「どうした?」
文江が寝《ね》返《がえ》りを打つと、草永が言った。
「え?」
「眠《ねむ》れないのかい?」
「うん……。まあね」
文江は、大きく伸《の》びをした。
うめが、気をきかしたのか、皮肉のつもりか、最初から文江の部《へ》屋《や》に草永の布《ふ》団《とん》も敷《し》いてしまったのである。
「もう何時?」
「ええと……」
草永は、わずかな明りの中で、腕《うで》時《ど》計《けい》を手に取って、見た。「二時ぐらいかな」
「いやね、眠《ねむ》れないって気分。少し散歩して来ようかな」
「そうするか」
「あなたは寝《ね》ててもいいわよ」
と、文江は起き上りながら言った。
「冗《じよう》談《だん》じゃないよ。人殺しがどこかにいるんだぜ」
「あら、心配してくれるの。優《やさ》しいわね」
文江は、セーターとスカートという軽《けい》装《そう》で、部《へ》屋《や》を出た。草永が、急いで後を追う。
下へ降《お》りて行くと、居《い》間《ま》の明りが灯《とも》っている。——文江は、不思議そうに、
「誰《だれ》かしら、こんな時間に?」
と呟《つぶや》いた。
「また幽《ゆう》霊《れい》かな」
「やめてよ!」
と文江はにらみつけた。
「——誰なの?」
居《い》間《ま》から母の公江の声がした。
「何だ、お母さん。びっくりした。どうしたの?」
「ちょっと眠《ねむ》れなくてね」
と、公江は微《ほほ》笑《え》んだ。「お前も一《いつ》杯《ぱい》どう?」
「お母さん、ウイスキーなんかやってるの?」
「やあ、こいつは散歩よりよほどいいや」
と、草永も入って来て、「僕《ぼく》もお付き合いしましょうか」
「じゃ、文江、そこからグラスを持っといで」
公江が愉《ゆ》快《かい》そうに言った。別に酔《よ》っているという様子ではない。
「じゃいいわよ。私も付き合う」
文江も負けてはいられない。
かくて、深夜の酒《しゆ》宴《えん》となった。
「——銀行強《ごう》盗《とう》ねえ」
公江は、ちょっと考えて、肯《うなず》いた。「そういえば、そんなこともあったね」
「私が家を出た日?」
「というか……はっきり憶《おぼ》えていないけど、同じころだよ。こっちも、お前のことで、てんてこまいしてたから、あまり気にしてなかったけどね」
「室田さんから、何か言って来たのかい?」
草永が文江に訊《き》く。
「まだ、何も。——何しろ大分昔《むかし》のことだもの。そう簡《かん》単《たん》には分らないんでしょ」
「隣《となり》の町のことだしね」
と、公江がグラスをあけて、「——この田《でん》村の人にとっては、村の中の出《で》来《き》事《ごと》だけが、現《げん》実《じつ》なんですよ」
「そうですね。こういう所では、考え方も都会とは違《ちが》って来る」
草永は、肯《うなず》きながらそう言った。
「もし、あれがその強《ごう》盗《とう》の盗《と》ったお金だったとすると、和也君がその一味だったってことね」
文江は首を振《ふ》った。「信じられないなあ。あのおとなしい和也君が……」
「でも、何となく分るわよ」
と公江が言った。
「何が?」
「若《わか》い人たちにとっては、この田村での暮《くら》しは息がつまるでしょ。何とかして、ここから脱《ぬ》け出したい。そう思うんじゃなくて?」
「そうねえ」
文江は考え込《こ》んだ。「私も、直《ちよく》接《せつ》の動機は別として、やっぱり、ここから出て行きたい、と思ったものね」
「問題は誰《だれ》とやったか、だな」
と草永が言った。
「——何の話?」
「強盗のことさ、もちろん」
「つまり、一人じゃないってわけね」
「当り前さ。そんな若《わか》い子一人じゃ、とてもやれない。仲《なか》間《ま》がいたはずだ」
「というより、和也さんは、使われたんだと思った方が良さそうね」
と公江が言った。「そんな計画を立てて、リーダーになるようなタイプじゃありませんよ」
「同感ね。——和也君には、そう悪い仲間はついてなかったと思うけど」
「そんな、不良少年ぐらいで、銀行強《ごう》盗《とう》なんてやれないさ。背《はい》後《ご》には大人《おとな》がいるんだ。まず間《ま》違《ちが》いなく、そうだ」
「この——田村の人?」
「それは分らないけど……」
「そう考えるのが自然ですよ」
