シャワーを浴び、鏡を見ながら、首《くび》筋《すじ》の傷《きず》の手当をする。
思ったほどの傷ではなく、ほとんどそれと分らないほどで、ホッとした。
服を着て、熱いコーヒーを淹《い》れ、ソファで一《いつ》杯《ぱい》飲むと、大分気持が落ち着いて来た。——とはいえ、恐《きよう》怖《ふ》はまだ肌《はだ》にまとわりついていたが。
文江は考え込《こ》んだ。あの男が何者か、捜《さが》す手がかりは何もない。
顔は見ていないのだし、声も、耳もとで囁《ささや》かれたのでは、どんな声やら見当がつかない。
確《たし》かなことは、あの男が言った、
「余《よ》計《けい》なこと」
というのが、今度の田《でん》村での一《いつ》件《けん》であることだ。
しかし、それにしても、草永の警《けい》告《こく》が、こんなに早く事実になるとは……。
殺されかけたのだ。しかし、なぜだろう? 一体、自分が何を知っているというのか。
まだ、実《じつ》際《さい》に、何一つ捜《そう》査《さ》にも取りかかっていないのに、あんな風に向うから出向いて来るというのは、よほど彼女《かのじよ》の動きに神《しん》経《けい》を尖《とが》らせているせいだろう。
だが、文江が田《でん》村へ戻《もど》り、真相を探《さぐ》る決心をして、まだごくわずかの時間しかたっていない。その間に、一体誰《だれ》が、文江のことを知ったのか。
大体、このマンションの場所さえ、文江は母にも言って来なかったくらいだ。
それなのに、あ《ヽ》の《ヽ》男《ヽ》は、やって来て、留《る》守《す》中《ちゆう》のこの部《へ》屋《や》へ忍《しの》び込《こ》み、彼女を待ちうけていた……。
「どうなってるの?」
と、文江は口に出して呟《つぶや》いた。
何でも、つい口に出してしまうのが、長い独《ひと》り暮《ぐら》しから来る癖《くせ》であった。
電話が鳴って、文江はちょっとギクリとした。また後ろから首を絞《し》められそうな気がして、あわてて振《ふ》り向きながら、手をのばした。
「はい、常石です」
「やあ、室田です」
「あ、刑《けい》事《じ》さん」
「さっきは、電話が途《と》中《ちゆう》で——」
「ああ、すみませんでした。ちょっと、客があって」
「実は、坂東和也の両親の居《い》所《どころ》が分りましたのでね」
「まあ、どこですの?」
「渋《しぶ》谷《や》の方のアパートなんです。電話がないので、連《れん》絡《らく》がつけられません」
「行ってみますわ。場所を教えて下さいますか」
「それじゃ、私《わたし》も行きます。待ち合せましょう」
「でも、田《でん》村の方で、何かご用とか——」
「ああ、構《かま》わんのですよ」
と、室田は気楽に言った。「電話して、一日、警《けい》視《し》庁《ちよう》を見学したいと言っておきましたから」
何となくユーモアのある男だ。文江はつい笑《え》顔《がお》になった。
「じゃ、すぐに仕《し》度《たく》しますわ」
「お願いします。ではハチ公の前で。——どうもアベックばかりで、気がひけますが」
「そんなこと……。では後一時間ほどしたら参ります」
「結《けつ》構《こう》です。では」
室田は、いささか馬《ば》鹿《か》丁《てい》寧《ねい》に言った。
坂東和也の両親。——ともかく、第一歩は順調に踏《ふ》み出せそうだ。
いや、そうでもないか。文江は、そっと首に手をやって、思った。
ハチ公の像《ぞう》の周囲は、相変らず人で溢《あふ》れている。
文江が歩いて行くと、室田の方から、見つけてやって来た。
「ここから歩いて十五分ということです。行ってみましょうか」
と室田は言った。
「ええ」
文江は肯《うなず》いた。
「和也君のお父さんは何をしているんですか?」
「坂東は何か仕事をしてるんでしょう」
と、室田は言った。「しかし、夕方なら戻《もど》っていると思いますがね」
「何だか気が重いですわ」
と、文江は言った。
「あなたが責《せき》任《にん》を感じることはありませんよ。——といっても、無《む》理《り》だろうとは思いますがね」
