「ええ、そんなわけで……。本当に申し訳《わけ》ありません。二度とこんなことはいたしませんので。——はい、一か月で戻《もど》ります。それで大変に図《ずう》々《ずう》しいお願いなんですけど、戻りましたら……。——そうですか! 本当に助かります、そうしていただけると!——はい。すぐにご連《れん》絡《らく》を取りますので。——よろしく……」
電話を切って、常石文江は息をついた。
手帳をめくって、
「これでもう落とした所はないかしら……」
と呟《つぶや》く。「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だわ、全部連絡した!」
「あんまり張《は》り切ると、老《ふ》けるぜ」
と、草永達也が言った。
「ドキッとするようなこと言わないでよ」
「本当さ。若《わか》いからって無《む》理《り》しない方がいいよ」
文江のマンションである。
そろそろ昼、正午になろうとしていた。文江は、Tシャツにジーンズの軽《けい》装《そう》で、ソファに寝《ね》転《ころ》がって、電話をかけていたのだ。
ちょっと、ファッション・デザイナーには見えないスタイルだった。
草永は、ワイシャツにネクタイのスタイルで、そろそろ出社しようか、というところ。半日休《きゆう》暇《か》が取れるので、朝、ベッドの中で会社へ連《れん》絡《らく》し、その後、文江と少々運《ヽ》動《ヽ》をしてひと眠《ねむ》りしたのである。
「どうせ一時までに行けばいいんでしょ? 一《いつ》緒《しよ》にお昼を食べましょうよ?」
と、文江はソファからはね起きた。
「いいよ。この下で食べる?」
「この格《かつ》好《こう》で通用するのはあそこぐらいね」
マンションの一階に入っている、ちょっとしたキッチンだ。独《ひと》り暮《ぐら》しで、つい外食が多くなる文江には、ありがたい店だった。
「今日もいいお天気ね」
ベランダのカーテンを開けて、文江は伸《の》びをした。
「これからの行動予定は?」
と、草永が上《うわ》衣《ぎ》を着ながら言った。
「これから考えるのよ。一か月、時間ができたんだもの」
布《ぬの》のバッグを手にして、文江は草永と一《いつ》緒《しよ》に部《へ》屋《や》を出た。ここは五階である。
「——でも、凄《すご》いでしょ。私との契《けい》約《やく》、断《ことわ》りたいって人、いなかったわ」
「美人は得《とく》だ」
「あら、それじゃ私に才《さい》能《のう》がないみたいじゃないの」
エレベーターに乗って、文江は笑《わら》いながら言った。
一階に着いて、車《くるま》寄《よ》せの下を曲って、店のドアを押《お》す。
「やあ、おはよう」
コロコロと太って、いかにも料理人という感じのマスターが、文江に笑《わら》いかけた。
「おじさん、何か作って。任《まか》せるから」
カウンターだけの小さな店である。他《ほか》に客はなかった。十二時に十分ほどある。
「OK。昼休みになる前に、スパゲッティがゆで上るよ」
「それでいいわ。この人にもね」
「了《りよう》解《かい》。——まだ結《けつ》婚《こん》せんのかね?」
と、手早くスパゲッティにかかりながら、マスターが訊《き》く。
「彼女《かのじよ》がその気になってくれなくてね」
草永は言って、ポケットを探《さぐ》った。「おっと、いけない。禁《きん》煙《えん》中《ちゆう》なんだ、忘《わす》れてた」
「何だ、また禁煙してるのかい」
とマスターがからかった。「——文ちゃんは、田舎《いなか》へ帰ったんじゃなかったのか?」
「一《いち》応《おう》はね。ちょっと思うところあって、引き返して来たのよ」
「さては見合の相手を押《お》し付けられたな? 図星だろう」
「ご想《そう》像《ぞう》にお任《まか》せします」
と、文江は言って、水を飲んだ。「コーヒーもお願いね」
「分ってるさ。——なあ、文ちゃん、さっきあんたのことを訊《き》きに来た男がいたぜ」
「私のこと?」
「ああ。身《み》許《もと》調《ちよう》査《さ》じゃないのかい、縁《えん》談《だん》の、さ」
「そんな話、ないわ、本当よ」
「へえ。じゃ、一体何なのかな」
文江は、草永と、ちょっと顔を見合わせた。
「——で、おじさん、何て訊かれたの?」
「いや、あんたの写真見せてさ、この女《じよ》性《せい》を知ってるかって。このマンションにいるはずだけど、見たことないかって訊《き》いてたよ」
草永が、
「どんな男?」
と、口を挟《はさ》んだ。
「さて……。中《ちゆう》肉《にく》中《ちゆう》背《ぜい》ってやつかな。あんまり目立たない奴《やつ》だったよ。グレーのコートを着てね」
「で、何て返事したの?」
と文江は言った。
「開店したばっかりなんで、よく分らねえ、と言ったよ。理由はどうでも、人のことをかぎ回ったりするのは好《す》きになれないからね」
