金子駅長が死んだ。
文江には、正《まさ》に予想もできないことであった。
「金子さんが……。でも、ゆうべ火事のときに、会ったわよ」
「ええ、私《わたし》ももちろん、あそこで会って話もしましたがね」
「でもなぜ——」
「どうやら睡《すい》眠《みん》薬《やく》の服《の》み過《す》ぎだったらしいんですわ」
と白木巡《じゆん》査《さ》は言った。
「すると自殺ですか?」
と草永が訊《き》いた。
「さあ、それは……。何しろ、ついさっき、奥《おく》さんから届《とど》け出があったばかりでして。じゃ、急ぎますので——」
白木は、自転車にまたがって、文江の家の方へ向けて急いで行った。
「君の所へ行くのかな」
「そう。母に話しに行くんでしょ。何しろ、村の主《ぬし》みたいなものですからね」
「へえ、大したもんだな。——じゃ、どうする?」
「そうねえ。せっかく出て来たんだし、ともかく、火事の現《げん》場《ば》まで行ってみない?」
「そうするか」
二人は、また歩き出した。
「ところで、君のお母さんは別に村長さんってわけじゃないんだろ?」
「もちろんよ」
と、文江は笑《わら》った。「でも、新しく村長さんが決ると、必ず母のところへ、いかがでしょうか、っておうかがいをたてに来るのよ」
「へえ! 大したもんだなあ」
と、草永は目を丸《まる》くした。「拒《きよ》否《ひ》権《けん》があるのかい?」
「そんなんじゃないのよ。ただの習《しゆう》慣《かん》ね。別に、こんな人じゃだめ、なんて言ったことないんだもの」
二人は、坂東の、閉《し》め切った家の前を通りかかった。杉山百代が、玄《げん》関《かん》の前をはいている。
「おはよう!」
と、文江が声をかけると、
「お揃《そろ》いで散歩?」
と百代が冷やかす。
「そんなところ。——働き者になったじゃない、ずいぶん」
「昔《むかし》からよ」
百代は笑《わら》って、言った。それから、少し声を低くして、
「ね、さっき白木さんが、えらい勢いで吹《ふ》っ飛んでったけど、会った?」
と訊《き》く。
「うん。——金子さんが亡《な》くなったんですって」
百代は、一《いつ》瞬《しゆん》ポカンとしていた。
「——駅長さんが?」
「そうらしいわ。私も今聞いてびっくりしたのよ」
百代は胸《むね》に手を当てて、目をつぶった。必死で息を鎮《しず》めているという格《かつ》好《こう》である。
「どうしたの?」
と、文江が訊《き》く。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。——ただ、びっくりして。文江ったら、少し予告ぐらいしてよ。『大変なことがあったのよ』とか。みんながみんな、文江ぐらい度《ど》胸《きよう》があるとは限《かぎ》らないんだから」
文江は、チラッと草永の方を見た。——私ってそうなのかしら? 少し感《かん》受《じゆ》性《せい》が鈍《にぶ》くなってるのだろうか。
もっとも、都会の中で、一人の力で生き抜《ぬ》いて来るには、このあたりで暮《くら》すより、男《おとこ》勝《まさ》りの度《ど》胸《きよう》を必要とするのは事実である。
「ごめんね、百代」
「いいの。——ただ、金子さんは、私たちの結《けつ》婚《こん》のときの媒《ばい》酌《しやく》人《にん》だったし……」
「そうだったの。知らなかったわ」
「どうして亡《な》くなったの? まさか——その——」
百代は、「殺されたの?」という問いを言外に含《ふく》ませて、文江を見つめた。
「睡《すい》眠《みん》薬《やく》の飲みすぎですって。まだ詳《くわ》しい事《じ》情《じよう》は分ってないのよ」
「そう。でもともかく——急いでお悔《くや》みを言いに行かなくちゃ」
「それは少し落ち着いてからの方がいいよ」
と、草永が言った。「何しろまだ届《とど》けがあったばかりだっていうから」
「そうね。その方がいいわ」
と文江も肯《うなず》いた。「どうせ村の人たちも、みんな行くでしょうからね」
「分ったわ。でも一《いち》応《おう》、いつでも行けるように仕《し》度《たく》しておかなきゃ。主人にも知らせて、戻《もど》って来てもらうわ。じゃ、文江、また後でね」
百代は、そそくさと家の中へ姿《すがた》を消した。
「——村の様子はどうかしら」
と、文江は言った。「きっともう知れ渡《わた》っているわよ」
「行ってみよう」
草永は、文江の肩《かた》を軽く抱《だ》いて、言った。
