ムッとするような、匂《にお》いがした。
「何かしら、これ?」
「埃とカビと、色々ですね」
と室田は中へ入った。
文江と草永も続いた。
目が慣《な》れると、思ったより、きれいになっているのが分った。
雑《ざつ》貨《か》屋《や》だった頃《ころ》の、ガラスケースや、棚《たな》がそのまま残っている。もちろん、埃《ほこり》だらけだし、鴨《かも》居《い》のあたりにクモの巣《す》も見えるが、お化《ばけ》屋《や》敷《しき》というわけでもない。
「店の奥《おく》が座《ざ》敷《しき》ですね」
「ええ。そこを上ると——」
室田が足下を見た。
「物音の正体は、これだな」
割《わ》れた茶《ちや》碗《わん》のかけらが散っている。
「ここにあったのかしら?」
「いや、そうではないようです」
と、室田はかがみ込《こ》んだ。「きれいなもんですよ。これは埃がつもっていない」
「つまり——」
草永が言った。「誰《だれ》かが、ここに茶碗を持って来て、わざわざ壊《こわ》したんでしょうか」
「そういうことになりますな」
「でも、どうして?」
「ここに人の注意を引きたかったのかもしれません」
「なぜでしょう?」
「分りません」
室田は、靴《くつ》を脱《ぬ》ぐと、座敷に上った。「——上ってもいいですが、靴《くつ》下《した》が汚《よご》れますよ」
「構《かまい》やしません」
と、文江は言った。「洗《あら》えばいいんですもの」
茶の間は六畳《じよう》ほどの広さである。
もっとも、ここの六畳は、都心のマンションなら、八畳ぐらいである。
「憶《おぼ》えてるわ。——よく、ここへ来たんですもの」
「他の部《へ》屋《や》も、見て回りましょうか」
室田が、ゆっくり左右上下に目を向けながら、歩いて行く。
やはり、窓《まど》の近くなどは、埃《ほこり》が入って汚れていたが、廊《ろう》下《か》などは、思ったよりきれいである。
「人のいない家は、ネズミやゴキブリも、エサがないので寄《よ》りつきませんからね。——あまり汚れないものですよ」
と室田は言った。
「埃の上に足《あし》跡《あと》でもついているかと思ったのにな」
と草永が言った。
「砂《すな》嵐《あらし》でもあれば、そうかもしれませんがね」
「ねえ、見て!」
と、台所に立っていた文江が叫《さけ》んだ。
「——どうしました?」
「あの窓《まど》……」
台所の窓は、うっすらと埃で白くなっていた。そこに、指で書いたのだろう。
〈床《ゆか》の下〉
と書かれてあった。
「床の下、か……」
「誰《だれ》が、こんなことをしたのかしら?」
「字はあまり特《とく》徴《ちよう》がありませんね。——触《さわ》らないで下さい」
「ええ。でも、床の下って——」
「この床下ということかな」
「きっとその下だわ」
と、文江は言った。「そこの床が開くんです。下が、お米とかミソの置き場になっていて」
「なるほど」
室田は、床の丸《まる》い穴《あな》に指をかけて引《ひつ》張《ぱ》ってみた。
大きな板が、持ち上って来る。
「何かあります?」
「いや……この下は、どうなってるんですか?」
「さあ、そこまでは——」
文江も覗《のぞ》き込《こ》んだ。
まだ米びつが置いたままになっている。その下は、板が何枚も敷《し》いてある。
「この下は地面ですな」
「そうでしょうね」
室田は米びつを持ち上げようとした。
「——こりゃ重いや。手伝って下さい」
草永と二人で、持ち上げ、やっと上に出す。蓋《ふた》を開けると、三分の二くらいまで、米が残っている。もちろん、変色してしまってはいるが。
「下の板が外れてますよ」
と、室田が腹《はら》這《ば》いになって、底板へ手をのばした。
釘《くぎ》で打ちつけてあるかのように見えるが、ヒョイと外れてくる。
「どうなってるのかしら?」
「この板もだ。——この隣《となり》も」
結局、ほとんどの板が外れて、すぐ下に地面がむき出しになった。
「——何かありますの?」
「いや、分りませんね」
室田は立ち上った。「しかし、下の地面が、盛《も》り上っています」
文江は、草永と顔を見合わせた。
「ということは……」
「この下に、何か埋《う》まっているんですな」
と、室田は言った。
「えらいことになったわね」
と、百代が言った。
「うん……」
文江は、百代の家に上り込《こ》んでいた。
室田が、県《けん》警《けい》から人を呼《よ》んでいる間、草永は、あの台所で見《み》張《は》っている。そして文江はここで待つことにした、というわけである。
「どうしたの、文江?」
「え?」
「何か考え込《こ》んじゃって」
「そう?——ただ、えらいことだ、と思ってるだけよ」
「仕方ないじゃない」
「うん」
文江は、百代の出してくれたお茶を飲んで、ホッと息をついた。