「おじさんらしいわ」
文江は笑《わら》った。
しかし、一体誰《だれ》なのだろう?——文江には心当りがまるでなかった。
スパゲッティを食べ始めると、十二時になって、昼食に出て来た近所のサラリーマンやOLたちで店はたちまち満席になる。
マスターは一人で料理から会計、注文取りまで大《おお》忙《いそが》しである。しかし、額《ひたい》に汗《あせ》を光らせて駆《か》け回っているときが、このマスター、一番楽しそうなのである。
「——誰なんだろう」
コーヒーを飲みながら、草永が少し大きな声で言った。店の中が、ぐっとやかましくなっているのである。
「分らないわ。あんまりいい気分じゃないわね」
「気を付けろよ」
と草永が言った。
「あら、何に?」
「分らないが……。ともかく色んなことに、さ」
「まず男《だん》性《せい》に注意、ね」
文江は冗《じよう》談《だん》めかして言ったが、草永は笑《わら》わなかった。
「いいか、まあその男は関係ないかもしれないが、君は七年前の出《で》来《き》事《ごと》をほじくり返そうとしてるんだ。それは必ず何か波《は》乱《らん》を起す。——充《じゆう》分《ぶん》用心した方がいい」
草永が、こんな風に、真《しん》剣《けん》にものを言うのは珍《めずら》しい。いや、いつも軽《けい》薄《はく》というわけではないのだが、人に忠《ちゆう》告《こく》したりする柄《がら》ではないのである。
「分ったわ」
文江は、真顔で肯《うなず》いた。
草永が、しつこく、やめろと言わないことが、ありがたかった。——文江は、やり抜《ぬ》くと決めたことは、途《と》中《ちゆう》で投げ出さない。
元来、そういう性《せい》格《かく》でもあったのが、七年間の生活で、一《いつ》層《そう》拍《はく》車《しや》がかかった。苦しくなることは何度もあったが、結局投げ出さないことで、それを乗り切ったのである。
今となっては、その信《しん》条《じよう》を変えろと言われても不《ふ》可《か》能《のう》だった。
マンションの玄《げん》関《かん》の所で、草永と別れた。少し歩いて、振《ふ》り返った草永に、もう一度手を振った。
ふと、まるで新《しん》婚《こん》家庭の朝みたいだわ、と思った。出《しゆつ》勤《きん》していく夫と、見送っている新《にい》妻《づま》と……。
だが、決してそんなことにはならないだろう、と文江には分っていた。
自分が選んだ生き方は、そんなものではない。——あの、百代のような、ごく当り前の妻や母の姿《すがた》に憧《あこが》れる気持は、文江の中にはなかった。
後になって、いつか何十年かたって、それを後《こう》悔《かい》することがあるかもしれないが、それでも構《かま》わない。ともかく、文江は自分をごまかして生きることのできない人間なのである……。
マンションへ入って、エレベーターの方へ歩いて行く。——草永が言ったことは、胸《むね》の中に、小さな魚の骨《ほね》のように、ひっかかっていた。
確《たし》かに、自分は無《む》用《よう》な波《は》乱《らん》を、あの静かで平和な田《でん》村に引き起こそうとしているのかもしれない。今さら、何をしたところで、坂東和也は生き返っては来ないし、七年前の事《じ》件《けん》の真《しん》相《そう》を明らかにすることは不《ふ》可《か》能《のう》かもしれない。
しかし、自分のせいで——総《すべ》てが自分の責《せき》任《にん》とは言えないにせよ——一人の人間が死んだという事実は、何十年を経《へ》ても消えるものではないのである。
エレベーターに乗って、五階のボタンを押《お》す。
「ともかく、やるしかないんだわ」
と口に出して言った。
一か月、仕事はストップした。一《いち》応《おう》、いくらかの貯《たくわ》えもある。その全部を費やしても、充《じゆう》分《ぶん》かどうか……。
しかし、もう石は坂を転り始めた。誰《だれ》もそれを止めることはできないのだ。
あの室田という刑《けい》事《じ》が和也の両親の居《い》所《どころ》を捜《さが》してくれることになっていた。事《じ》件《けん》に直《ちよく》接《せつ》関係あるかどうか分らないが、ともかく坂東夫《ふう》婦《ふ》に会うべきだ、と文江は思っていた。
五階でエレベーターを降《お》り、〈503〉のドアを開ける。ふと、風が抜《ぬ》けて通った。
おかしい、と思った。
ドアを開けても、窓《まど》が開いていなければ、風は抜《ぬ》けて行かない。窓や、ベランダに出るガラス戸は、全部、閉《しま》っているはずだ。
居《い》間《ま》へ入って、中を見回す。——別《べつ》段《だん》、変りはないように見えた。
電話が鳴り出して、ギクリとした。気のせいだろうか、さっきの風は?
