「お帰り」
と、草《くさ》永《なが》達《たつ》也《や》がグラスを上げた。
「どうも」
文江は、あまり気のない返事をした。
「どうしたんだ? あんまり嬉《うれ》しそうじゃないね」
と草永は言った。
「どうして嬉しくなきゃいけないの?」
「ご挨《あい》拶《さつ》だな。恋《こい》人《びと》と別《わか》れてるのが寂《さび》しくて、たった二日で帰って来たんだろ?」
文江は、ちょっと笑《わら》った。
「相変らずね」
「変りっこないじゃないか、前に会ってから、四日しかたってない」
「ずいぶんたったような気がするわ」
と、文江は言った。
銀《ぎん》座《ざ》の地下のレストランだ。小さな店だが、草永の会社が近いので、よくここで待ち合せる。
草永達也は、広告会社に勤《つと》めている。
といって、夜も昼もなく飛び回るエリートというわけでなく、至《いた》って呑《のん》気《き》な、庶《しよ》務《む》の人間だった。
さほど二《に》枚《まい》目《め》でもないが、おっとりした人《ひと》柄《がら》の良さが、競争の社会で疲《つか》れている文江にとって、救いのように感じられる。
あまり付き合ってスリルのある相手ではないが、何でも打ちあけて話せる男だった。
「僕《ぼく》も、君がいない間は寂《さび》しかったよ」
「意味が違《ちが》うのよ」
と、文江は言った。
「まあそうがっくりするな。仕方ないじゃないか。七年間、生死不明だったんだ。その内に、お母《かあ》さんの怒《いか》りも解《と》けるよ」
「違うのよ。そんなことなら、こう深《しん》刻《こく》になりゃしないわ」
「へえ。何事だい、一体?」
「とんでもないことになったのよ」
「もう君に亭《てい》主《しゆ》がいたとか?」
「まさか」
と、文江は苦《く》笑《しよう》した。
食事をしながら、文江は一部始終を話して聞かせた。
「そいつは辛《つら》いね」
と、草永は言った。
「そう。——いやになっちゃうの、分るでしょ?」
「うん。しかし……」
「私《わたし》、必ず、真相を暴《あば》いてやるわ」
「つまり、君の部《へ》屋《や》が荒《あら》されていたことと——」
「書き置きが消えていたことよ」
「それに、その男——和也といったっけ? 彼《かれ》の言うこともおかしいね」
「どうして?」
「包丁の話、手《て》拭《ぬぐ》いの話、どれも本当とは思えないよ」
「そうねえ……」
「彼には彼で、何か、隠《かく》していることがあったんだ。——例の焼いた跡《あと》のことだって、彼の話じゃ解《かい》決《けつ》できないじゃないか」
「それもそうね」
「彼はやっぱり、何《ヽ》か《ヽ》やったんだと思うね、僕《ぼく》は」
「何を?」
「誰《だれ》かを殺して、埋《う》めたのさ」
「まさか!」
「他に考えられるかい? 起《き》訴《そ》するには死体が見つからないと無《む》理《り》だけど、状《じよう》況《きよう》証《しよう》拠《こ》は充《じゆう》分《ぶん》だよ」
「でも、誰を?」
「そりゃ分らないさ」
「行方《ゆくえ》不明になれば、誰かが届《とど》け出るでしょう」
「どうかな」
「だって——」
「考えてみろよ」
と、草永は言った。「君だって、通りすがりの車に乗って東京へ出て来た。どこかの女の子が、町から山道へ迷《まよ》い込《こ》んで、困《こま》っている。そこへその、和也が通りかかって、村まで案内しよう、と言い出す」
「それで?」
「途《と》中《ちゆう》、色々話をするだろう。女の子は家出して来たと分る。しかも、かなり遠くから来ている。——暗い山中で、二人きりだ。和也が、妙《みよう》な気を起こしてもおかしくない」
「やめてよ。幼《おさ》ななじみなのよ」
「だが君は女で、僕《ぼく》は男だ。男のことは、僕の方が良く分る。十九歳《さい》は、体が大人《おとな》で、まだそれを制《せい》御《ぎよ》し切れない年《ねん》齢《れい》だよ」
「でも殺すなんて……」
「殺す気だったのかどうかね。乱《らん》暴《ぼう》するだけのつもりだったかもしれない。でも女の子の方が、大人《おとな》しくしていなかった。隙《すき》を見て彼の荷の中にあった包丁をつかんで——」
「逆《ぎやく》に刺《さ》された……」
「ほんのはずみだったかもしれないよ」
文江は、じっと草永を眺《なが》めて、
「見て来たようなことを言うのね」
「可《か》能《のう》性《せい》さ。——ともかく、何かあったことは確《たし》かだと思うね」
草永はそう言って食事を続けた。
「あなたって、割《わり》合《あい》に鋭《するど》いのね」
「割合に、はないぜ」
と、草永は言った。「——本当に、やるのか?」
「事《じ》件《けん》のこと? そうよ」
「やめといた方がいいと思うけど……。まあ言ってもむだだろうね」
「むだよ」
と文江は言った。「考えてみてよ。人一人、私《わたし》のために死んでいるのよ」
「うん、分る」
と、草永は言った。「ワイン一本分には充《じゆう》分《ぶん》相当するよ」
「同感だわ」
