子供の時分の話(3)
日期:2022-11-01 16:54 点击:297
おじいさんは、どこをどう歩いているのだか私にはわかりませんでした。だいぶん長い間歩いたと思う時分に、おじいさんは屋台を下ろしました。そして、箱の中から私を外に出しました。このときよく見ると、おじいさんの顔は、まったく気味が悪いほど色が白く、目が光っていました。私はいつも村にやってくる無愛想な、あめ売りじいさんを思い出して、どれほど、その人のほうがいいかしれないと思いました。
「さあ、なんにも怖いことはない。私といっしょにくるのだ。」と、おじいさんは、屋台を木の下に置いたまま先に立って歩きました。私は、そこがどこだか、ちっともわかりませんでした。さびしい山の間で、両方には松の木や、いろいろな雑木のしげった山が重なり合っていました。そして、ただ一筋の細い路が谷の間についていました。
おじいさんについて、どんなところへ連れていかれるのかと心配しながら歩いてゆくと、はや、せみの松林で鳴いている声が聞こえました。日が暮れたら、どうなるのだろうと思うと、もう一足も歩く気になれなかったけれど、路がわからないので逃げ出すこともできなかったのであります。お母さんや、おばあさんが、私をたずねて、心配していなさるだろうと思うと、私は胸がふさがるような気がしました。
「さあ、この峠を越すと、もうじきだ。」と、おじいさんはいいました。
どんなところへゆくのだろうと、私はそればかり思われて、心配でなりませんでした。
やがて峠を越すと、三、四軒の古い粗末な家が建っていました。おじいさんは、その一軒の家に私を連れて入りました。すると、そこには肌ぬぎになって、大男が四、五人で、花がるたをしていました。そして、大きな目をむいて、けんめいにかるたをとっていました。
「こんな子供をつれてきた。」と、おじいさんは、みんなに向かっていいました。けれども、だれも相手にならずに、かるたのほうに気を取られて夢中になっていました。
「どれ、湯に入ってこよう。」と、おじいさんはいって出てゆきました。
そこは沸かし湯の湯治場であったのです。私は独りすわって、このものすごい室の内を見まわしていました。まだランプも、電燈もなく、ただ古ぼけた行燈が、すみのところに置いてありました。私は心で、これはきっと悪者どもの巣窟であると考えました。そして、この間に逃げ出さなければならぬと思いました。私は、よくそのときのことを覚えています。このとき、按摩が笛を吹いて家の前を通りました。
私は決心をして、男どもに気づかれぬように、そっと室を出て、下駄をはきました。そして、だれか見ていぬかと四辺を見まわしますと、勝手もとのところで、まだ若い女が、白い手ぬぐいをかぶって働いていました。私は、その女の人がなんとなくやさしい人に見えましたので、そのそばへいって、
「小母さん、どうか私を家へ帰しておくれ。」と、泣いてたもとにすがりました。すると、やさしそうなその女の人は、じっと私の顔を見ていましたが、
「知れるとたいへんだから、早く私におぶさり、あのおじいさんのいないまに逃げなければならないから。」と、女の人はいって、白い手ぬぐいをとって、その手ぬぐいで、私の顔をわからないように隠しました。私は、目をふさがれて、女の肩につかまり、その脊におぶさりますと、女はすぐにそこから音のしないように歩き出して、きたときの峠を下りました。
やがて女は二、三丁もくると、息をせいて、私を下ろして休みました。けれど、まだ私の目から手ぬぐいをはずしませんでした。
「わたしは、みんなに知れるとひどいめにあいますから、ここから帰りますよ。坊ちゃんは、いまあっちからくる馬方に頼んであげます。」と、女はいって、ガラガラと馬に車を引かせてきた馬方に、なにやら小声で女はいっていました。
「また、達者だったら坊ちゃんにあいますよ。けれど、だれかがとってくれるまで、独りで手ぬぐいをとってはいけませんよ。」と、女はいいました。私は、黙ってうなずきました。そしてなんとなく、このやさしい女に別れるのが悲しゅうございました。
私は車の上に乗せられて、長い間、知らぬ街道をガラガラと引かれていったのであります。どんなところを通ったか、どんな景色であったか、目を隠されているので、すこしもわからなかったのです。そして、あるところにきたときに、
「ここだ。」といって、馬方は車を止め、
「さあ下りた。そして、すこしここに立って待っているのだ。」といって、私を抱き下ろしてくれました。
私は、いわれるままに立っていました。そのうちに馬方は、馬を引いていってしまいました。ガラガラと車の音は、しばらく遠くなるまで私の耳に聞こえていました。
いつまで待っても、いつまで待っても、だれもきてくれなかったのです。私は、ついに悲しくなって泣き出しました。大きな声をあげて泣き出しました。すると、だれかきて、私の目かくしを取ってくれました。
見ると、それは私のおとうさんで、私は村はずれの大きな並木のかげに立っていました。
日は、もうとっくに暮れていたのであります。