電話が鳴り続ける。ともかく、出ることにした。
「常石です」
「やあ、室田ですよ」
「あ、昨《さく》晩《ばん》はどうも」
と、文江はホッとした気分で言った。
「お邪《じや》魔《ま》してすみませんでしたね」
「いいえ、構《かま》わないんです」
「実は、県《けん》警《けい》の方で急に用が出来まして、戻《もど》らねばならないんです。それで申し訳《わけ》ないのですが——」
「何か分ったことでも?」
「例の坂東和也の両親ですが、東京へ出て来ているようですよ」
「まあ、東京へ?」
「今、詳《くわ》しいことを調べてもらっています。分り次《し》第《だい》そちらへ連《れん》絡《らく》させるようにしましょう」
「お願いします。すぐに行ってみますわ」
「一、二時間の内に電話が行くと思いますが、私《わたし》が行けなくて申し訳《わけ》も——」
突《とつ》然《ぜん》、背《はい》後《ご》からのびて来た手が、電話のフックを叩《たた》きつけるように押《お》した。ハッとする間もなく、電話のコードが、鞭《むち》のように、蛇《へび》のように、文江の首に巻《ま》きついた。
「あ——」
声が短く切れた。コードが首に食い込《こ》む。
文江は、息ができなくなって、目の前が暗くなるような気がした。
「動くな」
耳もとに、男の声が囁《ささや》いた。「動くと、強く絞《し》めるぞ」
文江は、身《み》震《ぶる》いした。
「——よく聞けよ」
と声は続いた。「もうやめるんだ。余《よ》計《けい》なことに首をつっこむな。——分ったか?」
文江は、意《い》識《しき》が薄《うす》れて行くのを感じた。このまま、死ぬのか、と思った。
「昔《むかし》のことをつついて回っても、ろくなことはない。——分ったか?」
男の声が、遠くへと吸《す》い込《こ》まれて行くようだ。
「今度は命がないぞ。お前だけじゃない。誰《だれ》も彼《かれ》もが、死ぬぞ」
——不意に、コードが緩《ゆる》んで、受話器が床《ゆか》まで落ち、はね返って、宙《ちゆう》に揺《ゆ》れた。
文江は床に崩《くず》れて、うずくまった。
誰かが居《い》間《ま》を出て行き、玄《げん》関《かん》のドアが閉《し》まる音が、ずっと遠くで聞こえた。——文江は、何度も喘《あえ》いだ。
床に寝《ね》転《ころ》がって、じっと動かなかった。
息をするのも、苦しい。喉《のど》が痛んで、そっと手で触《さわ》ると、皮が破《やぶ》れて、少し血がにじんでいるらしかった。
何が起ったのか、考える余《よ》裕《ゆう》もなく、ただ横になって、時が過《す》ぎるのを待った。
どれくらい時間がたったのか、文江はゆっくりと起き上ると、ぶら下っている受話器を、フックに戻《もど》した。
殺されかけたのだ。やっと、その恐《きよう》怖《ふ》が実感された。
受話器を取って、ダイヤルを回そうとしたが、手が細かく震《ふる》えて、何度もかけそこなってしまった。
「もしもし——」
声が、びっくりするほどしゃがれていて、二、三度言い直さなくてはならなかった。
「庶《しよ》務《む》の草永さんを……」
時計の方へ目をやると、もう一時四十分である。一時間近く、動けなかったことになる。
「草永ですね? ちょっとお待ち下さい」
女《じよ》性《せい》の声がした。
文江は、自分がどうして草永に電話しているのか、分らなかった。電話して、どうするというのか?
助けて、と叫《さけ》ぶか、それとも泣《な》くか。——文江には分らなかった。
「お待たせしました」
と、草永の声がした。「もしもし、どちら様ですか?」
文江は、じっと草永の声を聞いていた。
「もしもし?——もしもし。——どなたですか?」
文江は、そっと受話器を戻《もど》した。電話が、チーンと音を立てた。