「時間だぜ」
欠伸《あくび》しながら、駅長の金《かね》子《こ》が言った。
「はい」
今《こ》年《とし》から駅員の見《みな》習《らい》をしている庄《しよう》司《じ》鉄《てつ》男《お》は、改《かい》札《さつ》口《ぐち》の方へ、ぶらぶらと歩いて行った。
どうせ、降《お》りる客なんて、いやしないのだが。
それでも一《いち》応《おう》は改札口に立たなくてはならないのが決りである。まず決りを憶《おぼ》えるのが、大人《おとな》になる第一歩なのだ。
「おい、鉄《てつ》、ちゃんと帽《ぼう》子《し》かぶれ!」
と駅長は口やかましく言って、それから、あわてて列車の来る方へと顔を向けた。
欠伸するところを見られないように、である。だが、実《じつ》際《さい》は心配することはなかったのだ。庄司鉄男の方も欠伸をしていたからである。
しかし、眠《ねむ》くなるのも当然という感じの、小《こ》春《はる》日和《びより》だった。
風もない、暖《あたた》かな日。空は、都会では見られない青さで、輝《かがや》いていた。
赤字国鉄の中で、なぜか廃《はい》線《せん》にならずに済《す》んでいるこの路線の駅は、元来なら、無《む》人《じん》駅《えき》で充《じゆう》分《ぶん》だった。ただ、あまりに小さすぎて、目につかなかったのかもしれない。
ホームは、気を付けて見なければ見落としてしまいそうな、ただの、のっぺりとした台《ヽ》に過《す》ぎない。
金子駅長は、懐《かい》中《ちゆう》時《ど》計《けい》を見て、肯《うなず》いた。——ほぼ正《せい》確《かく》にやって来る。
列車を待つ者もなければ、降《お》りる者もほとんどなかった。
駅長は、この両《りよう》隣《どなり》の駅長も兼《か》ねているが、いつもは、この真《まん》中《なか》の駅にいた。
レールを伝って、列車の震《しん》動《どう》が聞こえて来る。——この駅の手前はトンネルで、そこに列車が入る、ゴーッという音がしてから、ホームへ出て来ても、充《じゆう》分《ぶん》に間に合う。
今日《きよう》は、しかし、陽《ひ》を浴びていたいような気候なのだった。
駅長はエヘンと咳《せき》払《ばら》いした。もちろん、ここにはアナウンスの設《せつ》備《び》はない。大声を張《は》り上げなければいけないのである。
しかし、それには、この駅の名前は、不《ふ》適《てき》当《とう》であった。——この駅、名前を「でん」という。〈田〉一《ひと》文《も》字《じ》である。
どんなにいい声でも、
「でん!」
とやって、大向うを唸《うな》らすわけにはいかない。
まあ仕方ない。駅長が勝手に駅の名前を変えるわけにもいかないのである。
列車がトンネルへ入った。ゴーッという響《ひび》きがする。駅長は帽《ぼう》子《し》をかぶり直した。
列車は、スピードを落として、ホームから車体をはみ出させて停止した。
「でん!——でん!」
とやると、必ず、乗っている子《こ》供《ども》が笑《わら》うのである。
昔《むかし》は、駅長もそれが気になって仕方なかったものだが、最近は悟《さと》りの境《きよう》地《ち》にあるのだ。
さて、今日も別に降《お》りる客は……。
若《わか》い女《じよ》性《せい》が一人《ひとり》、ホームに降り立った。
ボストンバッグを手に、肩《かた》からはちょっと洒落《しやれ》たバッグを下げている。
ワインカラーのスーツのせいで少し落ち着いて見えるが、まだ若そうだった。駅長は、その女性が、改《かい》札《さつ》口《ぐち》の方へと歩いて来るので、面《めん》食《く》らった。
「今《こん》日《にち》は」
