げて、
「あら、裕美子ちゃん。いつの間にそっちへ行ったの?」
「靖江さん! この子は郁子よ」
と、早苗が叫ぶように言った。
——もう叔母は長くないのだ。
郁子には分った。だから裕美子の姿が見えているのだ。
靖江の白髪は、以前よりさらに乾き、枯れた干し草のように抜け落ちてしまいそうに見えた。顔も更に老け、弱々しい眼にはもう光が見えない。
「裕美子ちゃん……。私を許して。そう言ってくれないと、私は死ねない……」
靖江は床に手をつくと、郁子の前に額をこすりつけんばかりにして、
「私を許すと言って……。私を許すと……」
と、呻《うめ》くように言った。
郁子は知った。——今こそ靖江は口を開くだろうと。
「叔母さん」
靖江の前に膝をつくと、郁子は細い肩をつかんで言った。「許してあげるわ」
靖江の顔に、パッと喜びの色が広がった。
「ありがとう! ——ありがとう」
と、両手を合せて拝まんばかり。
「ただし——」
と、郁子は言った。「話してくれたら。——郁子の父親は誰なの?」
「やめなさい」
と、隆介が顔を真赤にして、「郁子、お前は——」
「知らなかったのよ」
と、靖江は首を振った。
「知らなかったのね、じゃ、今は知ってる。そうなのね」
靖江は喘《あえ》ぐように息をした。苦しげに胸を押える。
「言って!」
と、郁子は鋭く問いつめた。
「郁子、やめて」
と、早苗は言った。「お願いよ。そんなことを聞いて……」
「そっくりだった」
と、靖江が言った。「そっくりだったの」
目は遠くを見ている。
「私はよく憶えてる。郁子ちゃんが産れたばっかりの赤ん坊だったときを。何てふびんな子、と思っても、赤ん坊は無邪気に笑ってた……。忘れられなかったの。そのときの赤ん坊の顔が。——その顔に出会った。そっくりな赤ん坊に……。私は、郁子ちゃんがまた産れて来たような気がしたの。あんまりよく似ていたから……。圭介さんの赤ちゃんが……」
——長い沈黙があった。
沙織が、青ざめ、体を震わせて赤ん坊をしっかりと抱き直した。
「あなた……。まさか……」
圭介は、妻の方を見た。——その瞬間に、妻は真相を知ったのだった。
「自分の妹を……。なぜそんなことが——」
沙織の声は上ずって震えていた。
「大学の健康診断で……。俺の血液型を、裕美子が面白がって訊いて来た。雑誌の〈血液型による占い〉というやつを読んでたんだ。——『おかしいよ』と、裕美子は言った。『私と兄妹なのに、そんなことあるはずない』と……」
圭介は、父親を見ると、「俺は憶えてた。裕美子が産れたとき、お袋が一年近くも家を離れて、俺は会いにも行かせてもらえなかった。お袋は赤ん坊の裕美子を抱いて、いきなり戻って来たんだ。——血液型のことを聞いて、間違いないと分った。裕美子は、親父が他の女に産ませた子だと……」
圭介は、空《から》のベッドへ目を向けた。
「裕美子は可愛かった。——その次の日、家へ帰って来て、あいつがベッドで寝ているのを見た。昨日までただの『妹』だったのに、そのとき裕美子が『女』に見えたんだ。——気が付いたときは手をかけていて、もうやめることができなかった……」
圭介は、沙織の方へ歩み寄ろうとして、向うがサッと身をひくのを見て青ざめた。「沙織! しかし、俺は裕美子を殺しちゃいないぞ。本当だ。殺したのは俺じゃない」
「何て人なの……」
と沙織は叫ぶと、「来ないで!」
と、離れを飛び出して行った。
「待ってくれ! 沙織!」
圭介が後を追う。
「——裕美子ちゃん」
靖江が、床へ倒れ込むと、裕美子の名を二度呼んで、ぐったりとうずくまった。
「——靖江!」
隆介がかがみ込み、早苗が呆《ぼう》然《ぜん》と立ちすくむ。
郁子は、圭介の後から離れを出て駆けて行った。
夫が追ってくる。
沙織は、ほとんど何も考えなかった。今はただ、夫から逃げ出したかったのだ。
玄関から、サンダルを引っかけて外へ飛び出すと、雨に包まれて立ちすくんだ。抱かれている早百合が激しく泣き出した。
「沙織!」
圭介が出てくる。——沙織は、後ずさった。
「近付かないで!」
と、早百合を抱きしめて、「こっちへ来ないで!」
「分った。——な、分ったから。早百合がずぶ濡《ぬ》れになる。中へ入ってくれ」