村は、異《い》様《よう》なほど、静かだった。
人っ子一人、道に出ていない。まるで真夜中のように、戸が閉《と》じられ、カーテンが引かれたままだった。
「——ゴーストタウンね、まるで」
と文江は歩きながら言った。
「いつもこんなに、朝は遅《おそ》いのかい?」
「いいえ。——ずいぶん早くから開くのよ、どの店も。みんな中に閉《と》じこもってるんだわ」
眠《ねむ》っているわけではないのだ。気を付けて見ていると、時々、カーテンが少し動いて、誰《だれ》かの目がチラリと覗《のぞ》いている。
「——何だかいやなムード」
「よくこういうの、西《せい》部《ぶ》劇《げき》にあるぜ。よそ者が来ると、みんながそっと窓《まど》から覗いていて、突《とつ》然《ぜん》、撃《う》ち合いが始まる——」
「冗《じよう》談《だん》じゃないわよ」
と文江はため息をついた。
幸い、鉄《てつ》砲《ぽう》の弾《たま》は飛んで来なかった。
駅の前までやって来ると、庄司鉄男が、ホームにぼんやりと立っているのが目に入った。
「鉄男君」
と、文江が呼《よ》ぶと、
「わっ!」
と、鉄男が飛び上りそうになる。「あ——何だ、お嬢《じよう》さんですか」
「何をそうびっくりしてるの?」
「いや——別に」
と、口ごもって、「一人だから、何だか……何かあったらどうしようって、わけ分んなくて……」
「あ、そうか。駅長さん、大変だったわねえ」
「ええ……」
鉄男は、何だかいやにソワソワして、落ち着きがなかった。
もちろん、駅長が急死して、見習の身で一人になってしまったのだから、心細いには違《ちが》いあるまいが、当然、よそから応《おう》援《えん》もやって来るのだろうし、そう不安がるほどのこともないはずであった。
「——火事の方はどうなった?」
と、文江はホームへ入りながら、訊《き》いた。
もちろん、入《にゆう》場《じよう》券《けん》はいらないのである。
「え?」
と鉄男はキョトンとしている。
「昨夜の火事よ」
「ええ。——消えました」
「そりゃ分ってるけど。今は誰《だれ》がいるの?」
「さあ。——さっきは県《けん》警《けい》の人が来てたみたいですよ。でももういないんじゃないかなあ……」
「ありがとう。行ってみるわ」
文江は、身軽にヒラリと線路に飛び降《お》りた。
「行きましょう」
「よし!——君もやっぱり都会っ子じゃないね。その身軽さは」
草永が、よっこらしょ、という感じで降りて来る。
「線路に降りちゃいけないんだろ」
「めったに列車、来ないもの。——あっちよ」
と、文江は歩き出した。線路わきの土手を下りると、腰《こし》ほどもある草が生《お》い茂《しげ》っていて、その向うが少し小高い丘《おか》になっている。その丘の真中辺りに、ちょっとした建《たて》売《うり》住宅くらいの大きさの、木《もく》造《ぞう》の小屋がある。
いや、あった、と言うべきか。
今は、ほぼ右半分が焼け落ちて失《な》くなっており、焼け残った部分も、真黒く焦《こ》げてしまっていた。
昨日焼けたばかりだというのに、何だか、ずっと昔《むかし》の焼け跡《あと》みたいだった。もともとが古ぼけていたからだろう。
縄《なわ》は一《いち》応《おう》張《は》りめぐらしてあるが、別に警《けい》官《かん》の姿《すがた》は見えない。
「呑《のん》気《き》なもんだな田舎《いなか》の警察は」
と草永が微《び》笑《しよう》した。
「人手がないのよ」
「あの駅員、知ってるのかい?」
「庄司鉄男っていって、まだ十八よ。だから、私がここを出たときは十一だったのね。どうも子《こ》供《ども》のイメージしかなくって」
「何か知ってるんじゃないかな」
文江は草永を見た。
「どういうこと?」
「いや、心ここにあらずって顔だったぜ。何かを知っていて、話そうか話すまいか、迷《まよ》ってるんだ、きっと」
「そうね。——実は私もそんな印《いん》象《しよう》を受けたの」
「気が合うね。さて、中へ入ってみようか」
「だめよ、ロープが張《は》ってあるじゃないの」
「そうかい?」
と、草永はヒョイとロープをまたいで、「気が付かなかったよ」
と言った。
文江も笑《わら》って、ロープをまたいだ。
「——ここは何が入ってたんだい?」
「分らないわ。確《たし》か駅の付《ふ》属《ぞく》の倉庫なのよ。だからきっと道具類とか、そういうものが……」
「中に入ったことはある?」
