常《つね》石《いし》公《きみ》江《え》は、驚《おどろ》いた様子も見せなかった。
「お帰り」
と、ただ肯《うなず》いて、微《ほほ》笑《え》んだ。
「それじゃ……文《ふみ》江《え》さんですか!」
警官の方は、仰《ぎよう》天《てん》した様子で、茶《ちや》碗《わん》を手にしたまま、座《すわ》っている。
「文江です」
と娘は言った。「長いこと、ご心配かけてすみません」
「いや……これは……大変だ!」
「白《しら》木《き》さん」
と、常石公江が言った。「私《わたし》が申したでしょう。文江は必ず生きている、と」
「お母さん。——上ってもいい?」
「ええ、お前の家だもの」
「入れてくれないかと思ったの」
と、文江は微《ほほ》笑《え》んだ。
「そんな、TVドラマに出て来るような母親とは違《ちが》うわよ」
と公江は言った。「——お父《とう》さんは亡《な》くなりましたよ」
「知ってるわ」
と文江は肯《うなず》いた。「この地《ち》域《いき》の新聞を、よく読んでたのよ。まだ、あのときは、とても帰れる状《じよう》態《たい》じゃなくって」
「いいからお上り。——白木さん、あなたも」
「はあ……」
白木巡《じゆん》査《さ》は、まだ狐《きつね》につままれたような顔で、上り込《こ》む。
「白木さん、大分、髪《かみ》が白くなったわね」
と、文江が言った。
「もう七年ですからな。——しかし、どこにおられたんですか?」
「東京です。一生懸《けん》命《めい》、働いていました」
「なるほど……」
長年、ここで働いている、うめが奥《おく》から出て来た。
「奥様、お風《ふ》呂《ろ》場《ば》の——」
と言いかけて文江を見る。
「ただいま、うめ」
「——お嬢《じよう》様《さま》!」
「文江、あんまりうめをびっくりさせないで。最近すぐ腰《こし》を抜《ぬ》かすんだから。——ほらね」
と公江は言って、座《すわ》り込んでしまったうめに笑《わら》いかけた。
父の遺《い》影《えい》に手を合せた後、文江は、母の前に座った。
「——お前が帰って来てくれたのは嬉《うれ》しいけれど」
と、公江は言った。「お前がいなくなった後のことを、知らないんでしょう?」
「後のこと?」
「そう。——恐《おそ》ろしいことが起ったんですよ」
公江はそう言って、息をついた。
「恐ろしいことって?」
「お前は黙《だま》って出て行ってしまったろう。私《わたし》はお前の気持も分っていたし、お前が自殺なんかする娘《むすめ》ではないと知っていましたからね、生きていると信じていたけれど、村の人たちは、お前が死んだと思っているのよ」
「なぜ?」
——白木巡《じゆん》査《さ》が言った。
「しかも、あなたは殺されたもんだと思っとったんです」
「殺された?」
文江は呆《あつ》気《け》に取られていた。「私がどうして……」
「さあ——今となっては、不思議な気がしますが」
白木巡査はため息と共に言った。「なぜかあのときは、そんなことになってしまったんですわ」
「恐《おそ》ろしいこと、っておっしゃいましたね」
と、文江は言った。「それは、どういう意味ですか」
「はあ……」
白木は困《こま》ったように、かなり薄《うす》くなりかけた頭をさわって、公江の方を見た。
「お嬢《じよう》様《さま》」
やっと落ち着いた様子のうめが、お茶を運んで来た。「相変らず濃《こ》いお茶をお好《この》みなんでございますか?」
「そうでもないわ。貧《びん》乏《ぼう》暮《ぐら》しをして、お茶の葉が買えなかったこともあるから、いつも薄くして飲んでたのよ」
「まあ!」
と、うめは呆《あき》れたように、「そう言って下されば、お持ちしましたのに」
と言った。
公江が苦《く》笑《しよう》して、
「何を言ってるの。——文江、お腹《なか》は空《す》いていないの?」
「ええ、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》」
「本当にねえ」