室田の話し方は、淡《たん》々《たん》として、どこかユーモラスですらある。それが、文江には、嬉《うれ》しかった。
坂東のアパートを捜《さが》し出すのに、大分時間がかかってしまった。
「全く、東京は大変ですな、家一《いつ》軒《けん》捜《さが》すのも」
と、室田は息をついた。
「ややこしいですものね。田《でん》村なら、誰《だれ》それの家、といえばすぐ分ったのに」
「ああ、あそこですね。——しかし、そういう小さな村だからこそ、坂東和也は死んでしまったわけですからね」
室田の言う通りだ、と文江は思った。
もちろん、あの村の暖《あたたか》い人《にん》情《じよう》や、肌《はだ》のぬくもりすら感じさせるような近所付合いは、それ自体、都会に長く暮《くら》していると、烈《はげ》しいほどの郷《きよう》愁《しゆう》をかき立てることがあった。
しかし、その人情は、常《つね》に、仲《なか》間《ま》意《い》識《しき》と、その裏《うら》返《がえ》しの排《はい》他《た》的な風土とに裏打ちされている。一度その中で、仲間に背《そむ》いた者は、決して許《ゆる》されることがないのだ……。
和也は仲《なか》間《ま》を殺すという、大きな罪《つみ》を犯《おか》した。いや、実《じつ》際《さい》はどうでも、村の人々はそう思った。
それは村にとって、正《まさ》に死に値《あたい》する大《たい》罪《ざい》だったのだ。——そこでは法よりも、村人の噂《うわさ》や、視《し》線《せん》や、言葉が人を裁《さば》くのである。
今さらのように、文江は坂東和也の父に会うのが怖《こわ》くなった。
本当に、父親に詫《わ》びねばならないのは、しかし、村人たちである。
だが、村人たちの誰《だれ》一人として、和也の死が自《ヽ》分《ヽ》の《ヽ》責《せき》任《にん》だなどとは、感じていないに違《ちが》いない……。
それが本当に恐《おそ》ろしいことなのである。
「——どうしました?」
室田の言葉に、文江はハッと我《われ》に返った。引き返すわけにはいかないのだ。ここまで来た以上は……。
「行きましょう」
文江は自分から足を早めた。
〈坂東〉という表《ひよう》札《さつ》はどこにもなかった。
「確《たし》かこの部《へ》屋《や》ですがね」
と、室田が足を止めたのは、ただ白紙の表札が、ピンで止めてある部屋の前だった。
「字が消えちゃってるんだわ」
よく見ると〈坂〉の字が、かすかに読み取れた。
室田がドアを叩《たた》いた。——三度、くり返したが、返事がなかった。
「留《る》守《す》ですよ」
と、隣《となり》のドアが開いて、中年の女が顔を出した。
「失礼——。どちらへ出かけたか、ご存《ぞん》知《じ》ですか」
と室田が訊《き》く。
「知りませんね」
と、そっけない返事である。
「実は……」
室田が頭をかいて、「ちょっとこちらの坂東さんご夫《ふう》婦《ふ》のことを調べてましてね。興《こう》信《しん》所《じよ》の者なんですが」
「へえ」
と、隣《となり》の主《しゆ》婦《ふ》は、急に好《こう》奇《き》心《しん》をそそられたようだ。
なるほど、巧《うま》い、と文江は思った。これが、
「警《けい》察《さつ》です」
と名乗ったら、向うは口をつぐんでしまったろう。
厄《やつ》介《かい》事《ごと》に巻《ま》き込《こ》まれたくないからだ。しかし、興《こう》信《しん》所《じよ》となれば話は違《ちが》う。
もともと、他人の噂《うわさ》ぐらいしかすることのない主婦らしい。いくらでも話の種はあるだろう。
「そうね、二人とも何だかブラブラしてるわよ」
と、しゃべり始めた。「旦《だん》那《な》の方は、時々出かけるみたい。金を受け取りにね」
「お金を?」
「銀行に行くんじゃないの。たぶん、そうだと思うわ。その度に、あれこれ買物に出てるから」
「暮《くら》しぶりはどうです?」
「悪くないんじゃない。たまに上ることもあるけど、結《けつ》構《こう》小ぎれいにしてるよ。まあ、アパートそのものがボロだから、たかが知れてるけどさ」
「じゃ、特《とく》に働いている様子はないんですね」
「ないね。きっと子《こ》供《ども》からお金でも送って来てるんじゃない?」