文江はワインのグラスをぐいっとあけた……。
「——今夜は帰るの?」
と、文江はベッドの中から言った。
「いや、泊《とま》ってもいい。でも君の気持次《し》第《だい》だな」
「そう」
文江は裸《はだか》の腕《うで》をのばして、草永を抱《だ》き寄《よ》せた。「——私はあなた次第よ」
二人の唇《くちびる》が絡《から》むように触《ふ》れ合う。
そこへ、チャイムが鳴った。
「——誰《だれ》だい?」
「さあ、分らないわ。もう十一時ね。——こんな時間に……」
「出てみろよ。何か着てね」
「当り前でしょ」
と、文江は言って、ベッドから出ると、裸《ら》身《しん》にガウンをまとった。
インタホンで、
「どなた?」
と声をかける。
「警《けい》察《さつ》の者です」
と、返事があった。
文江は、草永の方へ肩《かた》をすくめて見せ、玄《げん》関《かん》へ出て行った。
チェーンをしたまま、細く開けてみる。
「ええと……常石文江さんですか」
「はあ」
「実はちょっとお話が……」
どこかで聞いた声だ、と思って、文江は首をかしげた。
ともかく中へ入れる。
「夜分、申し訳《わけ》ありません」
居《い》間《ま》へ入って、明るい光の下に立つと、やっと分った。
「ああ、あの、バイクでひっくり返ってた方ですね!」
「え?——じゃ、あなたが、あのときの……」
男は照れくさそうに頭をかいた。
「——じゃ、県《けん》警《けい》の刑《けい》事《じ》さんなんですか」
と、草永の淹《い》れてくれたコーヒーを飲みながら、文江は言った。
「はあ。室《むろ》田《た》といいます」
刑《けい》事《じ》はそう言って、「いや、てっきりお一人と思ったので……。お邪《じや》魔《ま》をして申し訳ありませんね」
「いや、いいんですよ」
と、草永が気楽に言った。「朝までは長いですからね」
「いや、お若《わか》い方々は羨《うらやま》しい」
と、室田刑事は言った。
「で、どういうご用でおいでになったんでしょう?」
「あなたが行方《ゆくえ》不明になって、坂東和也という若《わか》者《もの》が捕《つか》まった。——ご存《ぞん》知《じ》ですね?」
「はい。母から昨日、初めて聞きましたわ」
「そのとき、彼《かれ》を調べたのが、私だったのですよ」
「まあ」
「もちろん私一人ではありません」
と、室田刑事は続けた。「何人かの同《どう》僚《りよう》は、彼がクロに違《ちが》いない、と言っていました。しかし、私はシロだと思っていたのです」
「そうでしたか」
「結局、彼の自殺で、たぶんクロだったのだろう、ということになって、それきり終ってしまったのですが、ずっと気になっていたのです」
「そこへ私《わたし》が帰ったので……」
「ええ、それを聞いて、駆《か》けつけたんです。ところが、あなたはもういらっしゃらなくて」
「それはすみませんでした」
「いや、あのときに気が付いても良かったんですよ」
と室田刑《けい》事《じ》は、ちょっと照れたように笑《わら》った。
「——で、私に何のお話だったんでしょうか?」
「あなたが、どうやって村を出られたのか、うかがいたかったのです」
「それは——」
文江は、母に話した説明をくり返した。
「すると山の方へは行かなかったんですね」
「ええ。行きかけて、車が来たので、やめたんです」
「山道を行けば、途《と》中《ちゆう》で、坂東和也に会っていたでしょうね」
そう言われて、文江は、ちょっとハッとした。
「そうですね。考えてもみませんでした」
「実は、私にも、あの和也という若《わか》者《もの》の言うことは信用できないんですよ。しかし、あなたを殺してはいない。——そうなると、あの若者は、なぜ、あんなでたらめを言ったのでしょう?」
文江は、ちょっと草永の方を見た。
「——分りませんわ」
「ともかく、彼には、隠《かく》したいことがあったのです」
「それは分ります」
「しかし、そのおかげで、彼は殺人の容《よう》疑《ぎ》をかけられている。——それほどまでにして、隠していた秘《ひ》密《みつ》は何だったのでしょう?」
「別の殺人だったのじゃありませんか?」
と、草永が言った。
「鋭《するど》いですな」
と、室田刑事が肯《うなず》く。「私もそう考えました。しかし、あの夜、確《たし》かに、彼は、町から出て山道を村に回っています。途中、誰《だれ》か女と会って、殺したとして、その死体をどこかへ埋《う》める——近くではないのですよ。あの辺一帯を捜《さが》したのですからね。そして、服を焼く。それだけのことをやる時間が、あったでしょうか?」
「なるほど」
「しかも、まだ暗い中でです。そして、包丁と手《て》拭《ぬぐ》いの件《けん》……。埋《う》めるなら、なぜそれも一《いつ》緒《しよ》に埋めてしまわなかったのか?」
「分りませんわ」
と文江は首を振《ふ》った。
「つまりですね、彼は殺したかのような痕《こん》跡《せき》を、作っていたのではないか、と私は思っているのですよ」
と、室田刑《けい》事《じ》は言った。