「仕事、忙《いそが》しいの?」
「まあね」
「羨《うらやま》しいな。自分の手に仕事持って」
「そうかなあ。こういうことって、向き不向きがあるのよ」
「私《わたし》は顔で落第って言いたいんでしょ」
文江は笑《わら》い出した。
「——百代って相変らずね」
「でもさ」
「何よ」
「本心じゃ、文江のようにならなくて良かったと思ってるわ」
「どういうこと?」
「だって——文江は昔《むかし》から辛《つら》そうだったじゃない」
「辛い、って?」
「常石の名前が、よ」
文江は目を伏《ふ》せた。
「どこへ行っても、みんな、文江のこと知っててさ」
「そうね。すぐ『お嬢《じよう》様《さま》』だったもんね」
「私、可哀《かわい》そうだなあ、って思ってたのよ、いつも」
「ありがと」
「都会へ出て、誰《だれ》も自分のことを知らない町を歩くってことに憧《あこが》れても、当り前だと思ったわ」
「そうね……」
「ただ、手紙の一本ぐらい、くれりゃ良かったじゃないの」
「ごめん。やっぱり、意地があってね。ともかく、一人前になって、帰ってやろう、って」
「それで七年?」
「アッという間よ。七年間。——がむしゃらに生きて来たわ」
「でも、あんな恋《こい》人《びと》もできてるじゃない」
「ごく最近よ」
「初めての人?」
文江は、ちょっとおどけて、
「ご想《そう》像《ぞう》にお任《まか》せします」
と逃《に》げた。
「ずるい!」
「でも、売れないときは、ずいぶん色々あったのよ」
「色々って?」
「体と引き換《か》えで、デザインを任《まか》せる、とかさ」
「へえ! ドラマみたい」
「本当にあるのよ」
「で、文江は?」
「そこまでは、ね。やっぱり気位が高いんでしょ」
「常石家の令《れい》嬢《じよう》ね」
「そんなとこかな」
文江は軽く笑《わら》った。「——最初は大学生とだったわ」
「へえ。——長く続いたの?」
「一度っきり」
「へえ、どうして?」
「一度寝《ね》たら、急に威《い》張《ば》り始めてね、がっかりして、サヨナラしちゃった」
「それ、あるわね。うちの亭《てい》主《しゆ》だって、初夜のときまでは優《やさ》しかったけど、それ過《す》ぎたら急に関《かん》白《ぱく》よ」
「でも、百代、威張ってんじゃない」
「当り前よ。権《けん》力《りよく》に屈《くつ》してたまりますかって!」
「闘《とう》争《そう》したわけね」
「断《だん》固《こ》、夜の生活を拒《きよ》否《ひ》したの。三か月よ」
「凄《すご》い」
「ついに亭主も折《お》れたわ。以来、良く言うこと聞くようになったもの」
文江は笑《わら》い出した。
なごやかな、女同士の他愛ない会話。——こういう会話は久《ひさ》しぶりだ。
文江は、一種の郷《きよう》愁《しゆう》を覚えた。
妙《みよう》な話だ。実《じつ》際《さい》に、こうして故《こ》郷《きよう》へ帰って来ているのに。
だが、文江の中の故郷は、「七年前の故郷」なのである。
自分の帰《き》還《かん》で、混《こん》乱《らん》している、今の故郷ではない……。
「——失礼」
と、草永が入って来た。
「あら、見《み》張《は》りは?」
「うん、今、室田さんが戻《もど》って来た」
「じゃ、お茶いれますね」
と百代が立ち上って出て行った。
草永と文江は、しばらく黙《だま》っていた。
「ねえ」
「うん?」
「どう思う?」
「何が?」
「あの床《ゆか》下《した》よ」
「ああ。——どうって——」
「何か埋《う》めてあるのかしら?」
草永は肩《かた》をすくめた。
「掘《ほ》ってみなきゃ分らないさ」
「でも、何か、事《じ》件《けん》に関係のあることでしょうね」
「室田さんはそう思ってるようだ」
「何でもないものを、あんな所に埋めないでしょうからね」
「しかし、何が考えられるかな」
と草永は腕《うで》を組んだ。「君はこうして生きてるから、君の死体じゃない」
「もう!」
と、文江は草永をにらんだ。
「僕《ぼく》が前に言ったろう」
「何を?」
「坂東和也のことで、さ」
「ああ。——他《ヽ》の《ヽ》殺人ってことね」
「そうだ」
「その死体が、あそこに?」
「可《か》能《のう》性《せい》はある」
文江はしばらく考えていた。
「でも、おかしいわ」
「どうして?」
「死体隠《かく》すのに、わざわざ床《ゆか》下《した》に埋《う》めることないわよ」
「そうか」
と草永は肯《うなず》いた。
「そうでしょ?」
「裏《うら》山《やま》には、いくらでも場所がある、か」
「そうよ。それなのに、わざわざ自分の家の床下に——」
「しっ。——来たらしい」
表に車の音がした。
「行きましょう」
「ねえ、君は——」
「何?」