と公江が言った。「一《いつ》緒《しよ》に強盗をやって、しかもその盗《ぬす》んだお金を、和也さんの所へ預《あず》けるんだから、相当に信用し合っているんでしょう。村の人間でなきゃ、とてもそんなに親しくなれるはずがありません」
「なるほど」
草永は肯《うなず》いた。「いや、お母さんのお話は、説《せつ》得《とく》力《りよく》があります!」
「ありがとう。あなたは、とてもしっかりした方ね。娘《むすめ》にはもったいないわ。私がもう二十年若《わか》かったら——」
「いや、恐《おそ》れ入ります」
「どんどん飲みましょう」
「いいウイスキーですねえ」
「高級品が置いてありますの。悪《わる》酔《よ》いしませんしね」
「文江さんと一《いつ》緒《しよ》になっても、なかなか、こんなのは飲めませんよ」
「何なら、あなた、うちの養子におなりなさい。大して仕事しなくていいんですよ」
「それもいいですね、ハハ……」
——文江は、母と草永が二人で勝手に楽しげにやっているのを、呆《あき》れ顔で眺《なが》めていた。
一時間後には、二人揃《そろ》って、仲《なか》良《よ》くソファで居《い》眠《ねむ》りを始めてしまった。
「何やってんのかしら、全く!」
母が酒を飲むのは、あまり記《き》憶《おく》になかった。もちろん、飲めないわけではなかったが、好《この》んで飲む方ではなかった。
母も年齢《とし》を取って、あれこれと苦労が多いのかもしれない。いや、まず娘《むすめ》が行方《ゆくえ》不明になっていたことが、心労となっていただろう。
草永が、母に付き合って、眠《ねむ》り込《こ》んでしまったのも、彼《かれ》なりに気をつかってのことかもしれなかった。草永だって、そうアルコールに強い方ではないのだから。
時計を見ると、三時二十分だった。もう一時間もすると、朝の気配になって来よう。
文江は、二人を残して、居《い》間《ま》を出た。——あの二人なら、浮《うわ》気《き》する心配もないものね……。
玄《げん》関《かん》から、表に出る。
都会の空気は、いつも生ぬるくて、埃《ほこり》っぽいが、田舎《いなか》の夜の寒さは、水《すい》晶《しよう》のように固く、透《す》き通っている。
身の引き締《し》まる寒さ、とでもいうのだろう。
ぶらり、と文江は歩き出した。——夜の散歩、というのもなかなか優《ゆう》雅《が》なものである。
都会の夜は、場所によっては昼間と見分けがつかないくらい明るかったりして、本当の「夜」がない。一《いつ》寸《すん》先《さき》も見えない闇《やみ》、なんて停電にでもならなければ、経《けい》験《けん》できないのである。
家の明りが届《とど》かなくなると、かすかな月の明りで、村へ行く道を、少し辿《たど》って行った。そして、ふと足を止めると、今度は逆《ぎやく》に、山への道を辿り始める。
山まで行く気はないのだが、七年前、夜中に、この道を一人、歩いて行ったときのことを思い出しているのだ。あれもちょうど三時過《す》ぎだった……。
あのとき、和也や、他の誰《ヽ》か《ヽ》は、銀行を襲《おそ》って、逃《に》げ帰る途《と》中《ちゆう》だったのだろうか。——もし、車に出会わず、あのまま山道を歩いていたら、途中で和也たちに出くわしていたかもしれない。
人生なんて、ほんのささいなことで、変ってしまうものだ。
和也たちに出会っていたら、その場で殺されて、山の中に埋《う》められていたかもしれない。いや、行動を共にして、今ごろは女ボスにでもなって、機《きか》関《んじ》銃《ゆう》片《かた》手《て》に、各地の銀行を荒《あら》し廻《まわ》っていたかも……。
ちょっと悪のりかな、と一人で笑《わら》った。
夜は静かで、人の気配など、まるでなかった。
あまり遠くまで行くと、戻《もど》るのも大変だ。
——文江は足を止めた。
そのとき、どこか、右手の離《はな》れた所で、茂《しげ》みのざわつく音がした。風のせいではない。どこか一《いつ》箇《か》所《しよ》から聞こえた。
何かが動いたのだ。
ヒュッと口《くち》笛《ぶえ》のような鋭《するど》い音がした。文江の右の頬《ほお》を、何かがかすめて飛んで行った。
文江は戸《と》惑《まど》って立っていた。——何だろう?
ただ、直感的に、危《き》険《けん》を感じた。ヒュッという音がして、今度は左の腕《うで》に鋭い痛《いた》みを覚えた。
狙《ねら》われている!
