ともかく、金子駅長が、この事《じ》件《けん》に、直《ちよく》接《せつ》関《かかわ》っているという可《か》能《のう》性《せい》は高くなった。
もつれからまる事件が、少しずつ見通せるようになって来て、文江は胸《むね》のふくらむのを覚えた。
「君は変ってるよ」
村への道すがら、草永が言った。
「あら、何が?」
「普《ふ》通《つう》の女《じよ》性《せい》は、恋《こい》とか、甘《あま》い物とかに胸をときめかせるんだぜ。ところが君と来たら、殺人事件に胸をときめかせている」
「仕方ないでしょ。性《しよう》分《ぶん》よ」
と、文江は言って、「何なら、東京へ帰ったら?」
と、草永を見た。
草永は苦《く》笑《しよう》して、
「そういう君に惚《ほ》れてるんだから、しようがないよ」
と、言った。
文江はちょっと笑《わら》った。内心、申し訳《わけ》ないと思わぬでもない。
草永は、仕事を放り出してここへ来ているのだ。いつまでも長びくようなら、本当にクビかもしれない。
「ねえ、あなた、無《む》理《り》なら東京へ帰ってもいいのよ、本当に」
「ここまで来てか? 冗《じよう》談《だん》じゃない。こっちにも好《こう》奇《き》心《しん》ってものはあるんだよ」
「じゃ、いいけど……」
と、文江は言った。
もちろん、内心は嬉《うれ》しいのである。
「——ねえ、ちょっと話があるんだが」
と、急に草永が言い出した。
「話なら、いつもしてるじゃないの」
「そうじゃないよ。——ちょっと座《すわ》らないか?」
「ここに?」
と文江は言った。
そこは道の真中だったからだ。
「どこか、その——喫《きつ》茶《さ》店《てん》はないのかい?」
「当り前でしょ」
と、文江は笑《わら》った。「じゃ、いいわ。ほら、その細い道へ入りましょう」
「奥《おく》に喫茶店があるの?」
「まさか! 神社があるの。静かで、人のいない、いい所よ」
「静かで人がいない、というなら、ここだってそうだぜ。ただ座る所がないだけだ」
「神社なら、小さな椅《い》子《す》ぐらいあるわ」
「よし、行くか」
と歩き出して、草永は、「席料は取らないだろうね?」
と訊《き》いた。
かなり、都会病に毒されているようである。
行ってみると、確《たし》かに、人のいない、静かな境内《けいだい》である。——普《ふ》通《つう》なら。
子《こ》供《ども》たちが駆《か》け回って遊んでいるのだ。
境内狭《せま》しと駆け回り、奇《き》声《せい》を発する子供たちに、目をやりながら、
「喫《きつ》茶《さ》店《てん》よりうるさいぜ」
と草永は言った。
「いいじゃない。子供の声って、私《わたし》、大《だい》好《す》きよ」
「しかし、話をするときは……」
「大声で言えば?」
「早く結《けつ》婚《こん》してくれ、と大声で話すのかい?」
「まあ……」
文江はちょっと真顔になって、「だめよ。この事《じ》件《けん》が片《かた》付《づ》くまでは」
「そりゃ分ってる。しかしね、実《じつ》際《さい》に、僕《ぼく》らは結婚してるも同然なんだし——」
「『同然』と結《けつ》婚《こん》は違《ちが》うわ」
「うん。しかし、お母さんもいい人だし、僕はますます、君と結婚しよう、と決心したんだよ」
文江は、ちょっと微《ほほ》笑《え》んで、
「ありがとう」
と言った。「嬉《うれ》しいわ。でも、やっぱり事件が片付かないとね」
「それでもいいから、約《やく》束《そく》してくれ」
「だって——いいじゃない、その後で」
「だめだ! 今、約束してくれ」
と、草永が食い下がる。
「どうして、今するの?」
と、文江は言い返した。
「君のお母さんと約束した」
「母と? 何を約束したの?」
「君と結婚の約束をすると約束した」
「ややこしいのね」
「ともかく、君のお母さんに誓《ちか》った手前、結《けつ》婚《こん》してくれないと困《こま》るんだ」
「勝手言って——」
