文江と草永は、言われるままに、風《ふ》呂《ろ》をつかって、さっぱりして上った。
もちろん別々に入ったのである。一《いつ》緒《しよ》に入ろうにも、風呂場が狭《せま》くてとても無《む》理《り》であったが。
「——さあ、熱いお茶でも、どうぞ」
「ありがとう。助かったわ」
文江はお茶をすすって、「鉄男君は?」
「今、列車が来るからと言って出て行きました。また戻《もど》って来るでしょ」
「いいわねえ、のんびりしていて」
と、文江は言った。「それはそうと、金子さんはお気の毒だったわね」
「ええ。——色々と私にも親切にしていただいてましたけど。今夜、お通《つ》夜《や》とか、さっき知らせがありました」
「そう。——話は聞いた?」
「薬ののみ過《す》ぎとか」
「そうらしいわね。でも、金子さん、どうして睡《すい》眠《みん》薬《やく》なんか……」
「それは——」
と、鉄男の母は少し声を低くして、「まだみんな知らないことなんですけど」
と言い出した。
「なあに?」
「金子さんは、体を悪くしておられたんですよ」
「体を?」
「ええ。もう一年ももたないかもしれないって……」
「まあ」
文江は目を見《み》張《は》った。「それじゃ、そのせいで薬を?」
「痛《いた》み止めだったんじゃないでしょうか。眠《ねむ》れないくらい痛むことがあったらしいですわ」
文江の、想《そう》像《ぞう》もしていない話だった。
「その話を、どこから聞いて来たんですか?」
と、草永が訊《き》いた。
「金子さん、ご本人からです」
「本人が言ったんですか」
「——駅長さんは、よくここへ息《いき》抜《ぬ》きにみえてましたね。村の方へ行って休《きゆう》憩《けい》するわけにもいきませんでしょう。ここなら、村の人の目にもつかないし」
「そうね。で、そのときに話を?」
「はい。ほんの……一か月くらい前でしたかね」
文江は肯《うなず》いた。
鉄男の母に金子がそんなことまで打ちあけたというのは、ちょっと奇《き》妙《みよう》な感じがするかもしれないが、文江にはよく分る。
鉄男の母は、他の村人たちと違って、噂《うわさ》話《ばなし》の輪に加わって、ペチャクチャとおしゃべりをするようなことがないのである。
自分自身が、そういう中《ちゆう》傷《しよう》の的になっていた経《けい》験《けん》があるからだろうが、実《じつ》際《さい》、公江も、いつか、
「村で一番秘《ひ》密《みつ》の守れる人といったら、庄司さんだよ」
と言っていたことがある。
だから、村の奥《おく》さんたちも、人に知られて都合の悪いような相談を、ときどき、こっそりとここへ持ち込《こ》んでいるらしかった。
たとえば、夫が留《る》守《す》の間に、子《こ》供《ども》ができてしまった奥《おく》さんが、医者へ行く間、ここにいたことにしてくれ、とアリバイ作りを頼《たの》みに来る、ということもあったらしい。
鉄男の母から見れば、ずいぶん勝手な話だと腹《はら》が立ちそうなものだが、そこは快《こころよ》く引き受けて、その積み重ねで、自然、村の人たちも、彼女《かのじよ》を受け容《い》れざるを得《え》ないようになって行ったのだった。
だから、駅に近いこの家に、金子が来ていたとしても、不思議はない。
「じゃあ、自殺したという可《か》能《のう》性《せい》もあるわけね」
と、文江は言った。
「さて……それはどうでしょうか。責《せき》任《にん》感《かん》はとても強い方でしたけど」
すると事《じ》故《こ》か。——それとも殺《ヽ》人《ヽ》か、だが……。
「——やあ、さっぱりしましたか」
と、鉄男が入って来る。
「お前、さぼってばかりいちゃ、すぐにクビになるよ」
「平気さ。手伝いの人は明日来るって、今電話があったんだ」
鉄男は帽《ぼう》子《し》を取って、座《すわ》り込《こ》んだ。「何か甘《あま》いもんないか?」
「お前はもう……。いいとしして、大《だい》福《ふく》とかマンジュウばかり食っとるんですよ」
「いいじゃないか。そう太っとらんし」
「当り前だよ。そのとしで太ったらどうするんだね。——さ、おせんべいでもかじってなさい」