「なるほど」
と、室田がもっともらしく肯《うなず》く。「客はありますか」
「めったにないね。——たまに、それでも、同じくらいの年《ねん》齢《れい》のおじさんが来てたけど、それもせいぜい二、三か月に一度じゃないかな」
「この辺の人ですか?」
「全然見たことないね。ちょっと言葉に訛《なまり》があったよ」
文江は、田《でん》村の誰《だれ》かだろうか、と思った。
「このアパートで親しい方はいますか?」
「いないね」
と、即《そく》座《ざ》に返事があった。
「すると、割《わり》に付合いの悪い——」
「割《わり》に、どころか、ひどく悪いよ。結《けつ》構《こう》金はあるとにらんでんだけどね。共同で下水の修《しゆう》理《り》するときだって、金を出さないと言ったりして」
「じゃ、ちょっと偏《へん》屈《くつ》な感じですか」
「かなり、ね」
とその主《しゆ》婦《ふ》は顔をしかめて見せた。
「今日、お出かけになったんですか」
と、室田が訊《き》く。
「でしょう。私《わたし》は奥《おく》さんの方だけしか見てないの。朝の十時頃《ごろ》かな、私が表に出ると、ちょうどドアが開いてね、奥さんが出て来たのさ」
「何か言っていませんでしたか?」
「うん。私の顔を見ると、『ちょっと二人とも留《る》守《す》にしますので、よろしく』って言って行ったよ」
「二人とも、と言ったんですね?」
「そう。あんなこと言われたの初めてだから、ちょっとこっちも面食らっちゃった」
「いつもは黙《だま》って?」
「そうよ。旅行に出たって、おみやげ一つ配るでもないしね」
「今度は旅行のようでしたか?」
「さあ。少し大きめのバッグは持ってたけどね」
「そうですか。どうも……」
室田が礼を言いながら、千円札《さつ》を出して、主《しゆ》婦《ふ》の手に握《にぎ》らせた。
「あら、悪いわね。いいのに……」
と言いながら、さっさとエプロンの中へ突《つ》っ込《こ》む。
「また夜にでも来てみます。それじゃ」
と、室田と文江がアパートを出ようとすると、
「ねえ、ちょっと!」
と、その主婦が呼《よ》び止めた。
「——何か?」
「これはまあ……関係あるかどうか分んないけどさ」
と、その主婦は声を少し低くした。
「何です?」
「ゆうべ、あのご夫《ふう》婦《ふ》、えらい喧《けん》嘩《か》をしてたんだよ」
「夫《ふう》婦《ふ》喧《げん》嘩《か》ですか。よくやるんですか?」
「全然!」
と、主《しゆ》婦《ふ》は首を振《ふ》って、「だからびっくりしたのよ。もうあの人たち、ここへ来て四年ぐらいになるけど、一度だって、喧嘩なんてしなかったわ」
それから、言い訳《わけ》するように、
「ほら、ここは壁が薄《うす》いでしょ、だから、ね——」
「分りますよ。聞く気でなくても耳に入って来る」
「そう! そうなのよ」
文江は、室田が主婦を扱《あつか》う手《て》並《なみ》の鮮《あざ》やかさに、思わず笑《え》みを洩《も》らした。さすが、と言うべきだろう。
「で、ゆうべの喧嘩、どんな具合でした?」
「そうねえ……。きれぎれにしか聞こえなかったけど、何でも子《こ》供《ども》のことだったみたい」
「子供の?」
「『だから、あの子のことを信用しろって言ったでしょう』とか、『あの子がやったとは限《かぎ》らんだろう』とか……」
「なるほど。面《おも》白《しろ》いですな。——二人から、子供の話は聞いたこともおありでしたか?」
「いいえ。大体、そういう、私《し》生《せい》活《かつ》に立ち入った話は絶《ぜつ》対《たい》にしない人たちなのよ。いつも私、主人に言ってたの。あの二人、どこか影《かげ》があるわよ、って」
「なるほど、いい目をしてますな。どうも、助かりました」
室田は、アパートを出ると、「——いや、ああいう奥《おく》さん連中は、正《まさ》に情《じよう》報《ほう》の宝《ほう》庫《こ》ですな」
と笑《わら》った。
「でも、何だか怖《こわ》いわ。ああいう人たちにいつも見られてるのかと思うと」
これはまた、田舎《いなか》とは違《ちが》った、都会でのわずらわしさだ。