と、その女性は言った。
「どうも。——ここで降りられるんですか」
「ええ。だって、ここは『でん』でしょ」
と、彼女《かのじよ》は言った。
駅長はちょっと驚《おどろ》いた。田《でん》村の人間は、この駅の名を呼《よ》ぶのに、ちょっと独《どく》特《とく》のアクセントをつける。今、彼女がその言い方で言ったのが、それだった。
金子駅長は、その娘《むすめ》の顔を眺《なが》めた。
二十五、六というところだろうか。いかにも洗《せん》練《れん》されて、都会的な美人である。
「ここにお知り合いでも?」
と、駅長は言った。
「ええ」
娘《むすめ》は肯《うなず》いて、微《ほほ》笑《え》んだ。「大勢います」
「はあ……」
「じゃ、切《きつ》符《ぷ》を——あら」
と改《かい》札《さつ》口《ぐち》の庄司鉄男に気付いて、「あっちで渡《わた》しますわ」
と歩いて行った。
鉄男は、列車が来たときは目が覚《さ》めていたのに、この一、二分の間についウトウトしていた。
娘は、鉄男の前に切《きつ》符《ぷ》を置いて、歩いて行こうとしたが、ふと足を止めて振《ふ》り返った。
「まあ……鉄男君ね!」
鉄男は目を開いて、彼女《かのじよ》を見ると、あわてて頭を振った。
「鉄男君ね? そうでしょ!」
「ええ……庄司鉄男ですけど」
「やっぱり」
娘は息をついて、「もうこんなに……」
と呟《つぶや》いた。
「あの……」
「じゃ、またね」
娘《むすめ》は、舗《ほ》装《そう》もされていない、田舎《いなか》道《みち》をさっさと歩き出した。
「——おい、鉄男」
と、駅長は、居《い》眠《ねむ》りを叱《しか》るのも忘《わす》れて、「今の女——知ってるのか?」
「いや……分んねえな」
鉄男は首をかしげた。
「村へ行くぞ」
「何の用かな」
「俺《おれ》が知るか」
と金子駅長は言った。「あんな子、ちょっと見《み》憶《おぼ》えがないぞ」
「俺も……」
「——こら、駅長にその口のきき方があるか!」
「すんません」
鉄男は頭をかいた。
「変ってないな」
と、その娘は呟《つぶや》いた。
村の目《め》抜《ぬ》き通りは、奥《おく》さんたちの立ち話の輪や、かけ回る子《こ》供《ども》たちで、にぎやかだった。
いくらか、家が新しくなり——つまり建て直したり、手を入れた所がだが——また、古ぼけていた。
しかし、そんな変化は、東京で、真新しいビルが一年もたつと薄《うす》汚《よご》れて来るのとは、比《ひ》較《かく》にならぬ、小さなものだった。
通りを歩いて行くと、誰《だれ》もが、彼女《かのじよ》の方を見た。
世間話に夢《む》中《ちゆう》だった奥《おく》さんたちも、ピタリと話をやめて、見《み》慣《な》れぬ旅人を見送った。
「——誰だね、あれ?」
「さあ……」
「村のもんに、あんな親類がいたかね」
「さあ、法事でも見たことないけど……」
「何かの売り込《こ》みじゃないの?」
と、用心深い一人が言った。
「そうかもしれんね。用心した方がいいよ」
「でも何を売るのさ?」
「化《け》粧《しよう》品《ひん》か何か……」
「もしかすると保《ほ》険《けん》の外交員かも……」
「そうねえ」
「ああいうのは口だけ巧《うま》いんだよ。この前もうちの弟が、ほら大《おお》阪《さか》に行ってるんだけど——」
話は、あの娘《むすめ》からそれて行った。
彼女《かのじよ》は、村の外れに向って、歩き続けていた。
家は、かなり村の外へ外へと、建ち並《なら》んでいる。
その中に、戸を打ちつけて、完全に廃《はい》屋《おく》になっている家があった。その前で、彼女は、足を止めた。