鉄男は渋《しぶ》々《しぶ》と、アラレをつまんだ。
「——お嬢《じよう》さん、七年前のことを調べに帰って来たって、本当ですか?」
「そんなこと、誰《だれ》が?」
「村の若《わか》いのが、みんなそう言ってましたけど——」
「お面《めん》をかぶって?」
「え? 何です?」
「ううん、こっちの話。——私《わたし》もね、多少責《せき》任《にん》を感じてるのよ。坂東和也君があんなことになって……」
「お嬢《じよう》様《さま》のせいではございませんよ」
と、鉄男の母は言った。「人間の力ではどうにもならないことというのがございますからね」
「そう言われると余《よ》計《けい》に辛《つら》いわ」
と、文江は言った。「それに、私が戻《もど》って来たせいで、こんな騒《さわ》ぎをひき起こしてしまって」
「この世で起きたことは、この世で清算しなくてはならないんでございますから、仕方ありませんですよ」
「母さんのお得《とく》意《い》が始まった」
と、鉄男が笑《わら》った。
「こら! 人をからかってるヒマがあったら、仕事をしておいで!」
「へーい。おおこわ」
と首をすぼめる。
「ここは線路に近いし、駅の方も見通せますね」
と、草永は言った。「ゆうべの火事騒《さわ》ぎのとき、何か気が付いたことはありませんか?」
「私はぐっすり眠《ねむ》っちまうものですからね。——鉄男、お前は、何か聞いたかい?」
「いやぁ……別に……」
と、鉄男が、曖《あい》昧《まい》な返事をすると、
「隠《かく》してることがあるね。言ってごらん」
と母親が、逆《さか》らい難《がた》い威《い》厳《げん》を持って、言った。
「そうだな……。でも、俺《おれ》もはっきり分らねえんだよ」
「ともかく聞かせてくれないか」
「はあ。——ゆうべ、母さんが寝《ね》ちまってから、俺、ちょっと出かけたんだ。その——散歩したくなって」
「バーに行ったんだろ」
と母親がにらんで、「隣《となり》の町のバーに年中行ってるんですよ、十八のくせに」
鉄男は咳《せき》払《ばら》いして、
「で、まあ……十時頃《ごろ》だったかな、家を出て、でも向うの店が一《いつ》杯《ぱい》でさ。何だか、どこかの宴《えん》会《かい》の流れたのが、ドッと来てたもんで、ちっとも面《おも》白《しろ》くないんだ」
「そりゃそうね」
「で、面白くねえから、帰って来たんですよ。こっちへ着いたのは——十時四十分か、そんなもんだと思うけど」
「ずいぶん細かく憶《おぼ》えてるんだね」
と、草永が言った。
「ええ。うちのお袋《ふくろ》、十一時半には必ず手《て》洗《あら》いに起きて来るんで、その前に着いてないとまずいでしょ。だから、時計をちゃんと見てるんです」
「そんなこと、どうだっていいよ」
と、母親が苦《にが》笑《わら》いする。
「で、隣《となり》の町からの道は、ずっと線路沿《ぞ》いなんです。明りも何もないけど、慣《な》れてるから平気なもんで……。それで、駅が見える辺りまで歩いて来ると、誰《だれ》かが、ホームを歩いてるのが見えたんです」
「誰《だれ》だったの?」
「それは遠くて。——それにぼんやり、影《かげ》になって見えただけなんですよ」
「それから、どうした?」
「ちょっと気になりましてね。誰かな、と思って……」
その人《ひと》影《かげ》は、ホームを、行きつ戻《もど》りつしているようだった。
鉄男は、足を止めて、線路ぎわの茂《しげ》みに、腰《こし》をかがめて、様子をうかがっていた。
田舎《いなか》の夜は、暗く、そして静かである。虫の声が、どこからともなく、聞こえていた。
あまり近付くと、身を隠《かく》すところがない。鉄男は、じっと暗がりの中へ、目をこらしたが、その人影が誰《だれ》なのか、分らなかった。
ただ、体つきや、足が二本、ちゃんと分れて見えたので、男らしいということぐらいは分った。
大女がズボンをはいてりゃ、同じようなものかもしれなかったが、彼《かれ》としては、そこまで考えてはみなかった。
その男は——一《いち》応《おう》、男として——かなり苛《いら》立《だ》っているように見えた。