圭介がほとんど無意識に前に出た。沙織は門の外へ出てしまっていた。
雨が全身を濡らし、目に入って、方向感覚を狂わせた。サンダルが脱げかかり、よろけると、短い声を上げた。
転ぶ。——とっさに赤ん坊を抱え込んだ。
だが、もう沙織は坂に足を踏み出していたのだ。横転すると、ズルズルと濡れた斜面を滑り落ちて、赤ん坊を腕の中に入れておくのに必死だった。それが沙織が転り落ちるのに弾みをつけたのだ。
勢いがつくと、止められなかった。
沙織の体は、左右へねじれながら、方々を強打して、坂の下へと転り落ちて行った。
——止った。やっと止った。
赤ん坊は腕の中にいた。手も足も、しびれて感覚がないのに、しっかりと赤ん坊だけは抱きしめていた。
大粒の雨が肩を打つ。起き上ろうとして、呻《うめ》いた。胸も背中も、砕けたかと思える痛み。
そして、赤ん坊を抱き直そうとして……。早百合の首はがくっと大きく後ろへのけぞった。
「——嘘でしょう。そんな……。早百合。早百合!」
赤ん坊はぐったりとして、もう泣いていなかった。
こんなことが……。あんまりだ!
「目を覚まして! お願いよ、早百合!」
自分の苦痛を忘れて、上体を起すと、必死で赤ん坊を揺さぶる。しかし、むだなことでしかなかった。
神様! こんなことが——。
そのとき、沙織は、誰かが立っているのを見た。
雨の中、白い衣をまとったその女は、なぜか濡れることもなく、そこに立って沙織を見ていた。
「あなたは……誰?」
と、沙織は言った。
「あなたは……誰ですか」
裕美子は訊いた。
痛みも、雨の冷たさも、どうでも良かった。腕の中の我が子が、もう息もせず、動きもしないことの前には、自分のことなど、どうでも良かった……。
その女《ひと》は、片足を少し引きずっていた。そして、裕美子の前にやって来ると、やさしい眼差しで見下ろし、
「その子を助けたい?」
と訊いた。
「この子を……。もちろんです! 助けることができるなら——」
「助けてあげられるかもしれないわ」
と、女は言った。「でも、赤ん坊が受けた傷を、あなたが全部負わなければならない」
「構いません」
と、裕美子は言った。
「死ぬかもしれない。助かったとしても、一生歩くこともできない体になるでしょう」
「郁子が生きのびられるなら……。私はどうなってもいいんです」
裕美子は迷わずに言った。
「——そう」
女は肯《うなず》いて、「それならば……」
女が身をかがめ、裕美子は雨にかすんだ視界の中で、白い姿が近付いて、その腕の中に抱かれるのを感じた。すると、突然、裕美子の身はどこか遠い空間へ投げ出されたように感じられ、そのまま意識は消えて行った。
郁子は、人恋坂を駆け下りた。
雨が叩《たた》きつけるように降ってくる。——郁子が下りて来たとき、そこには沙織が倒れていて、白《しろ》装《しよう》束《ぞく》の裕美子が赤ん坊を抱き上げるところだった。
「——お姉ちゃん」
と、郁子は言った。「沙織さん、死んだの?」
「この子の代りにね」
と、裕美子は言った。
「じゃあ……早百合ちゃんは助かるの?」
裕美子は、その赤ん坊の顔を覗き込んで、
「あなたにそっくり」
と言った。
「お姉ちゃん……。これで何もかも分った?」
と、郁子は言った。「お兄さんは——」
「郁子。でも、こうして罪もない人を死なせてしまったわ」
と、裕美子が哀しげな表情になった。「お兄さんが私を殺したとしても——もう、仕返しは必要ない」
「お姉ちゃん……」
「私が何もしなくても、みんな自分の中の罪の意識からは逃げられないのよ。——お母さんもね」
「お母さんが何をしたの?」
「私の本当のお母さんを、この坂に突き落とした。——いえ、そのつもりだったのかどうかはともかく、お母さんもそのことが忘れられずにいるのよ。——一生ね」
「お母さん……わざとそんなこと、する人じゃないよ」
「たぶんね」
と、裕美子は肯いて、「私がずっとこの坂を好きだったのも、きっとお母さんがここで死んだからなのね。——でも、お母さんは誰にも仕返ししようとはしなかった」
裕美子は、微笑んで、
「憎むより、愛することが何十倍もすばらしい。——郁子」
「うん……」
「さあ、受け取って」