と、うめが独《ひと》り言のように言った。「お嬢《じよう》様《さま》はてっきり坂《ばん》東《どう》のところの息子《むすこ》に殺されなさったと思っていましたよ」
公江と白木が目を見《み》交《か》わした。
文江は、うめの顔を見つめた。
「坂東って……坂東和《かず》也《や》さんのこと?」
「はい。ご存《ぞん》知《じ》なかったんですか?」
「和也さんが——私《わたし》を殺したって?」
文江は、ゆっくりと言って、「どうしてそんなことを……」
「色々とあったんですよ」
と白木が言った。
「そういえば、途《と》中《ちゆう》で見たけど、坂東さんの家は閉《しま》ってしまっていたわね。どこへ行ったの?」
「分らないのよ」
と公江は言った。「ご両親は、黙《だま》って村を出て行ってしまった……」
「そりゃ無《む》理《り》ありませんよ」
と、うめが口を挟《はさ》んだ。「息子《むすこ》が人殺しと言われて、首をくくってしまったんじゃ、村にはいられませんよ」
「うめ。あなたは退《さ》がっていなさい」
「はいはい。では、今夜は久しぶりにお嬢《じよう》様《さま》の好《こう》物《ぶつ》でも作らせていただきましょうかね」
と、うめが退がって行く。
「——文江。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
「ええ……」
文江は額《ひたい》に手を当てて、目を閉《と》じていたが、やがて、大きく息を吐《は》き出した。「本当なの? 和也さんが……」
「事実です」
と白木が言った。「本当に悲《ひ》劇《げき》でしたな、あれは」
「どうしてそんなことに?」
と文江は、母と白木を交《こう》互《ご》に見ながら言った。
「待ちなさい」
と公江は抑《おさ》えて、「あの朝のことから、順を追って話さなくてはならないわね。——お前がここを出たのは、何時頃《ごろ》だったの?」
「三時だったわ。——一時過《す》ぎまでは、起きている家もあるし、四時になると起き出す人がいる。だから三時にここを出たの」
「それからどっちへ向ったの?」
「駅へ行けば、人目につくに決ってるし、列車に乗るわけにはいかない。知ってる人が大勢いるはずですものね。だから、逆《ぎやく》に、山の方へ歩いて行ったのよ」
「しかし、凄《すご》い早足でしたな」
と白木が言った。「山《やま》越《ご》えには、半日かかるでしょう。向うの町には、もう、朝の内に連《れん》絡《らく》が行っとって、山からの道を見《み》張《は》っていてくれたはずでしたが」
「運が良かったんです」
と文江は言った。「山へ上る前に、車が一台、村の方から走って来たの。東京の人で、家族で旅行していたんだけど、道に迷《まよ》ってこんな所へ入りこんでしまったのね。で、私《わたし》を見て道を訊《き》いたんです」
「で、乗せてもらったんですか」
「ええ。男一人の車なら乗りませんけど、あちらは親子連れでしたから。車はUターンして駅の方へ戻《もど》り、旧《きゆう》道《どう》と川の土手を抜《ぬ》けて、国道へ出たんです」
「それで東京まで?」
と、公江が訊《き》いた。
「そうなの。ともかく、新《しん》宿《じゆく》の駅のところで降《お》ろしてもらったわ。おかげで、列車代が助かって、二、三日は食べていられたの」
「呆《あき》れたものね。十九歳《さい》の身で、よくそんなことを……」
と公江は言ったが、怒《おこ》っている様子ではなかった。
「でも、お母さんに恥《は》ずかしいようなことは、どんなに苦しくてもやらなかったわ。額《ひたい》に汗《あせ》して働いて」
「そうね。まだ訊いてなかったけど、お前、まだ独《ひと》りなの?」
「そりゃそうよ。恋《こい》人《びと》ぐらいはいるけれど」
「子《こ》供《ども》もいないのね」
「今のところは。そんなことより——」
「お待ちなさい。どう話したらいいかと思って考えているのよ」
公江は、ちょっと視《し》線《せん》を宙《ちゆう》にさまよわせて、考えている様子だった……。
「最初にお前がいないことに気が付いたのは、うめだったわ」