何度も腕《うで》時《ど》計《けい》を見ていたし、足で、何度もホームをけとばしたりしている。
そうして、十分近くも見ていただろうか? 村の方から、一つの灯《ひ》が近づいて来たのである。——小さなライト。音がしない。
自転車である。
その小さな光は、駅前で停《とま》ると、消えた。白っぽい影《かげ》が、駅の中へ入って行った。
女だった。白っぽいスカートが、急いでいたせいか、フワリと広がったので、よく分った。
二人が、ホームの上で何か低い声で話をしていた。もちろん、鉄男には聞き取れない。誰の声かも分らなかった。
二人は、ホームから線路に降《お》りた。
まず男の方が降りて、女を抱《だ》きかかえるようにして降ろした。
二つの影は、線路の反対側へと渡《わた》って、土手から降りて見えなくなった。
鉄男は、どうしようかと迷《まよ》っていた。
さっさと帰って寝《ね》ちまえ、というのが、正《せい》論《ろん》だったが、しかし、駅員として、怪《あや》しげな人物が勝手にホームへ入りこんだりするのを、放っておいていいのか、とも思った。
正直に言うと、あの二人が逢《あい》引《び》きに来たのは間《ま》違《ちが》いないと思ったので、ちょっと覗《のぞ》いてやろうか、と思ったのである。
——迷《まよ》ったのは、実《じつ》際《さい》にはほんの十秒ほどで、鉄男は茂《しげ》みから出ると、土手を上って、線路を横切り、あの二人の後を追った。
どこへ行ったのか、大体の見当はついている。——あの古びた倉庫である。
お年《とし》寄《より》たちは知らなかったが、あの倉庫は、今や恋《こい》人《びと》たちの秘《ひ》密《みつ》の場所の一つになっていたのである。
もちろん、高級ホテル並《なみ》とはいかなかったが、中へ入ると、古い布《ふ》団《とん》もあり、それに人家が近くにないから、見付かる心配はまずない。
それに、何といってもタダであった。
鉄男は、線路を渡《わた》って、反対側の土手を降《お》りた。そのときに、倉庫の方へ向って丘《おか》を上って行く白っぽい姿《すがた》を、チラリと目にした。
だが、鉄男の方も、足下に気を付けて歩かなくてはならないので、ずっとその方を見ているわけにはいかない。
ともあれ、行先は分っているのである。あわてることはない。
却《かえ》って、急いで覗《のぞ》くと、向うがまだ仕《ヽ》度《ヽ》中《ヽ》で、気付かれることもある。
一《いつ》旦《たん》夢《む》中《ちゆう》になってしまえば、まずそんなことはないのだ。ゆっくり行った方がいい……。
鉄男はのんびりと茂《しげ》みをかき分けて行くと、足音が聞こえないように、丘《おか》の、少し離《はな》れたところを、辿《たど》って行った。
倉庫は、何の変りもないように立っている。
扉《とびら》には、鍵《かぎ》がかかっているのだが、これが古くなっていて、強く叩《たた》くと簡《かん》単《たん》に外れるのである。
だが、そばへ来て、鉄男は戸《と》惑《まど》った。——鍵が、かかったままなのである。
どうなってるんだ?
鉄男は倉庫の裏《うら》側《がわ》へと回った。ここに、ちょうど覗《のぞ》くのに格《かつ》好《こう》の割《わ》れ目がある。
鉄男は、そこへ目を当ててみた。——中はもちろん暗いが、古くなって、方々の板が少しずつ裂《さ》けているので、光が洩《も》れ入ると、中がぼんやり見えて来るのである。
しばらく目をこらしていると、中の様子が目に入って来た。——何だかおかしかった。
あの二人の姿《すがた》はない。それだけでなく、色々積み上げてあったガラクタが、見えないのだ。
もちろん、そこから見えるのは、倉庫の中のごく一部だが、それにしても、前に見たときは、床《ゆか》一《いつ》杯《ぱい》に、ほとんどガラクタが転がっていたものである。
それが今は、きれいに片《かた》付《づ》けられている。——一体誰《だれ》がそんなことをしたのか?
二人で寝《ね》るために布《ふ》団《とん》を敷《し》くにしても、これはちょっとおかしい。あんなに広く開けなくたって充《じゆう》分《ぶん》場所はある。
それに、あの二人はどこへ行ったのだろう?
