「おはようございます」
うめの声で、目が覚《さ》めた。
「ああ——おはよう」
文江は目を開いて、息をついた。「——あら、どうしたの?」
うめが、障《しよう》子《じ》を開けて、向うを向いて座《すわ》っているのだ。
「お食事の用意ができております」
と、うめは言った。「お連れ様も」
文江は、やっと気が付いた。自分の布《ふ》団《とん》に、草永が一《いつ》緒《しよ》に寝《ね》ていたのだ。
ゆうべは火事騒《さわ》ぎもなくて、おかげで二人でのんびりと……楽しんだのはいいが、そのまま、疲《つか》れて眠《ねむ》り込《こ》んでしまったのである。しかも布《ふ》団《とん》はかけているにせよ、二人とも裸《はだか》のままである。
うめは、背《せ》中《なか》を向けたまま、障《しよう》子《じ》を閉《と》じて、行ってしまった。
「あーあ、まずった!」
と、文江は笑《わら》った。「——ちょっと! 起きてよ!」
と、草永を揺《ゆ》さぶる。
「ウーン」
と、唸《うな》って目を開き、「もう会社かい?」
——朝食の席は愉《ゆ》快《かい》だった。
うめが、草永には、ご飯もミソ汁《しる》も、たっぷりと出して、
「お疲《つか》れでしょうから、いくらでもお代りをどうぞ」
と、澄《す》まして言っている。
文江は笑《わら》いをかみ殺して、目をパチクリさせている草永を見た。
「まあ、朝から頑《がん》張《ば》ってたの?」
と、公江が訊《き》く。
「い、いえ、そんな——」
草永があわててミソ汁《しる》をすする。
「いいじゃない。朝一番は子《こ》供《ども》ができやすいのよ」
公江もなかなか言うのである。
草永はすっかり小さくなって食べ始めた。
玄《げん》関《かん》の方で、
「文江! 文江、いますか!」
と大声がした。
「あら、百代だわ」
文江が腰《こし》を浮《う》かす。
「何だかずいぶんあわててるようね」
と公江が言った。
文江が出て行くと、百代がハアハア息を切らして立っている。
「百代、どうしたの?」
「あ、あのね——あの——あれ——あれが——」
「ちょっと落ち着いて。入ったら?」
「うん……」
百代は上り込《こ》んで、やっと息をついた。
「ああ、怖《こわ》かった!」
「怖いって、何が?」
「幽《ゆう》霊《れい》が出たのよ」
と百代は言った。
「幽霊?」
文江は訊《き》き返した。「だって、お通《つ》夜《や》は結局延《えん》期《き》になったのよ」
「違《ちが》うわよ! 金子さんのや《ヽ》つ《ヽ》じゃないの」
「じゃ、誰《だれ》の幽霊?」
「和也君よ」
「坂東和也君の? だけど——ずいぶん昔《むかし》の幽霊じゃない」
「呑《のん》気《き》なこと言って! こっちは、ゆうべ一《ひと》晩《ばん》、生きた心《ここ》地《ち》もしなかったっていうのに!」
と、百代は、文江をにらんだ。
「ごめん。だって、あんまり突《とつ》拍《ぴよう》子《し》もないこと言うから——」
「それは面《おも》白《しろ》いね」
と、草永が入って来た。「つまり、あの、隣《となり》の家に何かがいた、ってことなんだね」
「そうなんです」
と、百代は肯《うなず》いた。「でも、ちっとも面白くありませんよ」
「いや、ごめんごめん」
と、草永は笑《わら》って、「詳《くわ》しく聞かせてくれないか」
「ゆうべ、上の子が夜中に私を起こしたんです——」
と、百代は言った。
「なあに、おしっこ?」
と、百代は目をこすりながら、起き上った。
「うん」
と、男の子が、コックリ肯《うなず》く。
「仕方ないわね。寝《ね》る前にお水なんか飲むからよ」
百代は布《ふ》団《とん》から起き出した。夫がウーンと唸《うな》って、寝《ね》返《がえ》りを打つ。
「さ、おいで」
百代は子《こ》供《ども》を廊《ろう》下《か》へ押《お》し出した。
「——一人でできるでしょ」
「ウン。開けといて」
「はいはい」
トイレのドアを開けて、百代は立って待っていた。
男の子のくせに、意《い》気《く》地《じ》がないんだから、本当に! 先が思いやられるわ。
百代は欠伸《あくび》をした。——でも、あんまり早く目を覚《さ》まされなくて良かった。
今夜は久しぶりに、夫と「語らった」からである。あの最中に、「おしっこ」などと言い出されたら、あわててしまう。
夫はそのまま、グーグー音を立てて寝《ね》てしまった。こっちは寝入りばなを起こされて迷《めい》惑《わく》な話だ……。
また欠伸《あくび》が出る。
「——もう出た? 早くしなさい」
そのとき、何やらガチャン、と壊《こわ》れる音がした。百代は、ちょっと目をパチクリさせた。
何だろう? 空《そら》耳《みみ》かしら、と思った。しかし、あんなにはっきりと……。
ガタン、ガタン、と、また物音がする。
どこから聞こえているのか。——少し遠い音だ。
「母《かあ》ちゃん、出たよ」
「はいはい」
百代は、子供のパンツを上げて、トイレから出た。寝《しん》室《しつ》へ連れて行って、布《ふ》団《とん》に子供を入れると、もう一度、一人で廊《ろう》下《か》へ出てみた。
また、何かの動くような、ガタゴトいう音。
ちょっと薄《うす》気《き》味《み》悪くなったが、元来、そう気の弱い方でもない。夫を起すまでのこともあるまい、と思った。
家の中じゃない、と思ったが、一《いち》応《おう》、茶の間や台所を見て回った。何の異《い》常《じよう》もない。
すると表だろう。しかし、この辺には、夜中にうろつくような人間はいないはずだが……。
泥《どろ》棒《ぼう》?——まさか! こんな貧《びん》乏《ぼう》な家に入る物《もの》好《ず》きな泥棒があるかしら?