「そうね……。たぶん、小さい頃《ころ》にはね。でも、はっきりした記《き》憶《おく》はないわ」
「しかし……見ろよ」
と、草永は言った。「燃《も》え残ってるものはガラクタばっかりだぜ」
本当にそうだった。古いベンチ、椅《い》子《す》、机《つくえ》、スコップ、シャベルの類、それに古い布《ふ》団《とん》まである。
「あんまり中へ入らない方がいいんじゃない?」
「うん。後で調《ちよう》査《さ》があるだろうからね」
二人は、残った半分の方へと二、三歩入った所で、足を止めた。
さすがに、少し鼻をつくような匂《にお》いが立ち上って来る。
「放火かしら?」
「こんな所、火の気はなさそうだものな」
「でもなぜ……」
「さっき言ったように、ここへ村の人たちの注意をひきつけるためか、でなければ——」
と草永は中を見回して、「ここに、焼いてしまいたい何《ヽ》か《ヽ》があったのか、だな」
「何か……。でも、こんな所に何を置いておくかしら?」
「正《まさ》に、こんな所、だからさ。——誰《だれ》もこんなガラクタ置場に大切な物があるとは思わないだろうからね」
「鍵《かぎ》はかかってたはずよ」
「誰《だれ》が開けられたんだろう?」
「たぶん……駅長さんだわ」
文江と草永は顔を見合わせた。
「当然、その辺は警《けい》察《さつ》も調べるだろうけど」
と草永は言った。
メリメリ、と、どこかで音がした。
「——あれ、何の音?」
「さあ。板が折《お》れるような……」
と言いかけて、草永は、バラバラと、木《もく》片《へん》が降《ふ》って来るのに気付いた。
二人は、焼け残った屋根の端《はし》の方の真下に立っていた。ギーッという、きしむ音とともに、屋根が落ちて来た。
「危《あぶな》い!」
草永は、文江を抱《だ》きかかえるようにして、逃《のが》れた。燃《も》えて落ちた木材に足を取られて、二人は、濡《ぬ》れた灰《はい》の中へ転《てん》倒《とう》した。
しかし、崩《くず》れ落ちて来た屋根の下《した》敷《じき》にはならずに済《す》んだ。叩《たた》きつけるような音の後に、もうもうと灰《はい》が舞《ま》い上った。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》……かい?」
草永は、むせ返りながら言った。
「ええ。——ああ、びっくりした」
文江も灰を吸《す》って咳《せき》込《こ》んだ。
「けがはない?」
「何とか無《ぶ》事《じ》みたい。——ああ、ひどいわ、真っ黒」
灰やす《ヽ》す《ヽ》が水で溶《と》ければ、正《まさ》に黒いペンキみたいなものである。その中へまともに転り込《こ》んだのだから、ひどいことになる。
顔まで黒い汁《しる》が飛んで、文江は泣《な》きたくなって来た。
「しかし、あの下敷きになることを思えば、まだしもだよ。——さあ、立って」
文江は、草永の手につかまって、立ち上った。
「危《あぶな》かったわね」
「全くだ。しかし、あの音は、自然に折《お》れる音にしては、ちょっと変だったな」
「どういうこと?」
「つまりもしかしたら、誰《だれ》かが——」
と、草永が言いかけたとき、
「見て!」
と、文江は草永の腕《うで》をつかんだ。
男が三人、ロープをまたいで、入って来た。
どの男も、ジャンパーにジーパンというスタイルで、若《わか》いようだった。ようだったというのは、みんな、お面《めん》をつけていたからである。
よく縁《えん》日《にち》で売っているような、ヒョットコ、オカメの面である。それが却《かえ》って無《ぶ》気《き》味《み》に見えた。
手に手に、バットや棒《ぼう》をつかんでいる。
「何だ、君たちは」
と、草永が言った。
「村を出て行け!」
と、面の下から、くぐもった声がした。
「お前らのおかげで、人が死んだんだ!」
「そうだ! とっとと出て行かねえと、叩《たた》き出してやる!」
村の青年たちらしい、と文江は思った。
「あの屋根を落としたのも君たちだな」
「ああ」
「下手《へた》すれば、殺人未《み》遂《すい》だぞ」
「構《かま》うこっちゃねえ。村のためだ」
「そうだ!」
三人の男たちが、一歩進んで来る。文江は後ずさりしたいのを、ぐっとこらえた。
「いい加《か》減《げん》にしなさい!」
文江の声が空気をビリビリと震《ふる》わせるように響《ひび》き渡《わた》って、三人はギョッとしたように身構えた。
文江は、ゆっくりと三人を見回して、