意外そうな表《ひよう》情《じよう》——そして、ちょっと寂《さび》しげな顔になって、その古ぼけた家を眺《なが》める。
最近建ったらしい隣《となり》の家は、小さな、都会でよく見る建売住宅風の造《つく》りだった。
そこの主《しゆ》婦《ふ》らしい、小太りな女が出て来ると、玄《げん》関《かん》先《さき》を掃《は》き始めた。
娘は、その主婦の顔をじっと見ていた。
「——何か用ですか?」
と主婦が顔を上げる。
一方は、洒落《しやれ》たスーツ姿《すがた》、もう一方はエプロンをして、髪《かみ》もボサボサと来ては、比《ひ》較《かく》にはならないが、よく見ると、同じくらいの年《ねん》齢《れい》であることが分る。
「あの——失礼ですけど——」
「はい?」
「この家の方は……」
と、廃《はい》屋《おく》の方を指す。
「ここの人?——亡《な》くなったんですよ」
「亡くなった?」
「ええ、そう」
あまり話したくないようだった。娘《むすめ》は何か言いかけたが、また口をつぐんだ。
「どうもありがとう」
「いいえ」
と、主《しゆ》婦《ふ》の方が、また掃《そう》除《じ》を始める。
「百《もも》代《よ》さん」
と、その娘が言った。
「え?」
主婦が顔を上げる。
「またいずれ」
娘はちょっと頭を下げて、歩き出した。
百代と呼《よ》ばれた主婦の方は、キョトンとして、その後《うしろ》姿《すがた》を見送っていた。
「どこかで……」
と首をかしげていると、
「母《かあ》ちゃん! 何かおやつ!」
と、男の子が駆《か》けて来て叫《さけ》んだ。
「うるさいね! 食い意地の張《は》った子だ、全く!」
杉《すぎ》山《やま》百代は、イライラと怒《ど》鳴《な》った……。
——村を出ると、道は一本で、畑の間を、うねるように縫《ぬ》って行く。
山に囲まれた、手《て》狭《ぜま》な土地だが、ぎりぎり一《いつ》杯《ぱい》まで、畑になっていた。
古びた、立《りつ》派《ぱ》な屋《や》敷《しき》があった。白《しら》壁《かべ》の塀《へい》が、真夏のように白く光っている。
娘《むすめ》は、その開け放った門の前で、足を止め、ちょっとためらっていたが、やがて思い切ったように、中へと入って行った……。
玄《げん》関《かん》に、自転車が置いてある。
警《けい》察《さつ》用《よう》のもので、ずいぶん古い。
彼女《かのじよ》は、二階建の家の周囲を、ゆっくりと回って行った。
庭へ面した縁《えん》側《がわ》に、警官が腰《こし》をおろしてお茶をすすっている。
「まあ、若《わか》い内は、多少のことは仕方ないじゃないかと言ったんですが、親《おや》父《じ》さんはカッカ来て、聞いちゃくれんのですよ。全く困《こま》ったもんで、あの石頭にも……」
座《すわ》って話を聞いているのは、五十歳《さい》前後と見える、上品な顔だちの婦《ふ》人《じん》で着《き》物《もの》姿《すがた》で座《ざ》布《ぶ》団《とん》に端《たん》然《ぜん》と座った姿は、いかにも血《ち》筋《すじ》の良さを感じさせた。
——しばらく、木の陰《かげ》からその様子を見ていた娘は、やがて、ちょっと息をついて、歩いて行った。
「いや、この先が思いやられます。私《わたし》はもうそう長くないからいいが——」
警《けい》官《かん》が言葉を切って、その娘《むすめ》を眺《なが》めた。婦《ふ》人《じん》が、ちょっと目をしばたたいた。
娘は足を止め、真《まつ》直《す》ぐに立った。
「お母《かあ》さん」
と彼女は言った。「ただいま帰りました」
そして、頭を下げた。