「そりゃ分ってる。しかし、大体恋《こい》なんて、自分勝手なもんだよ」
「それこそ勝手よ」
「ともかく、いいだろ?」
と、草永はしつこい。
「いやだと言ったら?」
「いいと言うまで訊《き》く」
文江は笑《わら》い出してしまった。草永は大《おお》真《ま》面《じ》目《め》でそんなことを言うので、笑い出さずにいられないのである。
「すぐに笑うんだからね、君は」
と、渋《しぶ》い顔をしたと思うと、やおら、文江を抱《だ》き寄《よ》せてキスした。
とっさのことで、文江もされるままになっていた。
「ワーイ!」
と子《こ》供《ども》たちの歓《かん》声《せい》に、文江は、あわてて、草永を押《お》し戻《もど》した。
子供たちが、七人、八人、みんな集って来て、冷やかし半分の声を上げている。
「もう、あなたが変なことするから——」
と、文江は赤くなって、にらみつけた。
「いいじゃないか、婚《こん》約《やく》者《しや》同士なんだから」
子供たちが、
「やーい、もういっぺんやれ!」
などと拍《はく》手《しゆ》をしている。
「全くもう、今は、どこの子供もませてるんだから!」
と、文江は腕《うで》組《ぐ》みをして、言った。
「それより、返事はOKなんだろうね」
と草永が訊《き》いたが、文江の方は、何だか目をひかれたものがあるようで、
「あれは……」
と立ち上り、「ねえ、ちょっと、その子!——怒《おこ》らないから、こっちへ来てよ」
と、歩いて行く。
草永の方は肩《かた》すかしで、がっくり来た顔をしている。
「ねえ、草永さん! これを見て」
と、文江が手にしていた物を見せる。
それは一本の矢《や》だった。
「なるほど、これはアーチェリーの矢ですよ」
室田が、文江の手にした矢を見て言った。
「あの矢とはどうですか?」
「同じ物です。メーカーも同じ。違《ちが》うのは、先を尖《とが》らせていないことですな」
再《ふたた》び、神社の境内《けいだい》。もちろん一時間ほど後のことである。
「で、その子供がこれを拾ったというのは、どの辺です?」
と、室田が訊《き》いた。
「あっちです」
文江が先に立って歩いて行く。
木立ちの奥《おく》に、小さな古ぼけた石の仏《ぶつ》像《ぞう》が立っている。
「この近くだったそうです」
「なるほど。まさかこの仏《ほとけ》様《さま》に矢《や》を射《い》かけてたわけでもないでしょうが……」
室田は境内《けいだい》の方を振《ふ》り向いて、「的を外れてここへ落ちたとすると……ちょうどいい木はどれかな」
室田は、一番幹《みき》の太い木へと歩いて行くと、ぐるりとそれを一回りした。
「——これですよ」
「その木ですか?」
「ごらんなさい。幹の境内の側は、こんなに穴《あな》が開いている」
「本当だわ」
「この木に、的を貼《は》りつけて、練習したんでしょう」
「私を射《う》つために?」
「たぶん。——それでも、最初は的からそれて後ろへ行ってしまうものがあった。あの一本は、その中の、見付けられなかったものでしょう」
「弓《ゆみ》なんて、そんなに早く上達するもんでしょうか?」
「昔《むかし》やった人間ならね」
と室田は言った。「しかし、もとが上手《うま》くないとね」
「まさか白木さんが……」
「それは違《ちが》うでしょう。必ずしも、村の人が知っているとは限《かぎ》りません。それに、弓というのは、かなり優《ゆう》雅《が》な趣《しゆ》味《み》ですからね」
「しかし、わざわざ練習して、君を狙《ねら》うなんて、憎《にく》らしい奴《やつ》だな」
と、草永が憤《ふん》然《ぜん》として言った。
「どれくらい練習すれば、上手になるものかしら?」
「まあ普《ふ》通《つう》にやって一年だろうね」
「草永さん、やったことあるみたいなこと言うじゃない」
「もちろんさ。あるんだもの」
「——本当?」
文江は目を丸《まる》くした。