「行かない方がいいんじゃないか? もし、死体だったりしたら……」
「あなたこそ、引っくり返らないでよ」
と、文江は言った。
外へ出て、文江と草永は目を見《み》張《は》った。
「まあ! いつの間に——」
村の人たちが、何十人も、集って来ているのだ。
「——どこから話が伝わったのかしら?」
「これじゃ、隠《かく》し事はできないな」
と草永は苦《く》笑《しよう》した。「さあ、入ろうか」
中では、室田の指《し》示《じ》で、台所の床《ゆか》下《した》のものを掘《ほ》り出す作業が始まっていた。
「入らないで!」
と、警《けい》官《かん》に止められる。
「ああ、その二人はいいんだ」
と、室田が声をかけた。「さあ、こっちへ」
他に、鑑《かん》識《しき》班《はん》らしい何人かが、壊《こわ》れた茶《ちや》碗《わん》のかけらを集めたり、窓《まど》の指で書いた〈床の下〉の文字を、カメラにおさめたりしていた。
「——退《さ》がっていて下さい」
と室田が言った。「土がかかりますよ」
文江と草永は、少し離《はな》れて立っていた。
「——何かあるぞ」
と、掘っていた一人が言った。「ビニール包みだ」
「出してみてくれ」
と室田が言った。
かなりの大きさのビニール袋《ぶくろ》が、取り出された。
文江は、ゴクリとツバを飲んだ。
「ゴミですよ」
と、中を覗《のぞ》いた男が言った。
気が抜《ぬ》けたような、戸《と》惑《まど》いが広がる。
「その下を掘《ほ》れ」
と、室田が言った。
「もっとですか?」
「ただのゴミをこんなにして埋《う》める奴《やつ》はいないよ」
と室田は言った。
なるほど、それはそうだ。文江は、じっと息をつめて見守った。
——かなり、穴《あな》は深くなった。
「もう何もありませんよ」
「もう少し掘れ」
室田の言い方は、穏《おだ》やかであった。
土が、床《ゆか》の上にも積まれた。——十五分が過《す》ぎた。
「何かある!」
と、声が上った。
「出してみろ」
ガサゴソと音がした。
「トランクですよ。ずいぶん大きいけど」
「上げろ」
引《ひつ》張《ぱ》り上げられたのは、黒い、大型のトランクだった。
「横にしろ。開けるぞ」
と、室田が言った。
「鍵《かぎ》がかかってます」
「壊《こわ》していい」
鍵は、楽に壊れた。ゆっくりと、蓋《ふた》が開いた。——文江は、一《いつ》瞬《しゆん》目をつぶった。
「布《ぬの》がかけてある」
「めくってみろ」
——そこには、またトランクが入っていた。今度は手で持てる程《てい》度《ど》のものだ。
空いたところには布《ぬの》がつめてあるのだった。
「何だか、人を馬《ば》鹿《か》にしてるな」
「よし。こいつを開けよう」
メリメリ、と音がして、今度の鍵は、やや抵《てい》抗《こう》があったらしい。
「——おい!」
声が上った。
「たまげたな!」
文江は近《ちか》寄《よ》って、そのトランクを覗《のぞ》いた。
トランクには、びっしりと、札《さつ》束《たば》が詰《つま》っていた。
「驚《おどろ》いたわ」
文江は、パトカーの走り去るのを見送って言った。
「あれは何でしょうね?」
と草永が訊《き》くと、
「調べてみないと分りませんが……」
と、室田は言った。「七年前、あの事《じ》件《けん》があったころ、隣《となり》の町で、銀行が襲《おそ》われているのです。——確《たし》か、四、五千万円がやられました」
「それが今の——」
「日付を見てみましょう。おそらく間《ま》違《ちが》いないでしょうが」
「何てことかしら!」
「じゃ、和也は、その一味だったんでしょうか?」
「さあね。それにしては、金に手をつけていないのが妙《みよう》です」
「そうですね」
「あれだけ深く埋《う》めるには、当分使わないという決心があったんでしょう」
「その和也が、なぜ自殺を……」
「こうなると、考え直す必要があるようですね」
「というと?」
「和也の死は、自殺だったのかどうか、ですよ」
と、室田は言った。
「ますます分らなくなって来たわ」
文江は、草永と二人で、家への道を歩きながら言った。
「こいつは、何だか、複《ふく》雑《ざつ》な事《じ》件《けん》だね」
と草永が首を振《ふ》る。
「あのお金……。もし本当にその銀行のものだったら……」
「和也としては、アリバイが証《しよう》明《めい》できなかったのも当然だな」
「まさか強《ごう》盗《とう》してましたとは言えないものね」
「和也は自殺するはずがないよ。あのお金があれば、ここを出て、どこへでも行けるんだから」
「そうね」
「また殺人が一つふえた」
「坂東和也殺人事件か……」
と、文江は呟《つぶや》いた。
二人は、黙《もく》々《もく》と、道を歩いて行った。
そろそろ、陽《ひ》は傾《かたむ》きかけていた。