文江は道に伏《ふ》せた。ザザッと茂《しげ》みを駆《か》け抜《ぬ》ける音。ザッザッと足音らしいものが遠去かって行った。
文江はしばらく動かなかった。左《ひだり》腕《うで》が少し痛《いた》む。
そろそろと起き上った。——どうやら無《ぶ》事《じ》のようだ。
一体誰《だれ》が、狙って来たのだろう?
文江は、高鳴る心《しん》臓《ぞう》を、鎮《しず》めようとじっと目を閉《と》じて立っていた。けがをしたようだ。手当をしなくてはならない。
ホッと息をつく。——それを、向うは待っていたかのようだった。
ヒュッと空を切る音が、顔の正面に走った。アッと顔をよけるのが、十分の一秒遅《おそ》かったら、死んでいたかもしれない。
右の頬《ほお》が、引き裂《さ》かれるように痛んで、文江はよろけた。
一《いつ》瞬《しゆん》、気を失いかけて、その場にうずくまった。視《し》界《かい》を、赤い光が駆《か》けめぐる。
やっとの思いで顔を上げると、二つの目が見えた。——光った目だ。
いや……あれはヘッドライトだ。車が停《とま》っている。誰《だれ》か来てくれたのだ。——文江はホッとした。
低い唸《うな》り声と共に、その「二つの目」が、近付いて来た。唸り声の周波数が上る。
こっちへ来る。突《とつ》進《しん》して来る。——危《あぶな》い。危い! 危い!
文江は、目を見開いて、真《まつ》直《す》ぐに突《つ》っ込《こ》んで来るライトの光を見つめた……。
「びっくりしたぜ」
草永が言った。
「ごめん」
「無《む》鉄《てつ》砲《ぽう》なんだよ、大体」
「ごめん」
「殺人事《じ》件《けん》なんだぜ。TVドラマや遊びじゃないんだ」
「ごめん」
「全くもう……。君に死なれたら、僕《ぼく》はどうすりゃいいんだ」
「ごめん」
「しかし……本当にびっくりしたよ。泥《どろ》かぶって、泥のお化《ばけ》みたいになって入って来るんだもの。一《いつ》瞬《しゆん》誰《だれ》かと思った。そしたら、そのまま気を失って……」
「一つ訊《き》きたいんだけど」
「何だい?」
「私が襲《おそ》われているとき、あなたは何してたの?」
「それは……ちょっと居《い》間《ま》で居《い》眠《ねむ》りして……」
「酔《よ》っ払《ぱら》って寝《ね》てたのね」
「まあ……そういう言い方もできるかな」
「で、何か言いたいことは?」
「うん。まあ……けがが軽くて良かったね」
「もう一つ訊きたいんだけど」
「何だい?」
「私を玄《げん》関《かん》の所で裸《はだか》にしたのは誰《だれ》?」
「そりゃ……君のお母さんとうめさんさ」
「さっきうめさんに訊《き》いたら、うめさんが駆《か》けつけて来たら、もう私は裸にされてたってよ」
「そ、そうだったのかな。——気が転《てん》倒《とう》して、分らなかったよ」
「もう、いい加《か》減《げん》ね!」
——二階の、文江の部《へ》屋《や》。左の腕《うで》の包帯、右《みぎ》頬《ほお》の、大きなガーゼの白さが痛《いた》々《いた》しい。
すっかり朝になっていた。
「しかし、一体誰《だれ》がやったんだろう」
「話をそらして……」
と、ちょっとにらんでから、文江は笑《わら》った。「もう少しで車にひき殺されるところだったのよ。何だか信じられないようだわ」
「向うだって、暗くて君の姿《すがた》がはっきりとは見えなかったはずだしな。殺す気なら、どうして、もっと明るいときを狙《ねら》わなかったのかな」
「何だか残念そうね」
「よせやい」
と、草永は顔をしかめた。
「室田さんには連《れん》絡《らく》してくれたの?」
「うん。すぐ来てくれると言ってたんだがな……」
噂《うわさ》をすれば、とでも言うのか、廊《ろう》下《か》にうめの声がした。
「室田さまです」
——居《い》間《ま》へ降《お》りて行くと、室田が落ち着かない様子で歩き回っていた。
「何とも——ひどいですな」
と、文江を一目見て、「相手を見ましたか?」
「いえ、真っ暗で」
文江は、少し顔をしかめた。大きな声を出すと、頬《ほお》の傷《きず》が痛《いた》むのである。
「現《げん》場《ば》へ案内していただけますか」
「ええ、もちろん。でも、暗かったので、はっきりどの辺と分るかどうか——」
「痕《こん》跡《せき》があるでしょう。ともかく行ってみましょう」
室田、草永、文江の三人は、外へ出た。