百代は、庭へ出るガラス戸の方へ歩いて行くと、カーテンを少し開けて表を見た。別に誰《だれ》の姿《すがた》も見えないが。
また音がした。今度はちょっとびっくりするような、ガチャン、という派《は》手《で》な音であった。
これはやはり、放っておくわけにはいかない。——どうも、隣《となり》の廃《はい》屋《おく》から聞こえているらしいのだ。
あそこも、ずいぶん長く閉《し》め切ったままである。あちこちガタが来ているだろう。
野《の》良《ら》犬《いぬ》か野良猫《ねこ》でも入り込《こ》んだのかもしれない。この辺は都会と違《ちが》って浮《ふ》浪《ろう》者《しや》というのはいないから、その点は百代も考えなかった。
ともかく、廃屋に入る泥棒はいない。百代は、犬か猫《ねこ》なら怖《こわ》くもない。子供のバットをつかむと、玄《げん》関《かん》の方へ歩いて行った。
ドタン、ガタン、という音は、まだ続いている。——今に見てなさいよ。
百代は玄関から、サンダルをつっかけ、鍵《かぎ》を開けて外へ出た。
外は暗い。——都会なら、まるで真昼のように明るいのだが、こういう場所では、本当に夜は暗いのである。
百代は左右を見回した。——そこからでは、隣《となり》の廃屋が目に入らない。
そっと外へ出ると、通りへ出て、廃屋を眺《なが》めた。音はやんで、シン、と静まり返っている。
「——確《たし》かにこの中だわ」
と百代は呟《つぶや》いた。
廃屋のわきへ回ってみる。板を打ちつけた窓《まど》。——坂東夫《ふう》婦《ふ》が姿《すがた》を消してから、しばらくして、いつの間にか、誰《だれ》かが打ちつけたのだ。
百代は裏《うら》手《て》に回った。広い窓《まど》があって、ここはそのままになっている。
しかし、埃《ほこり》やごみで、まるですりガラスみたいになってしまっている。
ガチャン! 中で派《は》手《で》な音がして、百代は飛び上った。
一人で来たのを、少々後《こう》悔《かい》し始めていた。しかし、どうせ隣《となり》なのだ。
いざとなったら、大声出せば……。
百代はバットを握《にぎ》りしめると、窓の方へと近《ちか》寄《よ》った……。
「それで?」
と、文江が訊《き》いた。
「そしたら、急に光が——」
「光が?」
「そう! 白い光が、窓《まど》の所をスーッと音もなく通って行ったの」
「音もなく?」
「そう。——二つ、三つ、とね。スーッ、スーッて」
「それで、どうしたの?」
「もう、キャーッ、って叫《さけ》んで飛び上ったわよ。そのまま家へ吹《ふ》っ飛んで帰っちゃったわ」
「ご主人には?」
「今朝《けさ》、話したわ」
「じゃ、ゆうべは……」
「布《ふ》団《とん》かぶって、寝《ね》てたのよ」
と百代は言って、「笑《わら》わば笑え!」
「何言ってんの。でも、確《たし》かに誰《だれ》かが中にいたのね」
「そうよ、間《ま》違《ちが》いないわ」
「その光っていうのは」
と、草永が言った。「きっと懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》だろうな。窓が汚《よご》れてるから、光が通らなかったんだ」
「私も今朝《けさ》になって、そう思ったわ」
と、百代は肯《うなず》いた。「でも、ゆうべは、とっても考えつかなかったわ」
「そりゃ無《む》理《り》ないな」
と、草永は、室田みたいなことを言い出した。
「でも、一体誰かしら?」
と文江が考え込《こ》む。
「考えてたって仕方ないよ。調べてみることさ」
「そう簡《かん》単《たん》に——」
「我《われ》々《われ》だけじゃだめさ。あの家だって、持主がいるはずだろ。下手《へた》に入ると、不法侵《しん》入《にゆう》だ」
「じゃ、室田さんを呼《よ》んで一《いつ》緒《しよ》に入ればいいわけだ」
と、文江は指を鳴らした。「早《さつ》速《そく》電話してみるわ」
電話の所へと走って行き、教えられていた直通電話の番号を回す。
「——あの、室田さん、お願いしたいんですけど」
「お嬢《じよう》様《さま》」
と、うめがそばへ来て、「あの——」
「待って。——あ、お出かけですか。お帰りになるのは——」
「室田様ですが」
と、うめが言った。