「ああ。なかなか上手《うま》いもんだぜ」
と、草永は言った。
「それはいい。ちょうど弓《ゆみ》を持って来たし、一つやってみて下さい」
と、室田が言うと、草永はためらいもせずに、
「いいですよ」
と引き受けた。
面食らったのは文江である。〈弓を引くへラクレス〉というのは知っているが、〈弓を引く草永〉では、せいぜい〈森《もり》永《なが》〉のキューピッドぐらいしか連想しない。
「じゃ、何か的をつけましょう」
室田が、近くの木の方へ歩いて行く。「どんなものがいいですか」
「名《めい》刺《し》がありますか」
「ええ、一《いち》応《おう》はね」
「それを一枚《まい》、枝《えだ》に突《つ》き刺《さ》しておいて下さい」
「——こうですか?」
と、室田が、くたびれた名《めい》刺《し》を、少し太目の枝の一本へと刺した。
「ええ、結《けつ》構《こう》です」
文江は、草永の方へ、
「ねえ」
と、そっと声をかけた。
「何だい?」
「私、後ろに立ってるけど……」
「それがどうした?」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》? 矢《や》に当らない?」
「おい、よせよ……」
草永はため息をついた。
弓《ゆみ》を取り、矢をつがえる。——文江は目を見《み》張《は》った。なかなか、さ《ヽ》ま《ヽ》になっているのだ。
きりりと引き絞《しぼ》って本当に——キリキリという音がした——指を離《はな》す。
ヒュッという音で、襲《おそ》われたときのことが一《いつ》瞬《しゆん》、文江の頭を走った。
ピシッと音がして、名《めい》刺《し》を刺《さ》した枝《えだ》が、みごとにふっとんでいた。
文江は唖《あ》然《ぜん》とした。
「お見事!」
と、室田が拍《はく》手《しゆ》する。
「だめだな、久しぶりだから」
と、草永は首を振《ふ》った。「本当は名刺だけ狙《ねら》ったんですよ」
「しかし、立《りつ》派《ぱ》な腕《うで》前《まえ》ですよ」
と、室田は感心の態《てい》。
「本当ね。びっくりしたわ」
と文江は言った。「人間って、何か取り柄《え》があるものね」
「どういう意味だい?」
と、草永が言った。
「ともかく、ここで練習していた人間がいるのは事実ですな」
室田は、そう言って、草永から弓《ゆみ》を受け取った。
「その子《こ》供《ども》は、矢《や》を拾っただけですか?」
「そう言ってましたわ」
「ふむ……。しかし、練習しようと思えば、明るくなくてはならない。そうなれば、一度くらいは子供の目に触《ふ》れてるんじゃないかと思いますがね」
「他《ほか》の子たちにも訊《き》いてみれば良かったですね」
「しかし、しゃべるかどうか。——子供は秘《ひ》密《みつ》を大切にするものです。まして相手がよその人では……」
よその人。
文江は、その言葉に、ちょっとショックを受けた。しかし、考えてみれば、あのとき遊んでいた子たちなど、自分が村を出たときには、まだ赤ん坊《ぼう》だったわけなのだ。
彼《かれ》らから見れば、「よそ者」には、違《ちが》いない。
「白木から、少し話をさせましょう」
と、室田は言った。「あれも自分なりに必死です。心当りの子供たちへ話してくれるでしょう」
「もし、練習していた人間がいるとしても、犯《はん》人《にん》とは限《かぎ》りませんね」
と、草永が言った。
「もちろん逮《たい》捕《ほ》はできません。しかし、ああいう場所で練習すること自体、危《き》険《けん》です。それを理由に調べることはできますよ」
室田が急ぎ足で行ってしまうと、文江と草永は何となく立ち止って、黙《だま》りこくっていた……。
もう子供たちの姿《すがた》もなくて、本当に二人きりだった。だが、却《かえ》って、何だか気《き》恥《は》ずかしいのである。
「——さあ行こうか」
と、草永が言うと、文江もホッとして、
「そうね」