郁子は、裕美子の手から早百合を受け取った。
抱きかかえて、頬《ほお》を当てると、やがて暖かさが伝わって来る。
「お姉ちゃん……」
「郁子。——幸せになって」
裕美子の表情は今、穏やかになっていた。昔、あのベッドで学校から帰る郁子を迎えてくれたときの、あの笑顔だった。
「どこに行くの?」
「私も抱かれに。——お母さんの腕の中に」
裕美子の向うに、片足を少し引きずりながらやってくる女性がいた。
いつか、この坂ですれ違った人だ、と郁子は思った。
「お母さん!」
裕美子が両手をさしのべると、その女性が両手を広げる。
郁子は、裕美子の姿がその女性の姿に重なって、雨の中に消えていくのを、じっと見つめていた。
そして、不意に腕の中で早百合が身動きしたと思うと、まるで爆発するような勢いで泣き出したのである……。
坂を上ってくると、雨も小降りになり、やがて止もうとしていた。
「郁子——」
坂の上で、圭介が立ちすくんでいた。
「早百合ちゃんを早く——。風邪ひくよ」
「うん」
圭介は、泣いている早百合を受け取ると、「——沙織は?」
と訊いた。
「救急車を呼ぼう。——むだだと思うけど」
圭介が呻《うめ》き声を上げて、早百合を抱きかかえ、家の中へと駆け込んで行った。
郁子は、濡《ぬ》れた髪をかき上げて、家へ入ろうとしたが——。
「則行! どうしたの?」
と、少し離れて立っている人影を見て、びっくりする。
「お前の後、追って来たのさ。心配で」
と、やって来ると、「そしたら、雨になって帰るに帰れず」
「あ、そうか。傘、貸してあげる——って言っても、もう止んだね」
と、空を見上げる。
「おい」
「うん?」
「その車の中……」
「車? ああ、江口さんのだ」
「運転席の女……死んでるぜ」
と、則行は言った。
「——どうして?」
郁子は呆《ぼう》然《ぜん》としている。
「さあ……。血が座席に」
郁子は、思わず則行の手をつかむと、停っている車の方へと近寄って行った……。
人恋坂、後日——
郁子は、坂を上って来た。
もう寒い季節になっていたが、今日は風もない日射しの暖い日で、人恋坂を上ってくると、少し暑いくらいだ。
「やあ」
玄関の所に、梶原が立っていた。
「あら。——今日は」
と、鞄を別の手に持ちかえて、「何してるの?」
「先生の帰りを待ってるのさ」
と、梶原は言った。「さっきお電話があったんでね」
「そう」
「今日は早いね」
「来週、期末テストだからね」
と、郁子は言った。「奥さん、どうなんですか」
「ああ……」
梶原は目をそらすと、「大したことはない。——ま、神経をちょっとね」
ちょっと、どころじゃないことは、郁子も聞いている。梶原が外へ出て来ているのを見て、見当はついた。
「一緒なのね、奥さんも」
「うん……。由紀子を連れてね。珍しく一緒に出かけたいって言うもんだから」
郁子も、父と母の話を小耳に挟んでいる。梶原が真子を病院へ入れたがって、その紹介を父へ頼んで来ているのである。
——郁子は家へ入った。
「今日は」
由紀子が、ちょうど居間から顔を出したので声をかけたが、何も言わずに引っ込んでしまう。
肩をすくめて、郁子は二階へ上って行った。
「あ、郁子」
と、早苗が二階の廊下に出て来て、「ちょっと買物に行くの。早百合ちゃん、見ててくれる?」
「今、どこに?」
「眠ってるわ、あんたのベッドで」
と言って、早苗は笑った。
「もう! よだれでベタベタにされる」
と、郁子は口を尖《とが》らした。
「あんたも昔はそうだったのよ。じゃ、お願いね」
早苗は階段を下りて行った。
——自分の部屋へ入ると、ベッドで早百合はよく眠っていた。郁子のベッドでは、よく寝るのである。
コートを脱いで、息をつく。
——江口愛子は、圭介に刺されて死んだのだった。果物ナイフで、そう深い傷ではないというので、愛子は自分で傷口をタオルで押え、隆介の前では何でもないように振舞って見せたのである。
愛子は、隆介を悲しませたくなかったのだ。これで圭介も父親を騙《だま》すことをやめる、と期待したのかもしれない。
しかし、自分で思っていた以上に傷は深く、出血がひどくて、家の前で意識を失った。そして、誰も見付けないまま出血死していたのだ……。