「——あの空《あき》家《や》のことは、急いで持主を調べましょう」
村の方へ歩きながら、室田が言った。「その上で、合法的に入りませんとね」
「同感です」
と草永が言った。
室田、草永、文江の三人は、村への道を辿《たど》っていた。
百代は先に帰っていた。子《こ》供《ども》二人かかえている身としては忙《いそが》しいのである。
「——で、何か結《けつ》果《か》が出ましたの?」
と文江が訊《き》いた。
「金子さんですか? ええ。やはり毒物が使われていました」
「まあ、それじゃ……」
「猛《もう》毒《どく》というわけではないが、少々弱い心《しん》臓《ぞう》には致《ち》命《めい》的です」
「でも、それは専《せん》門《もん》的な知《ち》識《しき》が必要でしょうね」
「専門的というほどではないとしても、多少の知識はね」
「つまり、素人《しろうと》ではない、と?」
「いや、多少勉強すれば大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」
「じゃ、犯《はん》人《にん》を特《とく》定《てい》できませんね」
「無《む》理《り》ですね。しかし、身近な人が疑《うたが》われるのは仕方ないでしょう」
文江は室田を見た。
「つまり——奥《おく》さんですか」
「普《ふ》通《つう》ならね」
と肯《うなず》く。
「というと?」
「火事があったでしょう」
「ああ。——きっと奥さんも外へ出て、火事の様子を見ていたでしょうね」
「そうです。その間に、家に入って、薬を混《ま》ぜるのは、不《ふ》可《か》能《のう》ではない」
「そうですね」
と文江は言った。「都会のマンションとは違《ちが》って、この辺の家は、庭からでも入れますものね」
「だから厄《やつ》介《かい》ですよ。——ともかく、なぜ金子さんが狙《ねら》われたのか、それをまず明らかにしなくては」
「あの人を殺そうとするなんて……」
と、文江は首を振《ふ》った。
「地味な方、でしたな」
「そうです。本当に——」
「しかし、人間、どこかに秘《ひ》密《みつ》があるものですよ」
「金子さんに、ですか?」
まさか、とは思ったが、そうでなければ、殺されるはずがないのだ、と考えると、やはり金子にも、人の知らない面があるのか、と思えて来る。
「今日は、どうするんですか?」
と草永が訊《き》く。
「まあ、視《し》察《さつ》、といいますかね」
「視察?」
「村の様子を見たいのです。——何といっても、犯《はん》人《にん》は、この村の中にいるに違《ちが》いないのですから」
——三人は、あの廃《はい》屋《おく》の前で、足を止めた。
「ねえ、見て!」
と、文江が言った。
表の戸が、ほんの一センチほどではあるが、開いているのだ。
「——文江!」
と、先に帰っていた百代が、飛び出して来る。
「百代、ここの戸——」
「そうなの! 帰って来るときに見付けてね、電話したけど、出た後だったのよ」
「ゆうべは開いてなかったの?」
「たぶんね。開いてれば気が付いたと思うわ。暗かったけど、まるきり何も見えないってわけでもなかったから」
「そう。——今朝《けさ》は?」
「あなたの所へ行くときは、ろくに見てなかったから」
室田はガラス戸に近付いた。手をかけて動かすと、ガラガラと軽やかに動く。
「こいつは妙《みよう》だ」
室田はかがみ込《こ》んだ。「——レールに油がさしてありますよ」
「じゃ、やっぱり誰《だれ》かが……」
「そうらしいです。入ってみましょう」
と室田が言った。
「ええ? でも——」
と、文江が言いかけると、
「ご心配なく」
室田は肯《うなず》いた。「空家の戸が開いているので、防犯上の見地から、入っても構《かま》いませんよ」
「難《むずか》しいもんね」
と、百代が感心したように言った。
「入ってみましょう」
百代は、
「ああ、悔《くや》しい! 子供、放っといて来ちゃったからだめだわ!」
と叫《さけ》んで、家へ駆《か》け戻《もど》った。
文江がクスッと笑《わら》った。
「気が若《わか》いんだから!」
室田が、埃《ほこり》だらけのカーテンを、ゆっくりとあけた。フワッ、と埃が宙《ちゆう》を舞《ま》った。
三人は、中を覗《のぞ》き込《こ》んだ。