と、草永の腕《うで》を取った。
こういうことは気楽にできるし、寝《ね》るのも平気で楽しんでいるのだが、いざ結《けつ》婚《こん》の話となると、尻《しり》ごみしてしまう。
要するに、結婚して失うものがあるということがやはり不安なのである。
いつか、そうなるかもしれないが、しかし……今は……。
「——あの倉庫ね」
駅まで来て、文江は言った。
半焼した倉庫が、ホーム越《ご》しに見える。
「やあ、お嬢《じよう》さん」
と、やって来たのは、庄司鉄男である。
「仕事はどう?」
「ちっとも憶《おぼ》えらんなくて」
と、鉄男がため息をつく。
こんな暇《ひま》な線で、憶え切れないのでは、東京の山手《やまのて》線あたりへ来たら、失神するに違《ちが》いない。
「ねえ、一つ訊《き》きたいんだけど」
と、文江は言った。「——今、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》でしょ?」
「ええ。後三十分来ません」
「あのね、私《わたし》が、ここに戻《もど》った日のこと、憶《おぼ》えてる?」
「七年ぶりにお帰りになったときですか。ええ、もちろん憶えてますよ」
「私、あの日の最終で東京へ戻ったの」
「あ、そうでしたね」
「あの後、私《ヽ》以《ヽ》外《ヽ》で、この村から発《た》って行った人はいたかしら?」
「お嬢《じよう》さんの後ですか?」
「ずっと後じゃなくて、次の日とか、その次ぐらいに」
「うーん」
と、鉄男は考え込《こ》んだ。「さて、誰《だれ》かって言われても……。年中、村の人はここを利用してますからね」
「でも、隣《となり》の町とか、そんなんじゃなくて、何日かの泊《とま》りがけで出かける人は、そういないでしょ」
「ええ。ああ、そういえばあのとき、誰かいたな」
「本当?」
「ええ。でも……」
「思い出せない?」
「いえ、憶《おぼ》えてますけど——」
「じゃ教えてよ」
「でも、お嬢《じよう》さんの後《ヽ》じゃありません」
「私の戻《もど》る前じゃ仕方ないの」
「いいえ。その日の夕方です」
文江と草永は目を見《み》交《か》わした。——文江が到《とう》着《ちやく》した日の夕方に、ここを発《た》った者がいるのだ!
文江の帰《き》郷《きよう》は、アッという間に村中に知れ渡《わた》っているはずだ。あわてて、その日の内に旅立つ者がいてもおかしくない。
もしかすると、その人間が、文江を襲《おそ》い、坂東を殺したのかもしれない。
「それは誰《だれ》?」
と、文江は勢い込《こ》んで訊《き》いた。
「宮里医《せん》師《せい》ですよ」
と、鉄男は言った。
「——参ったなあ」
と、草永と二人で、村の道を戻《もど》りながら、文江は言った。
「どうして? 昔《むかし》からこの村にいる医者なんだろ?」
「ええ。凄《すご》くいい先生なのよ。〈医は仁《じん》術《じゆつ》〉なんて古い言葉を実行してる、まれな人物なの」
「すると、どうも殺《さつ》人《じん》犯《はん》とは関係ないようだな」
「でも——一《いち》応《おう》、疑《うたが》ってかかるべきだと思う?」
「僕《ぼく》がその先生なら、訊《き》いてほしいね」
文江は肯《うなず》いて、
「そうね……。あなた、どこか悪くない?」
と言った。
「東京へ?」
と、宮里医《い》師《し》は訊《き》き返した。
「はい。私が帰ったとき、入れ違《ちが》いに行かれませんでしたか」
「さて、そうだったかな」
と、宮里は天《てん》井《じよう》を見上げて、「ひどい天井だ。雨もりがするんだぞ」
と言った。
「大変ですね」
「いいかね。確《たし》かに、その日、村を出て東京へ行ったよ。しかし、あんたが戻《もど》ったことは噂《うわさ》しか知らなかった」
「そうですか」
と文江は肯《うなず》いた。「あの——失礼だとは思うんですけど——」
「何だ?」
「東京にどんなご用だったのか、教えてもらえませんか?」