ただ、都会ではみんな自分の生活で手《て》一《いつ》杯《ぱい》だから、人のことに口出しまではしない。好《こう》奇《き》心《しん》で耳を尖《とが》らせてはいるが、それはあくまで自分一人の楽しみなのである。
「これからどうします?」
と、文江は訊《き》いた。
「夜になったら、もう一度訪《たず》ねてみます。あなたは——」
「私も行きますわ。じゃ、それまで、私、ちょっと用を済《す》ませてしまいますから」
「分りました。じゃ、夜、八時にあのアパートの前に」
「結《けつ》構《こう》ですわ」
文江は、室田と別れると、草永の会社へ電話を入れた。——なぜか、急に声が聞きたくなったのである。
「何だって?」
草永がスプーンをスープの中へ落とした。「殺されかけた?」
「しっ! レストランよ! そんなにびっくりしないで」
「これでびっくりするなと言われたって……」
草永は、スープからスプーンを取ろうとして、「アチチ!」
と、飛び上った。
「落ち着いてよ。いやねえ」
と、文江は笑《わら》った。
「しかし……どうするんだ、一体?」
「どうってことないわ。一度こうと決めたら、変えないわよ、私」
「君には呆《あき》れたな」
と、草永は首を振《ふ》った。「これから、僕《ぼく》がどうするか分るか?」
「私と別れるの?」
「違《ちが》う」
「じゃ、何?」
「君を山《やま》奥《おく》へ連れて行く」
「どうして?」
「その山小屋へ閉《と》じ込《こ》もって、君と二人で過《すご》すんだ」
「それで?」
「君が妊《にん》娠《しん》して、お腹が大きくなって動けなくなるまで、外へ出さない。それで諦《あきら》めるだろう」
文江は声を上げて笑《わら》った。
「——あなたっていい人だわ。でも、私の気持を変えることはできないわよ」
「やれやれ。君はジャンヌ・ダルクの生れ変りかい?」
「それを言うなら、クレオパトラとか、トロイのヘレンとか、もうちょっと美人にしてちょうだい」
「敵《かな》わないよ、君には」
と、草永は苦《く》笑《しよう》して、「しかし、気を付けてくれよ。まだ死んでほしくない」
「分ったから、早く食べて」
と、文江は腕《うで》時《ど》計《けい》を見た。「八時までに、あのアパートへ行くんだから」
しばらく食事を続けてから、草永は言った。
「その坂東って夫《ふう》婦《ふ》さ、ちょっと妙《みよう》だね」
「そうでしょう?——あんな風に村を出て、一体誰《だれ》が生活費を送ってるのかしら」
「たまに訪ねて来るという年《とし》寄《よ》りも、気になる」
「そう。——単《たん》純《じゆん》に哀《あわ》れな老《ろう》夫《ふう》婦《ふ》とも言えないようね」
「大体、世間はそんなもんだよ」
と草永は、哲《てつ》学《がく》的な表《ひよう》情《じよう》で言った。「しかし、その隣《となり》の人が聞いたっていう夫《ふう》婦《ふ》喧《げん》嘩《か》も面《おも》白《しろ》いじゃないか。その夫婦、君が村へ帰ったことを知ってるんだぜ。誰が知らせたんだろう?」
「そこなのよ。——ねえ、とても反《はん》応《のう》が素《す》早《ばや》いと思わない? 私が帰って、まだ二日しかたっていないのに、誰かが私を殺そうとして、あの夫婦にも連《れん》絡《らく》を取ったのよ」
「しかも、君が村にいるときならともかく、東京へ戻《もど》って来てからだ」
「謎《なぞ》ね。——村の中に、私のことが広まるのは、アッという間だったに違《ちが》いないけど、その後は……」
「その後は——誰《だれ》かが東京へ出て来てるのかもしれないな」
「誰が?」
「そりゃ分らないさ。しかし、なぜそれを室田って刑《けい》事《じ》に言わないんだ?」
「何だか、言いにくかったのよ。自分の中に、それを止めるものが何かあって……」
文江は首を振《ふ》った。「うまく説明できないけど」
「分るよ、君の気持は」
と、草永は言った。「さあ、早く食事を終えて出よう。八時に遅《おく》れるぜ」
「あなたも行くの?」
「当り前さ」
と草永は言った。「君を他の男と二人にしてたまるかい」
