「黙《だま》って行っちゃうなんて、ひどいよ」
と、百代が言った。
「ごめん。——だって、まず母に挨《あい》拶《さつ》してから、と思ったのよ」
文江と百代は、庭に出ていた。
「それに——」
と文江は付け加えた。「母に、もうお前のいる所はない、って追い出されるんじゃないかと思ったしね」
「まさか」
「——でも、そうされても仕方のないようなことをして来たんだものね」
文江は、微《ほほ》笑《え》んで、「あなた、誰《だれ》と結《けつ》婚《こん》したの?」
「杉《すぎ》山《やま》っていうのよ、今は。——文江、知らないでしょ。学校の先生なの。二十歳《さい》のときかな、私《わたし》、小学校の事《じ》務《む》に勤《つと》めてて、そのときに……」
「そう。子《こ》供《ども》は一人?」
「二人。下はまだ赤ん坊《ぼう》よ」
「すっかりお母さんね」
「太っちゃって、いやになるわ」
と、百代はポンとお腹《なか》を叩《たた》いた。「——文江は若《わか》いわ。そのスタイル、服《ふく》装《そう》、凄《すご》いじゃない!」
「だって、デザイナーなのよ。デザイナーが変な格《かつ》好《こう》できないでしょ」
「花形ね。高級マンションに住んで、外国のスポーツカー乗り回して、男と恋《こい》を楽しんで……」
「TVドラマの見《み》過《す》ぎよ」
と、文江は笑《わら》った。「本当は忙《いそが》しくて、恋人と会う暇《ひま》もないわ」
「恋人、いるの?」
「一《いち》応《おう》ね。でも——結《けつ》婚《こん》しないと思うけど」
「やっぱりTVドラマだ!」
「私のマンションは、2DKのちっちゃなものよ。それも外国の雑《ざつ》誌《し》やら、スケッチが至《いた》るところに積んであって……」
「でも、面《おも》白《しろ》いでしょうね」
「色々と疲《つか》れることも多いわ。まあ、何とか食べてはいける程《てい》度《ど》に稼《かせ》いでるけど」
二人とも、一番肝《かん》心《じん》の話には触《ふ》れていなかった。
話さなくてはならないが、しかし、最後に回したいのだ……。
「子供さんは?」
「亭《てい》主《しゆ》がみてるからいいの。今日は早い日だったから。——文江のこと、すぐに後で分ったんだけど、子供かかえて、追いかけても行けないでしょ。だから、亭主の帰るのを待って、パッと押《お》し付けて来たの」
「とんだ災《さい》難《なん》ね」
と、文江は笑《わら》った。
何となく、二人は黙《だま》った……。
「文江」
「ん?」
「聞いた?」
「うん。——白木さんもいたから、すっかり」
「そうか……」
百代は首を振《ふ》った。「今でも毎日考えるのよ。あのとき、私《わたし》があんな話をしなかったらって……」
「あなたのせいじゃないわよ。——話したのは当り前だわ」
「そう? でも、そのせいで、和也君は死んじゃったわ」
「百代は、別に和也君が犯《はん》人《にん》だと言ったわけじゃないんだし……」
「同じことよ」
「もとはと言えば、私の責《せき》任《にん》よ。もちろん、そんなことになるなんて、思いもしなかったけど……。でも現《げん》実《じつ》にそうなってしまったんだもの」
「もう取り返しはつかないものね」
「そう……。ね、百代、和也君のご両親がどこへ行ったか、何か耳にしてない?」
なぜか、百代は一《いつ》瞬《しゆん》、ためらったようだった。
「分らないわ、全然。——誰《だれ》も知らない内にいなくなっちゃったんだもの」
「そう……」
「私、あそこの隣《となり》にいるのなんて、いやなのよ。いつも和也君のこと、思い出して。でも、今の家が安かったし、あの雑《ざつ》貨《か》屋《や》は取り壊《こわ》してくれるって話だったの。それが、いつまでたっても……。また当分、悩《なや》まされそうね」
文江はちょっと間を置いて、
「ね、和也君のお墓《はか》知ってる?」
「ええ。毎年、命日にはいくのよ」
「そう。じゃ、連れて行って」
「今?」
「そう。せめて、お詫《わ》びだけでもね」
「いいわ、行きましょう」
と、百代は肯《うなず》いた。
合《がつ》掌《しよう》していた文江は、しばらくしてから、ゆっくりと顔を上げた。
後ろに足音がして、振《ふ》り向くと母が立っていた。
「このお墓《はか》は、私《わたし》が立ててあげたのよ」
と、公江は言った。「せめて、と思ってね。——今となっては、本当に良かったと思ってるわ」
「和也君は、もう戻《もど》らないわ」
「それはそうよ。でも、お前が自分を責《せ》めることはないわ。人の力ではどうにもならないことがあるものなのよ」
「そうね……」
と、文江は肯いた。
「あの——」
と、少し退《さ》がっていた百代が、やって来て言った。「そろそろ帰らないと、子《こ》供《ども》のことが——」
「そうね。ごめんなさい。私は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。またゆっくりね」
「うん。——しばらくはいるの?」
「そのつもりよ。電話するわ」
「そうして。主人にも紹《しよう》介《かい》したいし」
百代は、急ぎ足で帰って行った。
「——ああやって、毎日の生活の中に、過《か》去《こ》の傷《きず》が埋《うも》れて行くのよ」
と、公江が言った。
「私の傷は深すぎるわ」
と、文江は言った。
「文江」
「なあに?」
「東京へお戻《もど》り」
文江は、ちょっと目を見開いて、
「どうして?」
と訊《き》いた。
「ここにいても、いいことはないよ」
「娘《むすめ》を、そうすぐに追い返さなくてもいいじゃないの」
「ごまかさないの。お前が何か思いつめてることぐらい、分りますよ」