「お安いご用だ」
と、宮里は言った。「若《わか》い女を囲っとるんだ。それで月に一回、小《こ》遣《づか》いをやりに行くことに——」
「先生!」
と、文江は宮里をにらみつけて、「私は真《ま》面《じ》目《め》にうかがってるんです!」
「いや、すまん」
と、宮里は笑《わら》って、「実は、招《まね》かれとったんだ」
「何にですか?」
「ノーベル医学賞のパーティではないが、やはり医者の集りでな。金があるから、食い物がいいのだ」
「そのために東京へ?」
「そうとも。他に何かあるのか?」
「いえ、それならいいんです」
文江は、早々に宮里医院を出た。
何でもないのに注《ちゆう》射《しや》でも射《う》たれちゃかなわない、と、表で待っていた草永は、文江の話に、
「それじゃ、別に怪《あや》しくないじゃないか」
「でも一《いち》応《おう》調べなきゃ。——疑《うたが》うわけじゃないけどね」
「どうやって?」
「そのパーティのあった会場に訊《き》いてみる。主《しゆ》催《さい》がどこだったのか、そして、先生は本当に出席したのか」
「大分本《ほん》格《かく》的だね」
「そうよ。探《たん》偵《てい》は辛《つら》いわ。たとえ、愛する人でも、弓《ゆみ》の名手だから、疑《うたが》わなくてはならない」
「おい.冗《じよう》談《だん》じゃないぜ」
と、草永は言った。「——しかし、それが正しいかもしれない」
「え?」
文江が見ると、草永は、ポケットへ、何やらしまい込《こ》んでいる。
「どうしたの?」
「髪《かみ》をとかしたのさ」
「それがどうしたの?」
「鏡を見てたんだ。——今のお医者さん、我《われ》々《われ》をずっと見送ってたよ」
「へえ。じゃ、一体——」
「妙《みよう》だろ? それに、鏡の中で見ただけだけど、ずいぶん、暗い顔をしていたぜ」
そう。——文江も、そう感じた。
先生、どこかおかしい。だからこそ、調べる気になったのだった。
「——やっぱり事実だったわ」
と、文江は家の二階へ上って来て、言った。
「うん……」
草永は、あまりTVなんか見ないのに、ただ点《つ》けておきたいようだった。
「ホテルへ、行ってるわ、あの先生」
「そうか」
「でも一泊《ぱく》じゃないらしいの。一泊なら、滞《たい》在《ざい》費《ひ》も出るらしいけど、先生は少し長くいたらしいの。パーティの後、どこへ行ったかは不明」
「で、これからどうするんだ?」
「そうねえ……」
と、文江は考え込《こ》んだ。
「室田さんへ知らせないのか?」
「どう思う? あんまり気は進まないんだけど……」
と、ためらいがちに言っていると、
「失礼します」
と、うめの声がした。
「はい。どうしたの?」
「お電話でございます」
「すぐ行くわ」
——もう夕食も終え、時計は九時近くになっていた。
下へ降《お》りて、電話に出る。
「はい、文江です。——もしもし?」
「お、お嬢《じよう》さんですか」
「何だ鉄男君? どうしたの?」
「昼間の話なんですけど——」
「昼の、って……」
「お嬢さんの後、東京へ——」
「ええ。宮里先生ね?」
「実はも《ヽ》う《ヽ》一《ヽ》人《ヽ》いたんです」
「もう一人?」
「ええ。ついさっき思い出したもんですから」
「それは誰《だれ》なの?」
「ええ、あの次の日に東京まで行ったのは、二人いて——」
「二人も?」
「はい。僕もびっくりしちゃったんですよ」
「誰と誰?」
「それは——」
突《とつ》然《ぜん》、ドンという鈍《にぶ》い音が、送話口から伝わって来る。
「もしもし? どうしたの?——鉄男君」
——沈《ちん》黙《もく》。
「鉄男君!——鉄男君!」
カチリ、と音をたてて、電話が切れてしまっている。
あの音は? もしかすると、銃《じゆう》声《せい》だろうか?
そうなると、いても立ってもいられない。
文江はあわてて二階へと駆《か》け上った。