八時五分前に、アパートの前に着くと、ほとんどすぐに室田がやって来た。
「やあ、失礼。また迷《まよ》っちゃいましてね」
と照れくさそうに言った。「じゃ、早《さつ》速《そく》——」
「今、外から見ましたけど、部《へ》屋《や》に明りは点《つ》いてないみたいですわ」
「まだ帰っていないのか」
室田はちょっと眉《まゆ》を寄《よ》せた。
「入ってみちゃどうです?」
草永の言葉に、
「そんな無《む》茶《ちや》な——」
と、文江は言いかけたが、意外なことに、室田が、
「そうですね」
と、すぐに肯《うなず》いたのである。
「でも——」
「いや、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。責《せき》任《にん》は私が持ちます」
と、室田は言った。「坂東の妻《つま》の方だけが一人で出かけたというのが、どうも気になるんですよ」
室田は本当に不安そうな表《ひよう》情《じよう》をしていた。急に、文江も不安になって来た。
「こんなドア、すぐに開くでしょう」
と、草永が言った。「手伝いましょうか」
「いや、あなたは手を出さないで下さい。後で面《めん》倒《どう》なことになると困《こま》ります。私一人で何とか——」
と、室田はドアのノブをつかんで、ガチャガチャと揺《ゆ》さぶった。
必死でやっているのは分るのだが、いかにオンボロなドアでも、意地というものがあるらしく(?)頑《がん》として抵《てい》抗《こう》している。
「やれやれ……」
室田は顔を真赤にして息をついた。
「手伝いますよ」
「そうですなあ」
室田はちょっと考え込《こ》んでいたが、やがて手を打って、「——そうだ! それじゃ、草永さん、私の体を引っ張って下さい。それならドアに触《ふ》れないから大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ」
「うるさいんですねえ」
「法というものは、そんなものですよ」
と、室田は真《ま》面《じ》目《め》くさった顔で言った。
せーの、とかけ声こそ出さなかったが、ドアのノブをつかんだ室田を、後ろから抱《だ》きつくように草永が引《ひつ》張《ぱ》るという、あまりはた目には美学的といえない光景は、しかし、長く続ける必要はなかった。
さすがに草永も若《わか》いだけに力がある。バリッと音がして、ドアの鍵《かぎ》は一度で壊《こわ》れてしまった。
「——やれ、助かった。じゃ、お二人は外にいて下さい。中へ入ると、やはり家《か》宅《たく》侵《しん》入《にゆう》に——」
と室田が律《りち》儀《ぎ》に言いかけると、
「誰《だれ》か倒《たお》れてる!」
と、中を覗《のぞ》き込《こ》んだ文江が声を上げた。
「これは……」
中へ入って、室田が明りを点《つ》ける。「——草永さん、すみませんが、一一〇番に知らせてくれませんか」
「分りました。じゃ隣《となり》の家で」
草永が飛び出して行く。
文江はゴクリとツバを飲み込んだ。——殺されかけたことはあっても、殺された人間を見るのは初めてである。
「どうやら坂東らしい」
と、室田が上って言った。
「奥《おく》さんの方は——」
「いないようですね。捜《さが》してみましょう」
さすがに室田は落ち着いている(当然のことだが)。文江も恐《おそ》る恐る上り込《こ》んで、倒《たお》れている老人の方へかがみ込んだ。
確《たし》かに坂東和也の父親だ、と信じるのに多少時間がかかった。
一つには、七年前とは別人のように老《ふ》け込んでいるからであり、もう一つは、首に細い紐《ひも》が深々と食い込んでいて、カッと目を見開き、口がポッカリと、まるで大きな穴《あな》のように開いて、苦《く》悶《もん》の表《ひよう》情《じよう》で、顔を歪《ゆが》めていたからでもある。
「——奥さんの方はいませんな」
と、室田は戻《もど》って来て言った。「どうです? 顔には見《み》憶《おぼ》えは?」
「ええ……。あります。でもこんなに……」
と言ったきり、胸《むね》がむかついて来て、文江は部屋を飛び出してしまった。