「私は常石文江よ。常石家の娘《むすめ》に乱《らん》暴《ぼう》しようというのね?」
「関係ねえ!」
「そう。じゃ、あなた方のお父《とう》さんにでも、私《わたし》を殴《なぐ》り殺して来たと自《じ》慢《まん》してごらんなさい。あなた方が殴りつけられるでしょうよ」
文江は、きっと三人を見《み》据《す》えた。「やれるもんならやってごらん!」
三人は、明らかにひるんでいた。文江がぐいと前に出ると、あわてて後ずさりする。
「こ、怖《こわ》かねえぞ! こんな小《こ》娘《むすめ》、裸《はだか》にむいてやりゃ、泣《な》いてわめき出すに決ってらあ!」
「そう思うならやってごらんなさい」
文江は、抑《おさ》えつけるような声で言った。「あんたたちの指一本は、かみ切ってみせるからね」
文江は、常石家の娘に戻《もど》っていた。そこには、一種近《ちか》寄《よ》りがたい、威《い》厳《げん》のようなものがあって、見えない壁《かべ》を、男たちの前に立てているようだった。
「——畜《ちく》生《しよう》、今に見てやがれ!」
一人が叫《さけ》んで駆《か》け出すと、後の二人も、あわてて走り去って行った。
——文江は、体中で息を吐《は》き出した。
「驚《おどろ》いたな」
草永はホッと息をついて、「君が急に倍も大きくなったように見えたぜ」
「やめてよ」
文江はムッとしたように顔をしかめて、「もう常石家とは縁《えん》を切ったつもりでいたのに……」
と呟《つぶや》くように言った。
「母には内《ない》緒《しよ》よ。きっと見たら喜ぶでしょうからね」
バタバタと足音がした。
「お嬢《じよう》さん! どうかしたんですか?」
庄司鉄男である。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。ちょっと転んだだけよ」
「でも凄《すご》い音がして……。屋根が落ちたんですね!」
「そうなの。——駅の方はいいの?」
「ええ。今、一本行ったところです。すぐに駆《か》けつけたかったんだけど、ちょうど列車が来て、離《はな》れられなくて」
「いいのよ。心配してくれてありがとう」
「けがはありませんか? 何なら俺《おれ》んとこで顔でも洗《あら》ったら……」
「そうね。でも、駅はいいの?」
「一時間しないと次の列車、来ないですからね」
「鉄男君の家はその線路のわきだったわね」
「ええ、ボロ家ですけど、お袋《ふくろ》はまだ元気にしてますから」
「じゃ、ちょっと寄《よ》らせていただこうかしら。家まで帰るにも、この格《かつ》好《こう》じゃね」
と文江は言った。
鉄男が先に立って、線路沿《ぞ》いの道を走って行く。——少しポツンと離《はな》れて、小さな古びた家が建っていた。
「父親はいないのかい?」
と、歩きながら、草永は訊《き》いた。
「しっ。鉄男君のお母さんはね、いわば未《み》婚《こん》の母なのよ」
「へえ」
「かなり村の人からは冷たく見られていたけど、ついに父親が誰《だれ》なのか、言わなかったの。今じゃ、ごく普《ふ》通《つう》に村の人とも付き合っているけど、やっぱり家は外れにあるでしょ」
「うん。——厳《きび》しいもんだね」
「でも、鉄男君はいい子でね、ひねくれてもいないし。さ、あなたも顔を洗《あら》ったら?」
「そうするか」
二人は、小さな家の玄《げん》関《かん》を、くぐるようにして入った。実《じつ》際《さい》は四十代なのだろうが、もう五十過《す》ぎに見える母親が出て来て、
「まあ、常石様のお嬢《じよう》様《さま》!」
と、頭を下げる。「お帰りと聞いて、喜んでおりました」
「お久しぶりね、おばさん。鉄男君も、すっかり大人《おとな》になって」
「いいえ、まだヒヨッ子で。——そちらの方は?」
「私の婚《こん》約《やく》者《しや》なの。草永さん。——悪いけど火事場を見物していて、転んじゃったの。ちょっと手と顔を洗《あら》わせてくれる?」
「どうぞどうぞ。——お風《ふ》呂《ろ》へ入られては? すぐに沸《わ》きますので。何しろ小さい湯《ゆ》舟《ぶね》ですから」
「あら、でもそんなことまで——」
「構《かま》いませんですよ。さあ、早くお上りになって。汚《よご》れたっていいです、どうせ古い畳《たたみ》ですから。——ともかく、そのコートを——。今、お湯をくんできますから——」
あわただしく動き回る、鉄男の母を見ていた草永は、そっと文江に言った。
「やっぱり君は、常石家のお嬢《じよう》さんなんだよ」