「そう?」
「そうよ。七年前も、お前はそんな顔をしてたわ」
「それなら分ってるでしょう。私《わたし》の気持は変らないことぐらい」
文江は墓《はか》を見つめながら、言った。
「何をする気なの?」
「本《ヽ》当《ヽ》に《ヽ》何が起ったのか、はっきりさせたいのよ」
「七年も前のことよ。——それでどうなるっていうの?」
「お母《かあ》さん」
文江は微《ほほ》笑《え》んで言った。「——無《む》茶《ちや》はしないわ。私に任《まか》せて。もう子供じゃないのよ」
公江は、ため息をついて、言った。
「子供じゃないから心配なのよ」
「一人にして。少し考えることがあるんだから」
「分ったわ。——もうすぐ暗くなるわ。その前に帰りなさい」
「そうするわ」
公江が帰って行く。
文江は一人、残って、墓《はか》の前に立っていた。
文江の頭《ず》脳《のう》は、ここで育った頃《ころ》より、ずっとドライに、実《じつ》務《む》的になっている。——そういう点、母は理《り》解《かい》していないのだ。
東京で、女一人、競争の激《はげ》しい社会に飛び込《こ》んでやって行こうと思えば、ともかく、感《かん》傷《しよう》は二の次である。
まず計算ができ、そして行動できなくてはどうにもならない。
母が言った通り、一《いつ》旦《たん》東京へ帰る必要がある、と文江は思った。
この事《じ》件《けん》を洗《あら》い直して、真相を見つけるには、何か月かはかかるだろう。その間、東京での仕事はキャンセルしておかなくてはならない。
今度の帰《き》郷《きよう》では、一週間しか休みを取って来ていないのだ。
幸い、今、文江は仕事を多少キャンセルしても、後で仕事がなくなることはない。文江は割《わり》合《あい》に売れているデザイナーだし、それに、今までキャンセルしたことがないので、信用がある。
一度だけのキャンセルなら、向うも快《こころよ》く承《しよう》知《ち》してくれるだろう。
それに、東京へ戻《もど》らなくては、この地方の七年前の新聞など、どこへ行っても、見られまい。もちろん新聞社へ行くという手もあるが、今さら新聞種になるのも、ごめんだった。
まず、新聞で、分るだけのことを調べ、それから、県《けん》警《けい》で、和也のことを調べた記録が見られるように、何とか手を打つ。
そう。——それにもう一つ、和也の両親の行方《ゆくえ》が気になっていた。
夜中に黙《だま》って出て行ったというが、その思いを、何としても、晴らしてやりたい。
それは、警《けい》察《さつ》で調べればすぐに分るだろうが、できることなら、警察の手を借りずに自分で調べたかった。
墓《ぼ》地《ち》を出て、文江は、ゆっくりと家へ戻《もど》って行った。
畑の中の道を歩いて行くと、ブルル、という音が後ろから近付いて来た。
振《ふ》り向くと、婦《ふ》人《じん》用《よう》のミニ・バイクに、中年の男がまたがってやって来る。
「どいて!」
と男が叫《さけ》んだ。「そこを、どいて下さい!」
文江があわててわきへよけると、バイクは目の前を通り過《す》ぎ——ようとして、みごとに引っくり返った。
その格《かつ》好《こう》がおかしくて、文江は、つい笑《わら》ってしまった。
「いや——参った!」
背《せ》広《びろ》姿《すがた》の男は立ち上ると、ズボンや上《うわ》衣《ぎ》の汚《よご》れを手で払《はら》って、「急ぐからと思って乗って来たのに、これだ!」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」
とまだ笑《わら》いを残して、文江は訊《き》いた。
「ええ。——しかし、乗りにくいものですな、これは」
「後ろに泥《どろ》が」
「え?——ああ、こりゃどうも」
文江は、ハンカチを出して、背広の背中についた泥を拭《ふ》いてやった。
「いや、申し訳《わけ》ありません」
と男は礼を言って、バイクを起こすと、
「では、急ぎますので」
と一礼して、またバイクを始動させ、またがって、走り出した。
「何だか頼《たよ》りないわね」
と、呟《つぶや》いて、文江は首を振《ふ》った。
誰《だれ》だろう?——見たことのない顔だった。
もちろん、七年の間には、村の顔ぶれも、多少、変っていよう。
文江は、また歩き出した。
ずっと先の方で、今の男が、またバイクごと引っくり返るのが見えた。
「——今夜、東京へ戻《もど》るわ」
と、夕食の席で、文江は言った。
「何ですって?」
と、うめが目を丸《まる》くした。「今日、おいでになったばかりですよ!」
「そう。でも、早い方がいいの」
「そんなこと——」
「うめ」
と、公江が抑《おさ》えて、「好《す》きにさせてやりなさい」
と言った。
「最後の列車が一時間後ね。それに乗るわ」
「気を付けてね」
「ええ」
文江は手早く食事を終えて、立ち上った。
「ごちそうさま。——久《ひさ》しぶりで、おいしかったわ」
「さようでございますか」
うめが、ふくれっつらで言った。
「じゃ、仕《し》度《たく》するわ」
文江は部《へ》屋《や》へと上って行った。
「——奥《おく》様《さま》」
とうめが言った。「どうしてお止めにならないんです?」
「止めて聞く子じゃないでしょ」
と、公江は言った。「それに、もう二十六なのよ」
「でも、今度こそ、お帰りにならなかったら——」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。帰って来るわよ、あの子は」
公江は、自信ありげに言った。「お茶をおくれ」
「はい」
うめは、どうにも不満顔であった。