ちょっと薄《うす》気《き》味《み》が悪くなって、鉄男は、覗《のぞ》いていた割《わ》れ目から目を離《はな》した。
周囲を見回す。——どこかから、見られているような、そんな気がしたのである。
鉄男は、あわてて、倉庫のわきを回って、丘《おか》を駆《か》け降《お》りた。
茂《しげ》みを抜《ぬ》け、土手を上って、線路を越《こ》える。ホーム、改《かい》札《さつ》口《ぐち》を抜《ぬ》け、やっと足を止めた。息を弾《はず》ませて、家へと向う。
玄《げん》関《かん》の戸を開けようとしたとき、何となく、振《ふ》り向いてみた。
目を見《み》張《は》った。——あの倉庫が、赤く炎《ほのお》を上げて燃《も》え始めていたのだ。
「じゃ、半《はん》鐘《しよう》を鳴らしたのは、あなた?」
「ええ、俺《おれ》です」
と、鉄男は言った。
「全く、お前はそんな恥《は》ずかしい真《ま》似《ね》をしてたのかい!」
母親ににらまれて、鉄男は小さくなっている。
「まあ、お母さん、若《わか》い人なら当然のことですよ」
と、草永が取りなすように言った。
「鉄男君の話で、あの扉《とびら》の鍵《かぎ》が簡《かん》単《たん》に開けられるものだってことが分ったわね。それはみんな知ってるの?」
「若《わか》い者なら、たいていは」
と肯《うなず》いて、「隣《となり》の町からも来るぐらいですから」
「出《しゆつ》張《ちよう》か。ご苦《く》労《ろう》だな」
と、草永は笑《わら》った。
「そして、中がき《ヽ》れ《ヽ》い《ヽ》に《ヽ》なってたのね。それはどういう意味なのかしら?」
「分らないな。そのときは誰《だれ》も中に入っていなかったんだとすると……」
「ねえ、鉄男君」
と、文江が言った。「今の話、警《けい》察《さつ》の人には?」
「まだ何も訊《き》かれてないんで」
「でも、話した方がいいわ」
「ええ……」
と鉄男は頭をかいている。
いざ、相手が警察となると、やはり気が重いのだろう。
そのとき、
「失礼——」
と玄《げん》関《かん》の戸がガラガラと開いた。「県警の者ですが」
「あら、室田さん」
文江を見て、室田は目を見《み》張《は》った。
「いや、これは先を越《こ》されましたな」
「全く、呑《のん》気《き》なもんだ」
焼《やけ》跡《あと》の前に立って、室田は首を振《ふ》った。
「これで雨でも降《ふ》ったら、証《しよう》拠《こ》はオジャンなのに……。早《さつ》速《そく》、県《けん》警《けい》から人をよこしましょう」
「何かここにあったんでしょうか?」
と、文江は言った。
「何とも言えませんね。——灰《はい》を調べれば、何かつかめるかもしれないが」
「その灰をめちゃくちゃにしてしまって、すみません」
と、文江は照れたように言った。
「いや、ともかく無《ぶ》事《じ》で良かった。——その連中のこと、調べさせますか?」
「いいえ」
と文江は首を振った。「そんなことをすれば、ますます村の人たちの反感を買うでしょう」
「かもしれませんな」
と、室田は肯《うなず》いて、「それにしても、あまり勝手に動き回ると、危《あぶな》いですよ。といったって、気が変るような方ではありませんね」
「そりゃそうです」
と、草永が言った。「何しろ、常石家の誇《ほこ》り高き令《れい》嬢《じよう》ですから」
「何よ!」
と、文江がにらみつける。
「お手やわらかに」
と、草永がおどけた。「——どうでしょうね、刑《けい》事《じ》さん。ここへ度々、恋《こい》人《びと》たちが来ていることは、大人《おとな》の人たちは知らなかった。つまり、ここに何《ヽ》か《ヽ》を隠《かく》している人間がいるとしたら、その人間は、まさか見付けられるはずはないと安心し切っていたでしょう」
「その点は同感です」
と、室田が肯《うなず》く。
「ところが若《わか》いカップルが、しばしばここへ来ていたわけね。そして——そ《ヽ》れ《ヽ》を見付けた……のかしら?」
「見付けたとしても、不思議はないね。しかし、もしそれが七年前の事《じ》件《けん》のことに関する何かだったとしたら、そんな若い人たちには、それが何を意味していたか、分るまい」
「そうね。でも、私が帰って来たことで、あの事《じ》件《けん》のことが、また口に上るようになり——」
「それを聞いて、誰《だれ》かが、それに気付いたのかもしれない」
「というより、隠《かく》した誰かが、発見される危《き》険《けん》を感じたというべきですかな」
と室田が言った。
「だから火を点《つ》けた……」
「考えられます」
と肯《うなず》く。
そのとき、誰かが走って来る足音を、文江は耳にして振《ふ》り向いた。