父のショックも大きかったが、圭介は沙織と愛子の二人を自分が殺したも同様だということに打ちのめされた。——自首して、今は裁きを待つ身である。
隆介は、愛子を失って、いっそう老けたが、仕事を忙しくして自分を鞭《むち》打《う》っている。
早苗の方は、むしろ圭介が戻るまで早百合の面倒をみなければならないというので、少し若返った様子。もちろん、郁子も母が無理しないように注意して手伝ってはいた。
——悲劇の相次いだ辛い季節の後、今は穏やかな冬を迎えつつある。
「私が下へ行って戻るまで、おとなしく寝てるのよ」
と、郁子は早百合へ言って出て行こうとしたが——。
まるでそれが聞こえたように、早百合がギャーッと泣き出してしまった……。
やれやれ。
早百合を抱いて一階へ下りると、郁子は急いでおしめを取り換えた。
正に「現金な」と言いたいほど、ケロリとしてニコニコ笑い出すので、郁子も笑うしかない。
早百合を抱いて、
「何か飲もうか。ジュースかな?」
と、台所へ入って行くと、流しの前で、梶原真子が振り向いた。
「あ、今日は」
と、郁子は言って、真子がやせて青白いことにびっくりした。「何か洗い物ですか? やりますよ、置いといてくれたら」
「いえ、落ちないんです」
と、真子は言った。
「え?」
「落ちないんです。血の汚れですから」
郁子は、真子のスーツに、本当に赤い点が飛んでいるのを見た。
「それは——」
と言いかけて気付いた。
冷たい床に、由紀子が血だらけになって倒れている。動く気配もない。
「これは私の子じゃないんです」
と、真子は言った。「見かけは由紀子ですけどね、本当は悪魔のような女なんです」
郁子は早百合をしっかり抱いて、後ずさった。
「——安永和代なんです、本当は」
と、娘の死体を見下ろして、「和代がね、この子にのり移ったんですよ、私が殺したときに」
郁子は耳を疑って、
「殺したとき?」
「あの女はね、うちの人をずっとゆすってたんです。お金を絞り取って、ぜいたくをしてたんですから、殺されても仕方ないんです」
「どうして和代さんが梶原さんをゆするんですか」
「見たからですよ。主人が、裕美子さんを殺すのを」
郁子は立ちすくんだ。
「梶原さんが、なぜ?」
「——お金を盗ったんです。困ってたんですよ、あの人。で、札入れを見付けて、中のお札をポケットに入れてね。裕美子さんに挨拶して帰ろうとしたとき、お金がポケットから落ちて……。あわてたんで、分ってしまったんですよ。それで——一《いつ》旦《たん》帰りかけた後、裕美子さんが眠っている所へ戻って行って、殺したんです」
真子は淡々と言った。「でも、逃げようとすると、和代が帰って来たんです。——見られて、それをしゃべらないように、お金を払い続けなきゃならなかったんです」
真子は、流しの包丁を手に取った。
郁子はパッと身を翻《ひるがえ》して、台所から飛び出すと、二階へと駆け上った。
自分の部屋へ飛び込み、息をつく。——早百合に、もしものことがあったら大変だ。
どうしよう? 今の話は本当だろうか。
しかし、今は真子のことだ。父がもうじき帰る。母も買物といってもすぐその辺だろう。
一一〇番して、間に合うだろうか?
迷っているとき、外で叫び声が上った。
ハッとして窓から見下ろすと、真子が梶原に向ってあの包丁をかざして飛びかかるところだった。
窓を開けたものの、郁子は見ているしかなかった。
「助けてくれ!」
梶原が、郁子に気付いて、「助けてくれ——」
と、くり返した。
が、窓に気を取られたことが、刃物を避けるのを遅らせてしまった。
腹を刺された梶原は、悲鳴と共に、郁子の見下ろす人恋坂を転り落ちた。
真子が、その夫に重なるように身を投げかける。梶原は、坂に響き渡る絶叫と共にもがいた。
真子は、喘《あえ》ぎながら包丁を手に立ち上った——返り血を浴びた姿で。
やがて梶原は動かなくなる。——真子は包丁を捨てると、急にさっぱりした表情になり、窓辺の郁子の方を見て、ていねいに頭を下げた。
会釈を返した郁子は、真子がゆっくりと坂を下りて行くのを見送っていた。
梶原から流れ出した血の帯が、冬の日射しの下で、人恋坂を静かに彩って行った。