穏《おだ》やかな天気である。
山へ続く道を歩きながら、
「あの銀行強《ごう》盗《とう》のことは分りまして?」
と、文江が訊《き》いた。
「やはり、まず間《ま》違《ちが》いないという感じです。金《きん》額《がく》がぴったり一《いつ》致《ち》しました」
「番号は控《ひか》えてあったんですか?」
「いや、新札ではないものですからね」
「それにしても、額が一致するということは——」
と、草永が言いかけると、室田が肯《うなず》いて、
「つまり、盗んだ金は、全く手を付けていなかったということです」
「そうですか。しかし、あれだけの金を……」
「仲《なか》間《ま》がいたとしたら、七年間、知りながら手をつけていなかったというのは妙《みよう》な話ですな」
「それは……」
と、文江が言った。「つまり、和也君が、お金を一人占《じ》めしようとしてたってことかしら?」
「どうも、他に考えようがないようですね」
「そして和也君は死んだ……。その仲間に殺された、と……」
「そこがよく分らないんですよ。隠《かく》し場所を訊《き》き出すつもりなら、殺しはしません。金が手に入らなくなってしまいますからね」
「でも、つい、やり過《す》ぎて、ということも考えられますよ」
「確《たし》かに」
と、室田が肯く。
どうも殺《さつ》伐《ばつ》とした話になって来て、文江は憂《ゆう》鬱《うつ》になった。
「——この辺りだと思うんですけど」
と、文江が言った。「でも、暗かったから、はっきりとは……」
「道の様子で分りますよ。タイヤの跡《あと》が……しかし、これじゃ無《む》理《り》かな」
室田は、舗《ほ》装《そう》などしていない道を見下ろして言った。
「君が道のわきの溝《みぞ》へ落っこちた跡があるんじゃないか?」
「そうね。——あれじゃないかしら?」
「なるほど、泥《どろ》がはねていますね。ここらしいですね」
室田はその場に立って、周囲を見回した。
「どっちから狙《ねら》われたんですか?」
「ええと……山の方へ向かって立ってて……。あっちから音が聞こえたんです」
「あの茂《しげ》みの辺りかな」
「たぶん、そうだと思いますわ」
室田は、その茂みと、文江の立っていた辺りを、目に見えない線で結ぶと、それを延《えん》長《ちよう》して、反対側の木《こ》立《だ》ちの中へ入って行った。
「——何か見付かりまして?」
と、文江が声をかける。
「あなたを傷《きず》つけたのが何なのかと思いましてね」
室田は、キョロキョロとその周辺の地面を見回しながら、「少なくとも銃《じゆう》ではありませんからね。傷口がもっと焼けているはずですから」
「痛《いた》いには変りありませんわ」
と、文江は渋《しぶ》い顔で言った。
「——ああ、これだ!」
と室田が声を上げる。
文江と草永が駆《か》けつけてみると、室田は、ハンカチで、一本の矢《や》をつまみ上げたところだった。
「——へえ! 弓《ゆみ》矢《や》ですか。また、えらく古風だな」
と草永が珍《めずら》しそうに眺《なが》めた。
「いや、これはいわゆるアーチェリーの矢ですよ。あれは現《げん》代《だい》のスポーツでしょう」
「こんなもので……。しかし、まともにくらったら、やっぱり死にますか」
「そりゃそうです。先がわざと尖《とが》らしてありますよ。首《くび》筋《すじ》にでも当ったら、一《いつ》巻《かん》の終り、です」
文江は、ちょっと身《み》震《ぶる》いした。
「あと二、三センチで死ぬところだったんだわ!」
「しかし、この辺でアーチェリーなんてやってる人間は、多くないんじゃありませんか」
と草永が言った。
「同感ですな」
と、室田が肯《うなず》く。「もう一つ、問題なのは、文江さんをひこうとした車に乗っていた人物と、この矢《や》を射《い》た人物が同じだったかどうかという点です。——いかがです?」
文江は首をかしげた。
「たぶん……別でしょう。この傷《きず》を負って、ちょっと気が遠くなりかけましたけど、気を失うところまでは行きませんでしたから」
「その人物が車へ駆《か》け戻《もど》って、あなたをひこうとする時間はなかったわけですな」
「まず無《む》理《り》だと思います」
「すると相手は二人組か」
「ともかく」
と、室田が言った。「アーチェリーの趣《しゆ》味《み》のある人を捜《さが》すことですな」